宋史卷四十六 本紀第四十六 度宗
出自と生い立ち
- 度宗端文明武景孝皇帝、諱は禥。太祖十一世の孫で、父は嗣栄王与芮、理宗の母弟である。嘉熙四年(1240年)四月九日、紹興府栄邸に生まれた。榮文恭王夫人全氏は「帝は汝の孫となるが汝の家のものではない」との神の夢告げを見、嗣栄王夫人銭氏は日光が東室を照らす夢を見、その夜、斉国夫人黄氏も神人が采衣で龍を懐に抱かせる夢を見た。生まれるとき室に赤光があり、資質は聡明で内に慧を秘め、七歳で言葉を発すると必ず道理に合っていた。理宗は歳久しく無子であったためこれを竒とし、後継として意を寄せた。
- 淳祐六年(1246年)十月己丑、名を孟啓と賜り皇姪として貴州刺史・入内小学に授けられた。七年正月乙卯、宜州観察使を授かり王邸で訓習。九年正月乙巳、慶遠軍節度使・益国公に封じられた。十一年正月壬戌、名を孜と改め建安郡王に進封。宝祐元年(1253年)正月庚辰、皇子に立てられ改名(禥)、癸未、崇慶軍節度使開府儀同三司・永嘉郡王に進封された。
- 二年七月、宗正少卿蔡抗が翊善を兼ね(資善堂創建時、理宗が堂記を制して王に賜った)、十月癸酉、忠王に進封、十一月壬寅、元服し字を邦寿と賜った。五年十月庚子、鎮南遂安軍節度使を授けられた。景定元年(1260年)六月壬寅、皇太子に立てられ字を長源と賜り、楊棟・葉夢鼎が太子詹事となった。七月丁卯、太子は東宮に入り、癸未に冊礼を行った。理宗の家教は極めて厳しく、鶏の初鳴で安否を問い、再鳴で回宮、三鳴で議事に参加、退いて講堂に入り講官の講経・講史を終日聴き、手から書巻を離さず、日暮れにも理宗の御前に赴くのが常であった。理宗はその日講じた内容を問い、答えられれば賜坐・賜茶、答えられなければ反覆剖析し、なお通じなければ怒りを重ねた。翌日には再講が命じられた。
- 二年正月丁丑、太学で孔子を謁し、張栻・呂祖謙の従祀を請うた。十二月癸卯、永嘉郡夫人全氏を皇太子妃に冊立。五年十月丁卯、理宗が崩じ遺詔により皇太子が即位、戊辰、皇后謝氏を皇太后と尊び生日を寿崇節とした。庚午、宰執百官が聴政を請うも許されず、辛未大赦。十一月壬申、宰執以下が視朝を請うも許されず、丁丑、七度目の請願でようやく丙戌に帝が聴政を始め、後殿に御し馬廷鸞・留夢炎が侍読、李伯玉・陳宗礼・范東叟が侍講、何基・徐幾が崇政殿説書を兼ねることを命じた。直言を求め、先朝の旧臣趙葵・謝方叔・程元鳳・馬光祖・李曾伯に上言を求め、王爚・洪天錫・湯漢らを召還した。三年の喪を躬行することとし、済王竑(元贈少師節度使、追封鎮王、諡昭肅)の墳制を増修した。嗣栄王与芮に武康寧江軍節度使・太師判宗正事を加封。辺防将士を撫労し、宦官李忠輔・何舜卿らの贓罪を弾劾・遠竄した。戊戌、儒臣が日々経筵に侍することを命じ、洪天錫が侍御史兼侍読となった。十二月辛丑、翌年を咸淳元年と改元し銅銭関子を行った。壬寅、贓吏・貢羨余を戒めた。甲辰、生日を乾会節とし、経筵講殿を熙明と名付け、馬廷鸞が大学衍義序を進読した。この歳、両浙・江東西・湖南北・広東西・福建・成都・京西・潼川・夔利の各路の戸数は569万6989、口数は1302万6532、大理寺の大辟(死刑)は33人であった。
咸淳元年(1265年)
