宋史卷四十三 本紀第四十三 理宗三

淳祐四年(1244年)

  • 正月、辺将が擅に興兵し虐殺することを戒める詔と、帝製の訓廉・謹刑の二銘が中外に示された。李鳴復は参知政事、杜範は同知枢密院事、劉伯正は簽書枢密院事となった。余玠は華文閣待制四川安撫制置使知重慶府兼四川総領財賦、李曾伯は宝章閣直学士淮東安撫制置使知揚州兼淮西制置使となった。四川帥臣余玠の三十六戦の功により推賞が命じられ、余玠は四川屯田使を兼ねた。
  • 二月、封椿庫の銭各十万を出し、両淮京湖四川制司に交兵の遺骸を義塚として埋葬させた。
  • 五月、余玠が利州閬中城大獲山・蓬州城営山渠州城大良平・嘉定城旧治・瀘州城神臂山などの築城が順調に進んだと上奏、瀘州知事曹致大が特に功があったとして遥郡刺史を帯びた。雄威軍都統制楊价は播州の防戍の労により右武大夫文州刺史に転じた。大元兵が寿春府を包囲、呂文徳が水陸諸軍を節制し囲みを解いた功で枢密院に召還され、緡銭百万が両淮制司に発せられた。守闕進勇副尉桂虎ら寿春防禦に功のあった者に恩賞。
  • 六月、呂文徳は依旧侍衛馬軍副都指揮使兼淮西招撫使知濠州。進士留夢炎以下424人が及第。安豊軍の解囲将士に恩賞。夀春の水軍将士の守城の功にも恩賞。
  • 七月、招収した淮に沿う失業壮丁を武勝軍とし五千人を額とした。永州東安県の盗を鎮圧した吴龍・鄭存らに恩賞。
  • 九月、右丞相史嵩之は父の病で謁告を許され、范鍾・劉伯正が暫時相事を代行した。史彌忠が卒し、贈少師封鄭国公、諡文靖。史嵩之が起復右丞相兼枢密使に復した。京湖制司の言により李福らの申・蔡州西平県城壁・馬家等砦の攻略に恩賞。将作監徐元傑が史嵩之の起復に反対する上疏をしたが帝は許さなかった。
  • 十月、慶元府守臣に史嵩之の召還を敦諭させたが史嵩之は控訴し許されなかった。
  • 十二月、范鍾は左丞相兼枢密使、杜範は右丞相兼枢密使、游侣は知枢密院事、劉伯正は参知政事兼簽書枢密院事となった。史嵩之には喪に服すことが許された。趙葵が同知枢密院事となり、鄭清之は少保・観文殿大学士醴泉観使兼侍読・衛国公となった。

淳祐五年(1245年)

  • 正月、庶政刷新・中原遺民の綏撫を命じる詔。李性伝は簽書枢密院事兼権参知政事となった。
  • 二月、范鍾らが玉牒日歴および孝宗光宗御集経武要略寧宗実録を進呈。呂文徳は三秩進み、羊洪は二秩進んだ。
  • 四月、杜範が薨じ、贈少傅、諡清献。余玠の言により、権巴州何震之(守城戦死)に三秩追贈。京湖制司言により、鄧州鎮平県霊山・順陽・鉄橛峪の戦で王雲ら六人が重傷死し、王雲は三秩を贈られ二子は承信郎に。李曾伯・余玠・董槐・孟珙・王鑑の軄事修挙が賞された。
  • 五月、呂文福・夏貴の戦功に恩賞。沿江湖南江西湖広両浙の制帥漕司及び許浦水軍司に輕捷戦船千艘・遊撃軍壮士三万人の整備を命じた。
  • 七月、鎮江・常州の亢旱により流民を安集。
  • 九月、京湖制司言により、劉整らが鎮平県城を陥落させ、亰湖制置司言により広陽を焼き払い霊山に至る戦功があった。
  • 十一月、明堂祭祀・大赦。
  • 十二月、劉雄飛らが夀春守城の功で恩賞。游侣を右丞相兼枢密使、鄭清之は少師奉国軍節度使に。趙葵が知枢密院事兼参知政事、李性伝が同知枢密院事、陳韡が参知政事を兼ねた。来歳正旦に日食予告があり、避殿減膳が命じられた。

