宋史卷九十三 河渠志第四十六 河渠三 黄河下(汴河上)
元祐末~紹聖年間 北流閉塞と東流回復(元祐八年~元符三年)
- 元祐八年(1093年)二月、三省は北流での「軟堰」(仮設の堰)設置を都水監の上奏どおり認めたが、門下侍郎蘇轍は「軟堰は名目に過ぎず、実際には硬堰として回河を隠密に進める水官の意図がある」と反対、趙偁も「北流・東流・宗城決口の三つの利害が絡み合っており、目先の利のみを見て遠くの害を忘れてはならない」と論じた。五月、水官は梁村上下約の建設を進めたが漲水で潰決し、徳清が被害を受け、内黄・梁村・闞村も浸水、宗城決口が再開して魏店で北流が途絶した。
- 十二月、監察御史郭知章は現地視察の結果、水勢は東への流れが多く北への流れは二三割に過ぎないとして東流閉塞を提言。呉安持は魏店の北流一枝は既に断絶したが東西の堤防が未整備であるとし、梁村口の閉塞と青豊口以東の分水を求め、呂大防の同意を得た。范純仁・蘇転は反対したが、詔により都水監と河北路の関係官庁が協議することとなった。
- 紹聖元年(1094年)正月、転運使趙偁は「河は孟津から平地を全流してこそ河道をなす」として、禹の九河分流の故事を引き、近年の決壊はいずれも西方への決壊であり地勢が西に低いことを示すと論じ、闞村河門の開削と澶淵故道の浚渫を提案。大名安撫使許將は、梁村口を東流に、内黄口を北流に用いて他は閉塞し、春夏の水量を見て存廃を決める折衷案を提示、呉安持・鄭佑らに検討を命じた。三月、郭知章は東流への趨勢はもはや不可逆と主張。呂大防は六月に罷相。右正言張商英は、元豐間の南宮決壊の際に神宗が「神禹が生き返っても戻せぬ」と嘆いて以後、回河を禁じた経緯を述べ、元祐初年の文彦博・呂大防が方針を覆し呉安持を都水使者として東流に固執させたが九年間何の効果もなかったと批判、王宗望を後任とするも情勢は改善せず、公私の費用の実態解明を求めた。
- 七月、廣武埽が危機に陥り王宗望が救護に急派された。八月、呉安持らは、鞏縣東七里店から洛口まで十里足らずの区間に新河を開削し河水を南寄りに導く案を提示、王宗望も同意しつつ大堤の築造規模の大きさを憂慮した。十月、王宗望は闞村から栲栳堤まで七節の河門を全て閉塞し、金堤七十里を築いて全河を東の故道に戻したと報告、史官による記録を求めた。しかし東流の堤防はなお未整備で、被災した流民が京師の御廊や寺院に流入し、詔により還郷を促し賑済が行われた。
- 呉安持はまた澶州故道の開削による漲水軽減を提案。三省樞密院は、元豐八年以来の王令圖・呉安持・王宗望らの一連の回河策の経緯と現状の危険(東流の水位上昇による旧堤の損傷懸念)を整理し、闞村から海口までの逐一の検分を命じた。張商英は、都水監が北流閉塞を祝賀していることを疑問視し、王宗望・李仲が澶州故道の再開削(分水)を企図している動きを批判、呉安持の「漲水を見てから相度する」との弁明を「狡兎三窟」の逃げ口上と断じ、先朝の水官孫民先・賈種民の意見も踏まえた徹底審議を要求した。
- 元符二年(1099年)二月、北外都水丞李偉は各河門の閉塞と蛾眉埽の設置を提案し、河北・京東両路から正夫三万人の徴発を求めた。三月、澶州南の大河内に小河を開削し漲水を緩和する案も採用。六月末、内黄口で決壊し東流が断絶。八月、朝廷は「大河の水勢は十分に北流している」として河事を転運司に委ね州県の堤岸防護を命じ、左司諫王祖道は呉安持・鄭祐・李仲・李偉の処罰を求め、認められた。
- 元符三年(1100年)正月、徽宗即位。大赦により鄭佑・呉安持らは復官。中書舎人張商英は「祐らは神宗の北流の意向に背いて回河を主張した」として繳奏、水官の人選や堤防偏重策への批判も行った。三月、商英は河北都転運使兼提舉河事となり、古沙河口の復活・平恩四埽の回復・大河を古漳河へ導き入海させる案・御河西堤の築造・木門口の開削による徒駭河への分流という五案を提示した。四月、蘇村で決壊。七月、商英は河事から外され本職に専念、河事のため設けた官吏は廃止、北外都水丞司が再置された。