- 正月、日食があった。丞相賈似道が理宗の山陵使を請うが許されず、詔で奨諭された。留夢炎が似道の留任を上疏、諫議大夫朱貔孫らも改命を請うが認められなかった。臨安の商税を免除。
- 二月、記事帳を置き諫官御史の言事を歳終に考課することとした。
- 三月、似道が機政を辞するが許されなかった。京湖制司が招鎮辺軍を創始。理宗が永穆陵に葬られた。
- 四月、四川都統昝万寿の雲頂山金堂峡の功に恩賞。寿崇節に臨安の官私房の僦地銭を免除。乾会節にも同様の免除。賈似道が太師を特授。景霊宮に幸し米八万石を京城民に給した。夔路都統王勝の李市沙平の戦功に恩賞。
- 五月、史彌遠に「公忠翊運定策元勲」の追贈。京城で減直糶米三万石を行い、以後米価高騰時の常例とした。錢二十万を在京の小民・殿歩馬司軍人・宿衛に賜与した。江萬里が参知政事、王爚が同知枢密院事権参知政事、馬廷鸞が端明殿学士簽書枢密院事となった。臨安府に平物価の銭三十万を給した。故成都馬歩軍総管張順の死事に五秩追贈。
- 六月、理宗御製の閣を「顕文」と名付けた。沿海制置使葉夢鼎が三度辞退を願うも許されず。理宗原廟殿を「章熙」と名付けた。
- 七月、太白晝見。参知政事江萬里が帰田を願うも許されず。夔路安撫徐宗武の開達石城の功に恩賞。窠柵(違法な私設牢獄)の禁止令。
- 八月、陳奕の沿江按閲軍防に恩賞。庐州・安慶方面での大元の攻勢に対し、范勝・張林・高興・孟興らが戦死、恩沢。
- 九月、洪天錫が工部侍郎兼侍読となった。司馬光・蘇軾・朱熹の後裔の登用が命じられた。呂文徳の京湖制帥策応三司官属に恩沢。吏部侍郎李常が崇廉恥・厳郷挙・択守令・黜貪汚・讞疑獄・任儒師・修役法の七事を上言。
- 十月、四川州県の鹽酒課を三年免除。田契税銭を四割減。江安州潼川安撫司の懐簡小富砦攻略に恩賞。
- 十一月、乃裕(少保保寧軍節度使致仕)が薨じ、贈少傅・追封臨川郡王。
咸淳二年(1266年)
- 正月、江萬里が四度帰田を願うも許されず、湖南安撫使兼知潭州となった。
- 二月、侍講范東叟が「進徳・立政・事天」の三要を奏上。湖南漕司の運上峡米の耗折逋直を免除。
- 三月、夔路の張喜らの開達軍功に恩賞。郡守は二年任期とすることとした。呂文徳への奨諭。
- 四月、侍御史程元岳の修徳論。信州布衣徐直方が史館編校に授けられた。
- 五月、諸節制将帥に軍実の充実・浮費節減を求めた。
- 六月、羅鬼国に化州印を給した。衢州の饑饉に諸藩邸が助糧。
- 七月、来年正月一日の郊祀の詔。礼部侍郎李伯玉が童子科の廃止を建議、咸淳三年から実施することとなった。
- 八月、安南国が登位を賀す使を送った。
- 九月、浙西安撫使李芾が台臣の弾劾で二秩削られ罷免。
- 十一月、両淮制置使李庭芝の武銳軍城屯駐に恩賞。趙葵(少師致仕)が薨じ、贈太傅、諡忠靖。
- 十一月、利東安撫使張珏の統制史炤らの広安大梁城回復に恩賞。
- 十二月、贪吏取締の厳令。理宗諡「建道備徳大功復興烈文仁武聖明安孝皇帝」廟号理宗を南郊で正式に奉冊。大理寺の歳終大辟は35人であった。
咸淳三年(1267年)
