宋史卷四十四 本紀第四十四 理宗四
宝祐二年(1254年)
- 正月、大元が利州・閬州を攻めた。湘潭県の民陳克良の孝行が旌表された。
- 二月、太常が秦檜の諡を釐正し、帝は「諡は繆狠でよい」と述べた。利州統制呂達が戦死し四秩追贈、二子に恩沢。
- 三月、余晦が四川屯田使を兼ねた。饒州布衣饒魯が科挙に就かず経学に専念したことにより廸功郎饒州教授に補された。故直華文閣李燔(朱熹門人)に文定の諡。
- 四月、賈似道が城郭図を進呈。辺兵の困窮を憐れみ閑田を分給する詔。徐清叟は知枢密院兼参知政事、董槐は参知政事となった。
- 六月、臨平鎮税場を廃止。四川制司の言により合州広安軍の防戦で王堅・曹世雄らに恩賞。侍御史呉燧らが故蜀帥余玠の聚斂七罪を弾劾、その子如孫が帑庾の蓄えを竊取し帰ったとして家財を簿録することとした。李曾伯が資政殿学士四川節制留任。利州の王佐が孤塁を堅守、降将南永忠の勧降を叱責、進官一秩。隆慶教授鄭炳孫は南永忠への降伏を拒み妻子とともに自縊、直秘閣を贈られた。
- 閏六月、董槐が蜀事の困難を訴え宣撫の任を願うが、帝は「経理西事は廟堂にあるべき」と答えた。蒲擇之が権四川制置司事となった。
- 七月、故蜀帥余玠の鎮撫の失敗を理由に、その家の蜀財を輸出させ将士を犒い民を振わせることとし、辺郡田租を三年免除した。思・播両州の守臣田応庚・楊文の防戦に恩賞。賈似道の樞密行府を賞した。
- 八月、前知閬州王惟忠を大理獄に付し台臣が監鞫することとなった。徐清叟が機務辞退を願うが許されず。謝方叔らが玉牒日歴会要・七朝経武要略・中興四朝志伝を進呈。
- 九月、明堂祭祀・大赦。西太一宮での祈祥を起居郎牟子才が諫止。外戚の請願を戒める詔。山陰・蕭山・諸暨・会稽四県の水害に田租を免除。
- 十月、謝方叔らが「宝祐編吏部七司続降条令」を進呈。皇子禥が忠王に進封。王惟忠が都市で斬られた。余玠の資政殿学士が追削され、子の余晦(刑部侍郎)の告身が奪われた。
- 十一月、忠王の冠礼。大元が光化旧治を築城。
- 十二月、保甲法・自実法が行われた。四川苦竹隘で周栄が捕らわれ、段元鑑を隘に誘い込む密約に応じず、馬徽・白端とともに戦死。安西堡の五ヶ月の防戦での居民の協力に恩賞。
宝祐三年(1255年)
- 正月、巴州の戦功に恩賞、均州龍山を築城。起居郎牟子才が元夜の華美な燈会を諫言、帝は納れた。宗子の命名法を定めた。
- 二月、右千牛衛上将軍乃猷が蘄州防禦使を授かった。給事中王埜が「大元とは深い仇はないのに入洛の師で兵端を開いた」と趙楷・全子才・劉子澄らの軽率を批判、全子才・劉子澄の祠禄を罷免することとなった。広陵堡城を回復。
- 三月、四川調度に緡銭二百万を発した。祠牒・度牒・新会・香塩の告身により両界旧会子を収換した。
- 四月、邵武の寇が平定。江萬里が福州知事福建安撫使となった。
- 六月、李全の子李松夀が旧海城を修葺し海道を窺ったが、賈似道が調兵して破った。洪天錫が内官盧允升・董宋臣を弾劾するが取り上げられず遷太常少卿となった。王埜が御史の言により給事中を罷免され端明殿学士洞霄宮提挙となった。