淳祐六年(1246年)

  • 正月、日食があり、国用所を設置し趙与&KR0696;を提領官とした。
  • 二月、范鍾は帰田を願い、観文殿大学士醴泉観使兼侍読を授かるも再度辞し洞霄宮提挙となった。
  • 四月、丘岳・賈似道がそれぞれ両淮・蘄黄屯田副使を兼ねた。朱熹門人の胡安定・呂燾・蔡模を廸功郎本州州学教授とした。
  • 閏四月、李曾伯が台諫の弾劾を受け落職・祠禄を罷免された。呂文徳言により、両淮の統制汪懐忠らの趙家園の戦、夏貴らの安豊救援の戦の功で恩賞。
  • 五月、余玠の言により、北兵の四道入蜀への防禦の功で恩賞。
  • 六月、陳韡は参知政事兼同知枢密院事となった。台臣の弾劾により李鳴復・劉伯正が処罰された(鳴復落職罷宮観、伯正削一秩)。
  • 七月、泉州の民謝応瑞が私財で糴米し飢民を救った功で進義校尉に補された。呂文徳言により、寿春城救援の黄家穴の戦で孫琦・呂文信・夏貴らに功があり恩賞。
  • 八月、文士劉克荘が進士出身を賜り秘書少監兼国史院編修官実録院検討官となった。何叔丁・楊仁挙ら普州で北兵に殺害された家族への贈恤。
  • 九月、賈似道は敷文閣直学士京湖制置使知江陵府兼夔路策応使となった。孟珙が薨じ、贈少師。
  • 十月、少保嗣栄王与芮の子に孟啓の名を賜り貴州刺史とした。
  • 十一月、右丞相游侣が帰田を五度願うも許されなかった。四川に侵入した大元軍で、前四川制置使陳隆之一家数百口が殉難、徽猷閣待制を贈られ立廟。史季儼・楊戡の子にも贈官。
  • 十二月、史嵩之が致仕を許され金紫光禄大夫観文殿大学士永国公致仕となったが、台諫の弾劾で「無父無君、醜声穢行」として遠竄を求められた。

淳祐七年(1247年)

  • 正月、史嵩之の致仕が既に実施されたことを述べる詔。資善堂を建て孟啓を宜州観察使とし小学で学ばせた。
  • 二月、淮安主簿周子鎔が捕虜となりながら蝋書で辺情を報じ生還、朝奉郎に昇擢。貴妃賈氏が薨じた。
  • 四月、王伯大が簽書枢密院事、呉潜が同簽書枢密院事となった。
  • 五月、鄭清之が太傅右丞相兼枢密使・越国公、游侣は罷免され観文殿大学士醴泉観使兼侍読、趙葵は枢密使兼参知政事として江淮京西湖北軍馬を督視、陳韡は知枢密院事湖南安撫大使知潭州となった。緡銭・銀・祠牒・戸部銀が督視行府趙葵に付された。
  • 六月、旱魃のため避殿減膳、直言を求めた。進士張淵微以下527人が及第。
  • 七月、呉潜が罷免され、別之傑が参知政事、鄭宷が同簽書枢密院事となった。
  • 八月、鄭宷が罷免された。彭州守臣宇文景訥の死事に三秩追贈。高定子が薨じ、贈少保。
  • 十月、添差攝局の弊十条が指摘された。
  • 十一月、茶陵知県事黄端卿が郴寇に殺害され三秩追贈、立廟衡州。
  • 十二月、李鳴復が卒した。太学生程九万が北から脱出し辺事を上言、廸功郎を賜った。