- 正月、郊祀・大赦。皇太后謝氏に「寿和」の尊号を上奏、冊寳礼成に伴い謝堂ら27人が一秩進み、高平郡夫人謝氏ら22人が特封。全氏を皇后に冊立。太学で孔子を謁し舎菜礼を行い、顔淵・曾参・孔伋・孟軻を配享、顓孫師を十哲に昇格、邵雍・司馬光を従祀に列した(雍は新安伯に封じられた)。礼部尚書陳宗礼・国子祭酒陳宜中が中庸を進講、恩沢が与えられた。夀和太后の親属謝奕修・郭自中・黄興在ら28人が昇補。
- 二月、広安軍を回復し寧西軍と改称。馬光祖が再度致仕を願うも許されず。賈似道に太師平章軍国重事の制(月に三度経筵、三日に一度都堂で治事)が定められた。徐宗武の卧龍山堡囿創設に遥郡団練使を授けた。
- 三月、李鑑・杜汝隆・夏喜の龍光砦戦功に恩賞。
- 四月、夀和太后の族戚に恩沢。全清夫に清遠軍承宣使提挙佑神観を授けた。張珏の合州春耕戦功への恩賞。
- 五月、日食があった。官員への俸給支給の遅延を戒める詔。
- 六月、呂文徳に少傅、馬光祖に参知政事、李庭芝に兵部尚書を加え、それぞれ留任とした。皇后受冊に伴い、全清夫以下15人が一転、全必槱以下17人が承信郎に補された。
- 七月、美人楊氏が淑妃に進封。榮王族姻に恩賞。張珏が正任団練使に、汪政の鄂城戦功に横行遥郡が授けられた。四川都統昝万寿の統制趙寳・楊立らの渠城糧輸送護衛に恩賞。権黎州張午が大青羗王帰義の招諭に成功。
- 八月、陳奕が沿江防禦を担当。大元との緊張により呂文徳らに防遏を厳命。太師武康寧江軍節度使判大宗正事嗣栄王与芮が福王に進封。
- 九月、田租の厚取りを禁ずる詔。邕州総統譚淵・李旺・周勝らが特磨・大理界を経て建水州を攻略。
- 十月、開州回復。
- 十一月、吳潜(左丞相、既に故)が光禄大夫を追復された。李鑑・夏喜・馮興らの均州武陽埧戦功に恩賞。
- 十二月、吕文煥が知襄陽府兼京西安撫副使に転じた。皮龍栄の丁大全への朋附による新命が寝され祠禄となった。
咸淳四年(1268年)
- 正月、呂師夔に紫章服・金帯を賜った。呂文徳の言により吕文煥・唐永堅が白河口・万山・鹿門山の北軍築城情報を報告、知郢州翟貴・両淮都統張世傑に備禦を厳命。故守合州王堅の廟額「報忠」を賜った。昝万寿が右武大夫左驍衞大将軍・金帯を賜った。印応雷が知慶元府兼沿海制置使となった。近臣の引退を戒める詔。
- 閏月、夏貴に金帯を賜った。
- 四月、湯漢が刑部侍郎福建安撫使を三度辞退。乾会節、謝方叔が先帝の遺品を私蔵し自らの功として称した罪で一秩削られ、盧鉞らの弾劾により四秩削られ観文殿大学士恵国公を奪われ宰臣恩数も追削された。
- 四月末、右正言黄鏞が兵農合一策(屯田・民兵)を上言するも取り上げられず。姚済(修武郎、死節)に廟額「忠壮」を賜った。
- 五月、枢密都承旨高達が侍衞都虞候の任を辞し孫虎臣が代わった。陳文龍以下664人が進士及第。
- 六月、賈似道が骸骨(致仕)を乞うも許されず。葉夢鼎が帰田を願うも許されず。浙西の公田荘の官募が改められ租三割減。
- 七月、氐宿から騎官星への星の急流。淑妃楊氏の親属楊幼節ら134人に恩沢。
- 八月、寧宗実録・理宗実録・御集日歴会要・玉牒経武要略・咸淳日歴玉牒の奉安に、賈似道・葉夢鼎・馬廷鸞にそれぞれ二官の恩賞。大元兵が白河城を築き襄樊の包囲が始まった。
- 九月、太白晝見。参知政事常挺が六度帰田を願い郡に赴くこととなった。