- 七月、呂文徳が知鄂州として鼎澧辰沅靖五州を節制した。謝方叔・徐清叟が御史朱応元の弾劾で罷免。二省枢府の機政を董槐・程元鳳が日を輪番して判事することとなった。
- 八月、董槐が右丞相兼枢密使、程元鳳が簽書枢密院事権参知政事、蔡抗が端明殿学士同簽書枢密院事、徐清叟は資政殿学士提挙玉隆万寿宮となった。馬光祖が和州・無為・安慶三郡の屯田使を兼ねた。鄭性之が薨じた。福建安撫江萬里が台臣李衢の弾劾で罷免され武夷山冲祐観提挙となった。応㒡が薨じた。
- 九月、徐清叟は資政殿学士洞霄宮提挙となった。陳顕伯・皮龍栄が資善堂翊善・賛読を兼ねた。権中書舎人陳大方が劉子澄の端平入洛の師での逃亡が二十年来の国患の原因であると弾劾、祠禄が罷免された。
- 十一月、熒惑が太微垣上相星を犯した。
- 十二月、嗣濮王善奐が薨じた。少傅節度使与懽が薨じ、贈少師・追封奉化郡王。
宝祐四年(1256年)
- 正月、謝方叔が奪職・罷祠、謝修は三秩削られ勒停。史嵩之は観文殿大学士金紫光禄大夫永国公致仕となった。
- 三月、少師嗣栄王与芮が太傅に進んだ。
- 四月、程元鳳が参知政事、蔡抗が同知枢密院事、賈似道が参知政事留任、李曾伯は資政殿大学士福建安撫使、呉淵は二秩進み留任、呉潜は沿海制置使判慶元府、馬光祖は煥章閣直学士留任となった。
- 五月、先聖孔子五十代孫孔元龍が迪功郎初品官を賜った。羅氏鬼国が大元軍の大理経由での侵攻情報を報告、思・播両州に銀万両を給し羅鬼の結約を促した。徐清叟は奪資政殿大学士罷祠禄、王埜は奪端明殿学士罷祠かつ執政恩数を褫奪された。
- 六月、進士文天祥以下601人が及第。朱禩孫が太府寺簿知瀘州兼潼川路安撫として瀘・叙・長寧の辺防を任された。浙江の堤が完成。
- 七月、董槐が罷免され、丁大全が台諫を通じて激しく弾劾、隅兵に夜半に槐を府外に出させたため三学生が抗議上書したが、董槐は観文殿大学士提挙臨安府洞霄宮となった。程元鳳・蔡抗が輪日判事することとなった。知叙州史俊が大元兵と十三合戦い、官三転。
- 七月末、程元鳳が右丞相兼枢密使、蔡抗が参知政事、張磻が端明殿学士簽書枢密院事となった。
- 八月、程元鳳が正心・待臣・進賢・愛民・備選・守法・謹微・審令の八事を上疏。
- 九月、西南蕃の吕氏・蛮目寧名天兄弟らが烏蘇蛮と協力し防禦、承信郎に補された。邕州知事程芾が貪暴の罪で二秩削られ罷免。監察御史朱熠が官吏増加と冗員による財政圧迫を上疏、帝は納れた。
- 十一月、荆襄・京湖の戦功に恩賞。四川の民の負担を憐れみ制司の誅求を戒める詔が出された。太学武学生劉黻ら八人・宗学生与伯ら七人が処罰された(拘管等)。張磻が同知枢密院事、丁大全が端明殿学士簽書枢密院事、馬天驥が端明殿学士同簽書枢密院事となった。羣臣を戒め、開国以来の勲臣の裔で称すべき者を挙げるよう命じた。参知政事蔡抗が擅に去国し留任させたが、林存の言により命が寝された。
- 十二月、大元が棗陽を築城。張磻が参知政事を兼ね、荆閫呉淵らの功に恩賞。