徽宗年間 黄河下流の攻防(建中靖國元年~靖康元年)
- 建中靖國元年(1101年)春、尚書省は蘇村漲水以来の全河漫流と淤積の状況を報告し西堤設置を提案、都水使者魯君貺と北外丞司に検討を命じた。左正言任伯雨は「河は中国二千年来の患であり、本朝ほど国力を注いで治水にあたった王朝はないが、近世ほど衆論に流されて河を人為に従わせようとした例もない」と述べ、元祐末の小呉決壊時の東流策を「奇功を狙った譎謀」と批判、堤防を寛やかに設け北流の自然な趨勢に従うべきだと主張、東流回復を唱える新たな議論の動きにも反対した。
- 崇寧三年(1104年)十月、大河の視察報告により、恩州以北で水勢は必ず低地へ流れるとし、直河開削による水勢の分散が決定された。崇寧四年(1105年)二月、蘇村の運糧河堤を正堤とすることで工費四十四万・料七十一万を削減。閏二月、深州武強・瀛州樂夀埽付近の塘泊決壊の危険に備え堤・儲蓄を増強。崇寧五年(1106年)、滑州に浮橋を設け城塁を築いて防護、陽武副堤も修復。
- 大觀元年(1107年)、陽武上埽第五鋪から第十五鋪まで直河を開削(長三千四百四十歩、幅八十尺、底幅五丈、深七尺、工数十万七千余、人夫三千五百八十二人、一か月で完成)。十二月、工部員外郎趙霆は南北両丞司管下の直河開削(延長八十七里、費用八九万緡)による治水効果を報告。大觀二年(1108年)、趙霆が夫役免除の議を上奏し、免夫銭を堤岸増築に充てる方式が春夫調発の恒久法として制度化された。同年、邢州の鉅鹿県が河決で水没し高地へ遷都、趙州の隆平県も移転。都水使者呉玠は御河沿岸の堤防脩築を報告。冀州で河が信都・南宮両県を襲った。
- 政和四年(1114年)、都水使者孟昌齡は漲水時の滑州浮橋の安定を報告し恩賞を受け、さらに大伾山付近に永久浮橋を設ける構想(大伾山・東北二小山を利用した三山架橋案)を献策、朝廷はこれを採用。政和五年(1115年)、提舉修繫永橋所を設置。徳音を発し河北・京東・京西路の民の労苦を慰撫、大伾山-汶子山間の浮橋には「天成橋」「榮光橋」(のち「聖功橋」に改称)の名が与えられ、御製の「磨崖」の銘が刻まれた。工事は湍流で漂溺者を出しつつ完成、昌齡は工部侍郎に昇進。
- 政和五年八月、大河の水流が三山付近に集中し通利軍の被害が懸念され、軍城の移転が決定。十月、冀州棗強埽の決壊で知州辛昌宗が武人不慣れとして王仲元に交代。十一月、孟揆は棗強上埽の決口修復の困難さと、御河東岸への堤延長案を上奏。政和六年(1116年)、冀州棗強県で「黄河清」(黄河の水が澄む瑞祥)が報告され祝賀、蔡京の提案で三山橋に「纘禹繼文」「銘功」の名が付けられた。政和七年(1117年)、恩州寧化鎮付近の堤防脆弱化への対応、河陽の浮梁修築なども行われた。
- 重和元年(1118年)、滑州濬州界の万年堤の樹木保護策、孟州河陽県第一埽の堤防補強。宣和元年(1119年)、蔡京らは南丞管下三十五埽の状況を「聖徳による安流」と称賀し、都城外の水害では起居郎李綱が「変異への感応」を説いたが、朝廷は「有司の失職」として李綱を左遷、水を決壊させ北の五丈河・梁山濼へ排水させた。宣和五年(1123年)、沿汴の欄河鎖柵の増設は民に不便として旧制に戻された。
- 靖康年間、汴河上流が盗賊により数か所決壊し、決口が百歩に及ぶものもあり、乾涸が月余に及んで南京・京師とも糧食が窮乏、都水使者が二十余日で修復し綱運が回復。八名の使臣を沿汴巡検に任じ、洛口から西水門まで分担して決溢を防察させた。
汴河の沿革(隋代~北宋初期)