- 十月、日食があった。皇子憲が生まれた。四川州県の鹽酒課を三年免除継続。
- 十一月、南平紹慶六郡鎮撫使韓宣(峡州から江陵まで水陸で尽瘁して死)を王事に殉じた者として恩賞、致仕・承節郎・承宣使追贈。知江陵府陳奕の禆将周全・王徳らの西山南谷口・田家山の戦功に恩賞。
- 十二月、子鍠が生まれた。福建安撫使湯漢が再度辞退。常挺が卒し、贈少保。義役法を行った。夏貴が沿江制置副使兼知黄州となった。理宗実録の続修、張九成の孫張象先の学徳を表彰。建康府に南軒書院を建て張栻を祀った。汪立信が知潭州兼湖南安撫使留任。京湖総管張喜・趙萬らの石門坂堰戦功に恩賞。
咸淳五年(1269年)
- 正月、李庭芝が両淮安撫制置大使兼知揚州となった。京湖策応司参謀呼延徳らが蠻河で北兵と交戦。葉夢鼎が老退を請うも留任、少保判福州福建安撫使・信国公。馬廷鸞が参知政事兼同知枢密院事となった。
- 二月、江萬里が参知政事の辞退を願うも許されず。
- 三月、北帥阿术が白河から樊城を包囲。葉夢鼎が判福州福建安撫使の辞退を願うも許されず。
- 三月末、皇后帰寧の族婣に恩賞(全清夫以下56人が一秩進、咸安郡夫人全氏以下32人が特封)。大元兵が鹿門を築城。浙西六郡の公田の督租官設置。
- 四月、京湖都統張世傑が馬歩舟師で襄樊を援護し赤灘圃で戦った。江萬里が左丞相、馬廷鸞が右丞相兼枢密使となった。馬光祖が知枢密院事兼参知政事、呉革が沿江制置使となった。江萬里・馬廷鸞が辞退を願うも許されず。知渠州張資の蓬州界白土・神山・蒲渡等での戦功に恩賞。
- 五月、安西都統張朝寶・利東路安撫張珏が寧西軍に糧を護送し水磑頭で戦功。劉雄飛が知沅州兼常徳澧辰沅靖五郡鎮撫使留任。李庭芝が一秩進み、髙郵県夏世賢七世義居が旌表された。
- 六月、呂文福が知濠州兼淮西安撫副使となった。皇子昰が生まれた。李庭芝が淮東提挙の辞退を願うも許されず。
- 七月、馬光祖が観文殿学士守本官致仕を許可された。
- 八月、田租取立の巧計を禁じる詔。襄樊の将士に犒師の銭二百万を給した。
- 九月、明堂祭祀・大赦、寿和聖福皇太后への尊号加上。太師判大宗正事福王主榮王祀事与芮に食邑一千戸加増。
- 十月、皇子憲が検校太尉武安軍節度使封益国公となった。呂文徳が崇国公に進封、食邑七百戸加増。湯漢が顕文閣直学士提挙玉隆万寿宮兼象山書院山長となった。
- 十一月、少傅呂文徳が致仕を願い少師・衞国公を授けられ致仕許可。
- 十二月、呂文徳が卒し、贈太傅、諡武忠。范文虎が殿前副都指揮使となった。寿和聖福皇太后尊号冊寳礼成に伴い謝堂・謝光孫ら28人が恩賞。安南国王父陳日煚・国王陳威晃にそれぞれ食邑一千戸加増。大元兵が南新城を築城。
咸淳六年(1270年)
- 正月、李庭芝が京湖安撫制置使兼夔路策応使、印応雷が両淮安撫制置使となった。行成天暦を行った。福建安撫使に江萬里が任じられた。
- 二月、陳宜中が経筵で春秋を終篇まで進講し象簡・金御仙花帯・鞍馬を賜った。呂文福が淮西安撫副使兼知廬州となった。朱禩孫が四川安撫制置総領夔路転運知重慶府留任。
- 三月、日食があった。廉吏推挙の詔。贑・吉・南安境の防備のため四砦の設置。
- 四月、文天祥が崇政殿説書を兼ねた。
- 五月、呉革が沿江制置宣撫使となった。