淳祐八年(1248年)

  • 二月、趙葵の言により呂文徳ら泗州の囲みを解いた功に恩賞。
  • 三月、福州福安県の民羅母が百歳を超えたことで孺人に封じられた。趙葵は泗州橋を招き将士を賞した。田智潤(先鋒軍統制)が泗州潮河埧の戦で父子ともに戦死、贈官・恤家。
  • 四月、淮東制置司に泗州で夏辠・張忠・田智潤父子を祀る廟の建立を命じた。
  • 五月、趙葵が三秩進んだ。
  • 六月、徐鹿卿が枢密使兼参知政事兼侍講となった。
  • 七月、王伯大は参知政事、応㒡は同知枢密院事、謝方叔は簽書枢密院事、史宅之は同簽書枢密院事、趙与籌は臨安府知事浙西安撫使を留任した。
  • 九月、明堂祭祀・大赦。
  • 十月、別之傑が三度帰田を願い資政殿大学士知紹興府に、応㒡・謝方叔がともに参知政事を兼ねた。余玠言により、都統制張実らの戦功に恩賞(刺史・銀器・緡銭)。

淳祐九年(1249年)

  • 正月、孟啓が慶遠軍節度使に進み益国公に封じられた。周世宗八世孫柴彦穎が承務郎に補され崇義公を襲封。両淮京湖沿江の曠土での軍民耕種を許可。
  • 二月、臨安府に慈幼局を創設し道に遺棄された嬰児を収養、薬局を設けて貧民の疾病を療した。許応龍が薨じた。范鍾が薨じ、贈少保、諡文肅。表忠観に官田を給し銭氏の功徳を旌した。
  • 閏二月、鄭清之が太師左丞相兼枢密使・魏国公、趙葵が右丞相兼枢密使、応㒡・謝方叔がともに参知政事、史宅之が同知枢密院事となった。
  • 三月、賈似道が宝文閣学士京湖安撫制置大使となった。
  • 四月、日食予告により避殿減膳。
  • 五月、鄭宷が薨じた。
  • 六月、辺郡各所に褒忠の廟を立て、王事に殉じた忠節顕著の者を祀ることとした。
  • 七月、知吉州李義山が贓銭削三秩・監納。
  • 八月、呉潜が資政殿学士知紹興府浙東安撫使となった。
  • 九月、趙与&KR0696;に戸部財用の提領を命じ、新倉「淳祐倉」に百二十万を積貯した。貴妃に婉容閻氏を冊立。
  • 十月、太白が氐に入った。諫臣周坦が楊棟(前知建寧府、成都制幕時代に激賞庫の珍宝を先に運び丁黼を陥没死させた)を弾劾、閣職を褫奪。
  • 十二月、史宅之が薨じ、贈少師。

淳祐十年(1250年)

  • 正月、応㒡が三度帰田を願い祠禄を得た。
  • 三月、賈似道が端明殿学士両淮制置大使淮東安撫使知揚州に、余玠は龍図閣学士留任、李曾伯は徽猷閣学士京湖安撫制置使知江陵府となった。
  • 六月、淮西総領兼沿江制置建康留守として趙溍らが着任。
  • 九月、進士方夢魁以下513人が及第、第一名方夢魁は方逢辰と改名。
  • 十一月、趙葵は特進観文殿大学士判潭州湖南安撫大使となった。参知政事謝方叔・呉潜、簽書枢密院事徐清叟がともに解機政を求めるが許されなかった。
  • 十二月、鄭清之が帰田を願うも許されなかった。

淳祐十一年(1251年)