- 汴河は隋の大業初年に開かれた通済渠に起源し、黄河から淮水へ通じた。唐代に廣濟と改名、宋の都・大梁では孟州河陰県南を汴の起点とし黄河の水を受けて淮泗に至る。毎年、江淮・湖浙から数百万石の米を漕運し、東南の物産・西山の薪炭も輸送、京師の民生を支えた。しかし黄河の流路は不安定で、河口は毎年改修を要し、民の労役負担と水害の危険が絶えなかった。
- 太祖建隆二年(961年)春、索水を旃然水・湏水と合流させ汴に入れた。同三年(962年)、沿汴州県に堤の植樹(榆柳)を命令。太宗太平興國二年(977年)、開封で汴水が大寧堤を破り民田を害し、淮孟の丁夫三千五百人で修復。同三年(978年)、寧陵県の決壊に宋亳の丁夫四千五百人、宋城県の決壊にも三千五百人を動員。淳化二年(991年)、浚儀県で決壊し、太宗自ら泥濘の中を視察、殿前都指揮使戴興の督励で修復、知県宋炎は逃亡し特赦された。至道元年(995年)、参知政事張洎に汴水の由来を調査させ、禹の治水事業(大伾・砥柱を経て九河に至る流れ)から隋の通済渠、唐の広済渠、徳宗朝の杜佑の漕運改革案(浚儀西からの新路開削、二千里の短縮)に至る歴史が詳述され、大梁が首都たる地理的必然性(羽檄・虎符による召兵の便)も論じられた。
- 真宗景徳元年(1004年)、宋州の決壊を一月で修復。同三年(1006年)、京城汴水暴漲に対応。大中祥符二年(1009年)、京師からの汴水氾濫で減口策を実施。同八年(1015年)、増水七尺五寸を超えれば禁兵三千を派遣する制度を制定、馬元方の提言により汴河中流の浚渫(幅五丈・深五尺)と、三~五年ごとの定期浚渫、中牟・滎澤県の減水河設置も決定。天禧三年(1019年)、鄭希甫が汴河両岸の陂水対策を上奏。
- 仁宗天聖三年(1025年)、水位低下により疏浚。同四年(1026年)、水位急昇で堤防が危機に陥り、京城西の賈陂岡地を護龍河へ排水。同六年(1028年)、康徳輿が陽武橋・萬勝鎮の斗門存廃を提案、これに従った。同七年(1029年)、農地侵食問題に対応。皇祐三年(1051年)、中牟の堤脩築。翌年、河渠司による定期浚渫が恒例化。旧制では水位七尺五寸を超えると楚兵を動員し防河にあたらせたが、頻繁な動員は兵の疲弊を招くため、日給を薄くする定額制に改めた。嘉祐六年(1061年)、汴水の浅渋に対応し應天府より上流を幅六十歩に狭めて木岸で締める案が、蔡京の反対にもかかわらず実施され、流路の直進化により漕運が改善した。
- 神宗熙寧四年(1071年)、訾家口の新開削(役夫四万・一か月)は三か月で早くも淤積し、旧口に戻す(役夫万人・四日)こととなった。応舜臣は新口の恒久利用と斗門・輔渠の併用を主張し、王安石も支持した。熙寧五年(1072年)、張方平(先の宣徽北院使)の旧論として、汴河が国の漕運の要であり、廣濟河・惠民河が既に衰退した以上、汴河を軽々に議論・改変してはならないとする警告が引かれる。
- 熙寧六年(1073年)、都水監丞侯叔獻は汴水を府界の閑田に淤灌する策を進言、王安石が強く推進したが、断流や公私船舶の座礁被害も生じた。十一月、范子奇は冬季に汴口を閉じず外江の綱運を直接汴に入れる案を提案。熙寧七年(1074年)、御史盛陶が二つの開口の不便を指摘、王琉琉の調査で訾家口の水量比が判明し、韓絳・呂惠卿の下で訾家口閉塞・輔渠存続が決定。熙寧八年(1075年)、侯叔獻は南京から泗州間の浚渫実績(深さ三尺~五尺、虹県以東の礓石地帯を除く)を報告、訾家口の運用のみで人夫・物料を大幅に削減できると上奏。まもなく大漲水があり汴口を一時閉鎖。熙寧九年(1076年)、都水に汴河の深浅を測量・記録させた。熙寧十年(1077年)、范子淵が濬川杷の利用を提案し、閉口後の淤積箇所を測量して春に浚渫を進める方針が採られたが、大きな効果はなかった。まもなく「清汴」(洛水を導いて汴河の水を清くする)の事業が始まった。