- 六月、太極図説・西銘・易伝序・春秋伝序を士子に学ばせる詔。賈似道が疾を理由に辞退を上疏したが慰留された(「師相而不名」)。馬廷鸞ら省部台諫が留任を請う連署。子憲が薨じた。襄郢の水陸屯戍将士に銭二百万を給した。
- 七月、開州を回復し印章を改鋳。
- 八月、瑞安府楽清県の嘉禾により薦士を4名増加。田租の推排法における虚加を除く詔。監司・郡守・県令の考課制を整備。
- 九月、夏貴に一秩進み賈似道が十日に一朝することとなった。黄萬石が沿海制置使となった。台州で大水。
- 十月、范文虎が両淮諸軍を率いて襄樊会合、犒師銭百五十万を給した。台州に義倉米・豊儲倉米を発し振恤。
- 十一月、江東沙圩の租米を四割免除。殿歩馬諸軍の貧乏・陣没孤遺に恩賞。嘉興華亭両県の水害に租免除。都統張世傑が江防を統率。陳宗礼が資政殿学士守兼参知政事致仕を許された。
- 十二月、陳宗礼が卒し、贈七秩。唐全・張興祖らの襄陽への蝋書往復の功に恩賞。大元兵が萬山城を築城。
咸淳七年(1271年)
- 正月、子昰が左衛上将軍建国公に進封。湯漢・洪天錫を召還。贪吏を戒めた。紹興府諸暨県湖田の水害に租免除。
- 三月、和州・無為・鎮巣・安慶諸州の饑饉に屯田租穀十万石で振恤。平江府・吉州の饑饉にも義倉米で振恤。内外百司の吏額削減。建徳府にも米を送り済糶。
- 四月、広東提挙司の監銀を免除。陳宜中が福州福建路安撫使に転じた。
- 五月、進士張鎮孫以下502人が及第。衢州の饑饉に米二万石で振恤。
- 六月、四川制司の昝万寿の城修に恩賞。韓震が知江安州兼潼川東路安撫副使、馬堃が知咸淳府節制涪萬州に補された。台臣が朱善孫の督綱運の贓罪四万五千を弾劾、死罪を貸し配三千里。蜀閫の調度費に銭二百万を給した。
- 七月、諸暨県の暴風雷電に振恤。瑞州民及び流徙者の饑饉に義倉米一万八千石で振恤。陸九淵の孫陸溥が上州文学に補された。鎮江府から五河新城へ米十万石を輸送・積貯。隆暑のため襄郢屯戍将士に銭二百万を給した。撫州の黄震が本州の振荒における前榖城県尉饒立の遏糴を弾劾、饒立は二秩削られ武岡軍居住。洪天錫が三度召命を辞したが赴闕を勉諭された。紹興府の饑饉に米一万石で振恤。五河の築城が完成し安淮軍と名付けられた。大元が兵を会し襄陽を包囲した。
- 七月末、呉信・周旺の蝋書往復の功に官三転。湖南転運司が張栻の後人義倫を推挙し将仕郎に補された。四川制置使朱禩孫が水害・地震の連続被害を上奏し黜罷を請うが許されなかった。淮東制置印応雷の五河築城の功に一秩進、宣勞官属将士も推恩。
- 八月、日食があった。李庭芝への郢州調遣・犒師銭三百万給付。夏貴の沿江策応にも銭二百万給付。
- 九月、湯漢・洪天錫が五度召命を辞し華文閣学士に昇進した上で祠禄を得た。子㬎(後の恭帝)が生まれた。少傅嗣秀王与澤が薨じ、贈少師・追封臨海郡王。朱鑒孫が「羣経要略」を進呈。殿歩馬諸軍の貧乏・陣没孤遺に恩賞。孝弟の民の旌異が命じられた。
- 十二月、湯漢が端明殿学士致仕を許された。監司の按刑獄における擾民が戒められた。四川制司に銭三十万を給し犒師。謝方叔が恵国公致仕に叙復。士籍が初めて置かれた。廉能材の県令推挙が命じられた。
咸淳八年(1272年)