  • 正月、孟啓が孜と改名し、慶遠軍節度使のまま建安郡王に進封された。監察御史程元鳳が資善堂の人選について進言。
  • 二月、鄭清之らが玉牒日歴会要および光宗寧宗宝訓・寧宗経武要略を進呈。
  • 三月、嗣濮王不擯が薨じ、贈少師・追封新興郡王。謝方叔は知枢密院参知政事、呉潜は参知政事、徐清叟は同知枢密院事となった。
  • 四月、寳応の築城に李庭芝が一秩進んだ。俞興は成都安撫副使知嘉定府として威茂黎雅の辺防を任された。
  • 六月、四川余玠が奏進した馬五百頭の献馬について推恩。高達が権知襄陽府に。
  • 十一月、京湖制司の言により高達らが襄樊を回復、立功将士32702人に恩賞、緡銭350万で師を犒った。鄭清之が機政を解かれ太傅保寧軍節度使醴泉観使・斉国公となった。
  • 十二月、太師鄭清之が薨じ、贈尚書令・追封魏郡王、諡忠定。謝方叔が左丞相、呉潜が右丞相、徐清叟が参知政事兼同知枢密院事、董槐が端明殿学士簽書枢密院事となった。八事による訓飭(紀綱を粛正し正人を用い楮幣を救い辺陲を固め吏道を清め士気を淑くし軍制を定め人心を結ぶ)を発した。游侣が薨じ、贈少師、諡清献。

淳祐十二年(1252年)

  • 正月、王堅は復興元の功で遥郡団練使に転じた。太学録楊懋卿の孝行が史館に伝えられた。宰執に方田・溝澮の開設を議させ、遊撃軍を水歩各半で創置した。
  • 二月、日食があった。
  • 三月、大元兵数万が随・郢・安・復・京西を攻め、馬歩軍副総管馬栄が厳竇山・銅冶坪・子陵大眷山で連戦、恩賞。
  • 五月、盗が信州玉山県に起こり、諸郡経界が罷免された。
  • 六月、衢・信の饑饉に米三万石を発し振恤、玉山の寇を平定。厳・衢・婺・台・処・上饒・建寧・南剣・邵武で大水、使者を派遣し振恤・田租免除。
  • 八月、来年の省試を二月一日、殿試を四月十五日と定めた。緡銭四十万で在京軍民を振恤。翌年を宝祐元年と改元。
  • 九月、少師嗣沂王貴謙が薨じ、贈太傅・追封申王。
  • 十一月、呉潜が罷免された。夜、臨安で火災が続いた。避殿減膳・直言を求めた。
  • 十二月、呉潜は観文殿大学士提挙江州太平興国宮となった。彭大雅の渝州築城の功を追録し、承議郎の官を子に復した。海神を大祀とすることが定められた。

宝祐元年(1253年)

  • 正月、皇子建安郡王孜(嗣栄王与芮の子)を皇子と改称し永嘉郡王に進封、名を禥と賜った。大元兵が漢江を渡り万州に屯し、西柳関に入り、高達が調兵し河関上山で激戦。
  • 二月、日食があった。陳垓は貪贓不法の罪で潮州に竄された。尚書省の呈白房が廃止された。
  • 三月、与芮は少師、希邐は検校少傅、与懽は少保に食邑を加えられた。別之傑が薨じ、贈少師。
  • 五月、余玠が召還された。進士姚勉以下が及第。
  • 六月、江湖閩広で旱魃。四川制司の言により余玠が病に倒れ、資政殿学士を与えられた。賈似道は資政殿大学士、李曾伯は端明殿学士留任。
  • 七月、王伯大が薨じた。温・台・処三郡の大水に義倉米で振恤。余玠が卒し、贈官五転。董槐が参知政事を兼ねた。
  • 八月、余晦が司農卿四川宣諭使となった。起居舎人牟子才が蕭泰来の姦険を弾劾。
  • 九月、皇宋元宝銭を行った。
  • 十二月、瑞国公主を冊立。劉伯正が薨じ、贈五秩。

(宋史巻四十三理宗三の記事に大きな脱落・欠字は確認されなかった。)