宝祐五年(1257年)
- 正月、趙葵が少保寧遠軍節度使京湖宣撫使判江陵府兼夔路策応大使・衛国公となった。賈似道が知枢密院事留任、呉淵が参知政事、李曾伯が荆湖南路安撫使兼知潭州となった。呉潜・趙与&KR0696;がそれぞれ官一転。呉淵が薨じ、贈少師、諡荘敏。
- 二月、四川嘉定の戦功に恩賞。賈似道が両淮安撫使、趙葵が湖広総領財賦、余晦が淮西総領財賦を兼ねた。思州三隘の築城。布衣余一飛・高杞が襄陽備禦策を上言、趙葵に実施させた。
- 四月、襄陽安撫高達が白河戦功で右武大夫遥郡防禦使に転じ、王登も沮河督戦の功で直秘閣に。大元兵が苦竹隘を攻め、京湖に応援を命じた。
- 閏四月、程元鳳らが玉牒日歴会要経武要略および中興四朝志伝を進呈。徐敏子に邕・宜の防備を命じた。呂文徳が知靖州留任。
- 五月、城荆山・懐遠軍を置いた。賈似道が二転。
- 六月、劒門塁を回復、蒲擇之ら官二転、朱禩孫・蒲黼・楊大淵・韓勇に官四転。夏貴が正任吉州刺史帯御器械鎮江駐劄都統制知懐遠軍となった。
- 八月、光化軍が戦功を上奏。台州で火災。謝方叔・蔡抗の祠禄が回復。京城で火災。張磻が参知政事、丁大全が同知枢密院事兼権参知政事となった。史嵩之が薨じ、贈少師、諡荘粛。
- 十一月、李曾伯が広南節制の任を兼ねた。安南国が奨諭を受けた。
- 十二月、李曾伯は資政殿学士湖南安撫使兼広南制置使に移司静江府。
宝祐六年(1258年)
- 正月、丁大全が参知政事兼同知枢密院事、林存が権参知政事を兼ねた。李曾伯は広西経略を罷免され広南制置大使兼知静江府となった。
- 二月、馬光祖が端明殿学士京湖制置使知江陵府兼夔路策応湖広総領財賦兼屯田事となった。
- 三月、馬光祖が呂文徳・王鑑・王登・汪立信らを制司参議官・準備差使に充てることを請い許可された。
- 四月、久旱による避殿減膳。程元鳳らが解機務を願うが許されず。羣臣が正殿への復帰を三度請願。臨安府知事の吕好問が黄州の役で貪酷誤事の罪で職を褫奪された。程元鳳が罷免され判福州、のち洞霄宮提挙。趙葵が福建安撫使を三度辞し醴泉観使兼侍読を授かった。
- 五月、丁大全が右丞相兼枢密使、林存が同知枢密院事兼権参知政事、朱熠が端明殿学士簽書枢密院事となった。襄樊の解囲の功に高達・程大元・李和らへ恩賞。夏貴らが官二転、河南安撫使を兼ねた毛興も右武大夫留任。
- 七月、朱禩孫が一秩進み易士英が閤門宣賛を帯びた。蜀郡劉整が戦功を上奏。知平江府余晦は蜀での敗績・誤国・欺君の罪で寶章閣待制を奪われ罷免。福建漕臣高斯得の贓罪も厳しく処罰。
- 八月、上流の鎖江防禦を厳命。倭船入界の禁を申嚴。
- 十月、蜀の将帥の戦功に恩賞方針。俞興が四川制置副使知嘉定府兼成都安撫副使となった。楊礼の安西堡防戦に恩賞。大元兵が通泰州を攻めた。劉雄飛の横山の戦功に恩賞。
- 十一月、林存が罷免され資政殿学士知建寧府。潁州の戦功に恩賞。余玠の官職が追復された。給事中張鎮が徐敏子(曩帥広右で嗜殺黷貨)を弾劾、隆興府にて羈管留任。