- 正月、崇儉の詔(宮禁での珠翠銷金の禁止)。三載考績・不数易官の制。子昺が生まれた。湯漢が卒し、諡文清。
- 二月、謝方叔が卒した。前知台州趙子寅(歿して帰るところなし)に直秘閣・没官宅・田三百畝を給し孤遺を養わせ廉吏を旌した。襄郢水陸戦戍将士に銭二百万で犒師。
- 三月、同知枢密院事権参知政事趙順孫が中大夫を授かった。
- 四月、知合州利路安撫張珏が宜勝山城を築城した。
- 五月、王爚が観文殿学士提挙万寿観兼侍読となった。大元兵が久しく襄樊を囲むも援軍が阻まれ、荆襄将帥を新郢に移駐させ、張順・張貴が死士三千を率い夜半に上流から輕舟で転戦し明け方に襄城に達したが、張順を失った。
- 六月、皮龍栄が衡州に徙された。章鑑が端明殿学士同簽書枢密院事同提挙経武要略、京湖制司に糴米百万石を襄陽に輸送・積貯させるため銭千万を給した。家鉉翁が権知紹興府兼浙東安撫提挙司事、唐震が浙西提点刑獄となった。王爚が新命を辞し赴闕を勉諭された。台臣が江西推排局の弊害・広東運司の銀場病民を弾劾し廃止された。四川制司に湖北から夔への糴運銭五百万を給した。
- 七月、静江府広西経略安撫使胡頴が祠禄を願い許可。
- 八月、日食があった。家鉉翁が赴闕を命じられた。紹興府六邑の水害に振恤。王爚が明堂大礼の陪祠を辞した。福建安撫陳宜中の職務が評価され宝謨閣待制に昇進。
- 九月、洪天錫が端明殿学士致仕を許可。明堂祭祀・大赦。朱禩孫が四川屯田使を兼ねた。洪天錫が卒し、贈五官、諡文毅。
- 十月、紹興府の五県大水に租減。右丞相馬廷鸞が十度骸骨を乞うも許されず。銭塘・仁和両県の田租二割減、会稽湖田租三割減、諸暨湖田租全免。陳宜中が給事中を兼ねた。
- 十一月、馬廷鸞が骸骨を重ねて願い観文殿学士知饒州を授かった。隆寒による殿歩馬司諸軍恩賞。陳奕が殿前都指揮使兼摂侍衛歩軍司馬軍司。馬廷鸞が知饒州祠禄を許され観文殿大学士鄱陽郡公提挙洞霄宮となった。阮思聡が枢密院に召還された。安南国王父子に食邑加増。
- 十二月、葉夢鼎が少傅右丞相兼枢密使となった。
咸淳九年(1273年)
- 正月、樊城が陥落し范天順・牛富が戦死。安豊統制金文彪・朱文広・王文顕らの戦功に恩賞。
- 二月、鄂州左水軍統制張順の戦死に寧遠軍承宣使追贈、立廟京湖「忠顕」。朱禩孫の防禦に奨諭。夏貴が検校少保となった。呂文煥が襄陽府を挙げて大元に降った。朱澗寺の来歸人馬に恩賞。
- 三月、賈似道が辺情逼迫を理由に督師を請うが許されず。四川制司言により、劉整の故吏羅鑑が整の遺した「取江南二策」(先に全蜀を取る策、清口桃源の城築の策)を上奏、淮東制司に清口の城築が命じられた。葉夢鼎が右丞相を辞退するも許されず。阮思聡が平江・鎮江・黄州の城池巡視を命じられた。方德秀・栗勇・楊林・胡巨川・劉全ら来歸人に恩賞。賈似道が李庭芝の言(吕文煥の襄陽降伏)を初めて上奏した。李庭芝襄帥吕文煥城降大元の報告。
- 四月、詔で范天順・牛富に贈官・恤家。汪立信が権兵部尚書京湖安撫制置使知江陵府夔路策応使湖広総領となり、銭二百万で犒師。葉夢鼎が致仕を勉諭され都堂治事へ。
- 四月末、趙溍が淮西総領兼沿江制置建康留守、黄萬石が召還された。乾会節の集英殿宴を停止し犒師に充てた。招信軍陳岩の祠禄辞退に対し詔で「今度の辺吏の失策により襄難があり将士は暴露の年月を重ねたが、朕は皆を励まし賞罰を明らかにする」との訓誥が発せられた。李庭芝が解罷を願うも赴闕を命じられた。
- 五月、樞密院都統制・副都統制の再設置。高達が寧江軍節度使湖北安撫使知峡州となった。忠州が咸淳府に昇格し刺史を置いた。李庭芝が召命を辞するも祠禄を得た。南歸人の戦功者に恩賞(楊春・薛聚成・陳君謨・周海・周興ら)。夏貴が侍衛馬軍都指揮使を兼ねた。汪立信に賞罰調用の便宜行事権が与えられた。
- 六月、呂師夔が叔父呂文煥の襄陽降伏に対し自ら罪を陳べ、静江府印を委ねて田舎に帰り事に赴くことを誓ったが許されなかった。黄萬石が権戸部尚書兼知臨安府浙西安撫使となった。四川制司朱禩孫の言により本司文臣選辟の権限拡大。呂文福(知廬州)も従兄文煥の降伏を恥じ罷免を願うが許されなかった。呂師夔が五度罷任を願い赴闕を命じられた。奸民の菴舎私設・保伍隠匿を禁止。劉雄飛が致仕を願った。孝感県丞闗応庚の辺防二十事の上言に武当軍節度推官兼司法を授けた。
- 六月末、馬軍司統制王信(襄樊陥落後に来帰)に官五転を給し殿前司正額統制とした。布衣林椿年らの辺防十数事上書。丞相似道の督視を求める上書は不許可とされ機速房に付された。
- 七月、給事中陳宜中が牛富への贈恤の不十分(范天順に一階差)を訴え、寧遠軍承宣使を追贈。前四川宣撫司参議官張夢発が賈似道に鎮漢江口岸・城荆門軍・峡州宜都の三策を上書したが取り上げられなかった。成都安撫使昝萬夀の碉門攻略・雅州州・眉州の防禦に恩賞。呂文福が呂文煥の降伏の実情について弁明を許された。李庭芝が来帰人呉旺らの証言に基づき呂文煥父子の降伏の経緯を上表。京湖制司言により劉儀・趙鐸の均州文龍崖立砦の防戦に恩賞。左蔵東庫蹇材望の辺事上書は取り上げられなかった。劉雄飛が卒し一官追贈。京湖制司の武器要請に応じ内軍器庫から犀利な武器を給し銭百万で修繕させた。四川制置朱禩孫が自らの月俸銀を犒師に充てることを願い出た。給事中陳宜中が范文虎の不力援襄の罪を正すことを求め、文虎は一官降官のまま知安慶府留任となった。安南国が方物を進め金五百両・帛百疋を賜った。汪立信は襄樊の禍の原因が范文虎・俞興父子の私怨(劉整の禍を招いた)にあると弾劾、俞大忠は除名循州拘管とされた。守関進義副尉童明の来帰・開州立功に恩賞。
- 閏月、陳奕が舟師を総統し鄂州・黄州の江防を担当。来帰人郭珍・張進・張春らに恩賞。師顕行が『皇朝文鑑』を進注。前臨安府司法梁炎午の攻守五策は取り上げられなかった。大理寺丞鍾蜚英が沿江堡隘の兵船を点検。知叙州郭漢傑が馬湖蛮王汝作・鹿巫蛮王沭丘の官軍協力を報告、恩賞。叙州総管曹順の軍にも立功推賞が命じられた。
- 七月末、権紹興府節制紫城軍義文栄鼎ら成都の役での戦死者九人に贈官。知達州趙章・知開州鮮汝忠・知渠州張資らが洋州を回復。張珏らが馬騣山を回復。
- 八月、権知均州徐鼎・総管盛聡が房州胡師峪・板倉で戦い、李鑑・王国材・熊権・馬宗明が落馬坪・白羊山で戦功、恩賞。
- 九月、章鑑が簽書枢密院事兼参知政事、陳宜中が同簽書枢密院事となった。昝萬夀が嘉定烏尤山を築城。洪燾が浙東安撫使、黄萬石が湖南安撫使となった。