- 十二月、朱熠が同知枢密院事兼権参知政事、饒虎臣が端明殿学士同簽書枢密院事、賈似道が枢密使両淮宣撫使となった。東海失守に対し賈似道は自ら功を以て贖罪することとなった。翌年を開慶元年と改元。大元兵が馬湖を渡り入蜀、馬光祖が峡州六郡に、向士璧が紹慶府に移司した。
開慶元年(1259年)
- 正月、大元兵が忠・涪を攻め夔境に迫り、蒲擇之・馬光祖に便宜行事を命じた。呂文徳が黄平を築城し蛮地を深く撫輯した功で三秩進んだ。謝方叔の帥蜀誤国が弾劾され、その子謝修が広南に竄された。余晦の壊蜀による幕属李卓・王克己の悪行も弾劾された。
- 二月、蜀帥蒲擇之が成都を攻めきれず、大元兵が利州・隆慶・順慶を破り、閬・蓬・広安の守将が相次いで降伏、涪州藺市に浮橋を築いた。李庭芝が権知揚州となった。
- 三月、王登(京西提刑、援蜀の功を果たせず没)に五秩追贈。蜀の死節臣(雲頂山諸処将士)を褒録することとなった。呂文徳が保康軍節度使四川制置副使兼知重慶府となった。
- 四月、段元鑑・楊礼(城堡を守り王事に殉じた)にそれぞれ奉国軍節度使を追贈し立廟。王堅(合州守将)の忠誠が称えられた。
- 五月、開慶通宝銭を行った。進士周応炎以下442人が及第。呂文徳の兵が重慶に入り、四川軍民に忠勇の効死を奨励する詔が出された。
- 七月、蔡抗が薨じ、贈少保、諡文肅。楊文・田応庚の防戦に恩賞。
- 八月、濠州統制張斌が柘塘の戦で戦死、三秩追贈。大元憲宗(モンケ)皇帝が軍中で崩じたとの報が入った。呉潜が観文殿大学士判寧国府特進崇国公となった。
- 九月、賈似道が大元兵の黄州渡江を上奏、中外震動した。緡銭・銀・帛を宣司・沿江副司に給し犒師。趙葵が特進観文殿大学士封衛国公判慶元府沿海制置使となり、上流応援のため沿江制置副司に兵を趣かせた。
- 十月、丁大全が罷免され観文殿大学士判鎮江府となった。呉潜が左丞相兼枢密使・相国公、賈似道が右丞相兼枢密使・茂国公となった。合州の囲みが解け、王堅は寧遠軍節度使左領軍衛上将軍興元府駐劄御前諸軍都統制兼知合州節制軍馬・清水県開国伯に進封された。呂文徳は検校少師、李遇龍は権刑部侍郎進三秩となった。避殿減膳・徹楽が命じられ、四川の再興のため軽徭薄賦・撫摩恤軍を促す詔が出された。知江州袁玠が贓罪により五秩削られ南雄州に竄された。丁大全は落職罷任。
- 十一月、朱熠が権知枢密院事、饒虎臣・戴慶炣が権参知政事となった。趙葵が少保観文殿大学士江東西宣撫使・益国公となり饒・信・袁・臨・撫・吉・隆興の官軍民兵を節制する権限を得た。
- 閏十一月、内帑緡銭五千万で内外諸軍を犒った。向士璧が湖南制置副使留任。陶林・文通らの戦功に恩賞。呂文徳が検校少保京西湖北安撫使兼制置使知鄂州兼侍衛馬軍都指揮使となった。皮龍栄が資善堂翊善を兼ねた。
- 十二月、賈似道が言により鄂州の囲みが解け、論功行賞。翌年を景定元年と改元。呉潜が許国公、賈似道が粛国公にそれぞれ改封された。
(宋史巻四十四理宗四の記事に大きな脱落・欠字は確認されなかった。)