- 十月、来帰人汪福・許文政に官五転。鎮巣軍・和州・太平州の諸将(査文・李文用・孟浩ら11人)の射湖岡・万歳嶺後港・焦湖北岸の戦功に恩賞。四川制司言により何炎・向失洋州の調・趙章らの部軍義復の功、洋州・呉勝堡両城の回復に恩賞、謝益・趙桂楫が知洋州・知巴州に正授された。
- 十一月、両淮制置使印応雷が二秩進み致仕、李庭芝が両淮安撫制置使として銭二百万を給された。子㬎(恭帝)が左衛上将軍嘉国公に封じられた。知秦州龔潗の王大顕らの水砦防戦・俘民奪還に恩賞。夏貴が淮西制置使兼知廬州、陳奕が沿江制置使兼知黄州、呂文福が知閤門事となった。李庭芝の請により淮東西制置が分けられ、庭芝が淮東を担い淮西策応使を兼ねた。
- 十一月末、夏貴が淮西安撫制置使に転じ銭百万を給された。李庭芝が淮西策応使の辞退を願うも許されず。知安豊軍陳萬の城西大澗口舟師戦功が旌された。
- 十二月、劉整の故吏施忠・熊伯明の鄂州漢口堡築城戦功に恩賞。江萬里が疾のため観文殿大学士提挙洞霄宮に転じた。留夢炎が知潭州兼湖南安撫使となった。鄂州沌口西岸堡が築かれた。京湖制司言により呉信(呂文煥に従い北往したが妻子と共に冒険して来帰)に恩賞。江東沙圩租米を四割減。章鑑が権参知政事の解免を願うも許されず。沿江制置使管轄四郡の夏秋旱澇に伴い屯田租二十五万石を免除。
咸淳十年(1274年)
- 正月、鄂州漢口堡が築城され、権総制施忠の部将熊伯明・知泰州龔某の天長県東横山・秦潼湖・青蒲口等の戦功に恩賞。江萬里が疾のため職を辞し観文殿大学士提挙洞霄宮となった。留夢炎が知潭州兼湖南安撫使となった。鄂州沌口西岸堡が築城された。京湖制司言により呂文煥に従って北往した吳信が妻子とともに来帰、恩恤。江東の沙圩租米四割減。
- 二月、趙順孫が福建安撫使となった。諸制閫の恩数厚遇に伴う告命・衣帯鞍馬の慎重な取扱いが命じられた。
- 三月、義倉米侵負七十四万余石を免除。
- 四月、子昺が左衛上将軍永国公に進封。沿江都統王達・黄侯の黄連寺戦功に恩賞。呂文福が常徳辰沅澧靖五郡鎮撫使知沅州となった。光州守陳岩・李全・許彦徳・何成・仰子虎らの牛市畈・丁家荘の戦功に恩賞。烏蘇蛮王が雲南の大元軍前に納款した。
- 五月、髙世傑が湖北安撫副使兼知岳州総統出戍軍馬となった。馬廷鸞が観文殿大学士知紹興府浙東安撫使の辞退を願うも許されず。張珏が馬騣・虎頭両山の築城を上表。
- 六月、寿春府の辺防措置に銀二万両。
- 七月、汪立信が致仕を願うも許されず。帝が福寧殿で崩じ、遺詔により太子㬎が即位。台臣が内医蔡幼習を弾劾し五秩削られ五百里の州軍に流された。
- 八月、大行皇帝に「端文明武景孝皇帝」の諡、廟号度宗を上奏。徳祐元年正月壬午、永紹陵に葬られた。
史論
- 賛に曰く、宋は理宗の代に至り疆宇が日々縮小し、賈似道が国命を執った。度宗はその統を継ぎ大失徳はなかったものの、権奸に拱手し衰弊はますます甚だしくなった。当時の情勢を考えるに雄才睿略の主でなければその墜緒を振り起こすことは難しかったであろう。歴数(天命の巡り)には帰趨があり、宋の祚が尽きて亡国となったのが度宗自身の代でなかったことは、なお幸いというべきである。
(宋史巻四十六度宗紀の記事に大きな脱落・欠字は確認されなかった。)