宋史卷四十二 本紀第四十二 理宗二
端平二年(1235年)
- 正月、太隂が太白を犯すなどの天変により、胡瑗・邵雍・歐陽脩・周敦頤・司馬光・蘇軾・張載・程顥・程頤の十人を孔子廟庭に従祀させることを議論し、孔伋を十哲に列した。侍衛馬軍孟珙に黄州駐劄で辺防を措置させた。程芾(御前寧淮軍統制、借和州防禦使)を大元への通好使とし、王全を副使、のち武功郎杜顯を添差通好副使とした。
- 二月、太学生陳均が『宋長編綱目』、進士陳文蔚が『尚書解』を編進し、ともに迪功郎に補された。楊谷・楊石はともに太師に昇るが辞退した。曾従龍は同知枢密院事、真徳秀は参知政事兼給事中兼侍読、陳卓は同簽書枢密院事となった。
- 四月、前四川制置使鄭損が城池を失い陝西五路の府庫財貨数万を失った罪により削官二秩、温州に謫居・家財没収とされた。都城で火災。軍民の紛争により御前諸軍都統制趙勝が三秩削られ罷免、韓昱が代わった。真徳秀が薨じ、銀青光禄大夫・諡文忠を贈られた。喬行簡が参知政事を兼ねた。六月、鄭清之が特進左丞相兼枢密使、喬行簡が金紫光禄大夫右丞相兼枢密使となった。曾従龍は知枢密院事兼参知政事、崔与之は参知政事、鄭性之は同知枢密院事、陳卓は簽書枢密院事となり、進士呉叔告以下454人が及第した。鄭損はさらに二秩削られ南劍州に流された。
- 七月、礼部尚書魏了翁が十事を上奏したが採用されなかった。開禧年間の蜀難死事の臣、大安知軍楊震仲・孫忠孫の子を下州文学に補し、利州路常平幹官劉当可の母王氏(呉曦への降伏を拒み投江死)を和義郡夫人に追贈、当可にも昇官の恩沢を与えた。趙方(少師)に忠粛、故安丙(保寧軍節度使・魯国公)に忠定の諡を贈った。全子才・劉子澄は唐州の役で兵を棄てて逃げた罪で削官・流罪(衡州・瑞州)となった。趙汝愚を寧宗廟庭に配享し、昭勲崇徳閣に図像した。
- 十一月、曾従龍を枢密使として江淮軍馬を督視させ、魏了翁を同簽書枢密院事として京湖軍馬を督視させ、鄭性之は参知政事を権兼した。両督府に金・銀・度牒・銭を軍資として支給した。四川制置司の遣将が反乱軍首魁蒲世興を万州で斬った。魏了翁が便宜行事を許された。曾従龍が薨じ贈少師、余嶸が同簽書枢密院事となった。故参知政事李壁に文懿の諡を贈った。
端平三年(1236年)
- 正月、星変・非時の雷により天基節の宴を中止し、勧農を命じた。安南国王に爵位・襲衣・金帯を賜った。大元兵が洪山を連攻し、張順・翁大成らが防戦した。
- 二月、大元兵が江陵を攻め、統制李復明が奮戦して戦死、三秩を追贈され二子に恩沢が与えられた。魏了翁を端明殿学士簽書枢密院事として召還し、史嵩之を淮西制置使兼副使とした。
- 三月、襄陽の北軍主将王旻・李伯淵らが城郭・倉庫を焼き大元に降った。当時城中の官民兵は四万七千余、財粟三十万・軍器二十四庫を失った。南軍主将李虎は乗じて略奪し襄陽を空にした。制置使趙范は撫御を誤り南北軍の争乱を招いた罪で三秩削られ龍図閣学士を落とされたが、制置の任は留められた。岷・畳・宕の十八族が降った。曹友聞は招降の使者を斬った。
- 四月、魏了翁は帰田を願うが許されず、資政殿学士知潭州となった。開辺の失策を悔いる詔が出され、京湖・興・沔州の軍県の軽罪の囚人を釈放した。
- 六月、洪咨夔が卒し、贈二秩、諡忠文。趙葵は華文閣直学士淮東安撫制置使兼揚州知事となった。
- 七月、権徐州国安用が力戦して没し、順昌軍節度使を贈られ子は承節郎に。趙范は襄城を失陥した罪が重いのに罰が軽いとして罷職奉祠となった。
- 八月、趙范はさらに二秩削られ建寧府に謫居、李虎は三秩削られ刺史を落とされた。故龍図閣学士傅伯成に忠簡の諡。
- 九月、明堂祭祀・大赦。鄭清之・喬行簡がともに罷免され観文殿大学士醴泉観使兼侍読となり、崔与之が右丞相兼枢密使となった。驍衛大将軍利州駐劄御前諸軍統制曹友聞が大元兵と大安軍陽平関で激戦の末戦死、龍図閣学士大中大夫・諡毅節を贈られ、廟を褒忠と号し二子に恩沢が与えられた。殿前司将胡斌(邵武の寇で死)・宗室師檟(尤溪の戦で死)にも贈官・立廟の恩沢があった。
- 十月、沿江制置使陳韡に淮東救援、史嵩之に江陵・陝州・江面上流の救援を命じた。大元兵が固始県を破り、淮西の呂文信・杜林は敗残兵数万を率いて六安・霍丘で群盗と化した。安南国が朝貢し、金紫光禄大夫静海軍節度観察等使・襲衣金銀帯を賜った。大元太子闊端の軍が成都を離れ、大元兵は文州を破り守臣劉鋭・通判趙汝嚮が戦死した。
- 十一月、嗣秀王師弥に少師を授けた。喬行簡を特進左丞相兼枢密使・粛国公とした。大元兵が光州を包囲し、史嵩之に光州、趙葵に合肥、陳韡に和州の遮断援護を命じた。魏了翁は資政殿学士知紹興府浙東安撫使となり、呉潜・袁甫・徐清叟が召還された。
- 十二月、鄭清之が観文殿大学士醴泉観使兼侍読の職を辞したが、留任とされた。宣繒が薨じ、定策の功により太師・諡忠靖を贈られた。池州都統趙邦永は滁州援護の功で左武大夫に転じ、他の有功将士も推賞された。
嘉熙元年(1237年)
- 正月、魏了翁が福州知事兼福建安撫使となった。京西兵馬都監程再暹は洪山の戦功により官三転・京西鈐轄兼随州知事となった。李&KR0811;は同知枢密院事四川宣撫使となった。両淮・荆襄の流民の江南への招集・振恤を命じた。
- 二月、鄭性之は知枢密院事兼参知政事、鄒応龍は端明殿学士簽書枢密院事、李宗勉は同簽書枢密院事となった。李鳴復は罷免され資政殿学士知紹興府となった。葛洪が薨じた。忠義選鋒張順・屈伸らは公安県巴芒の水戦の功で官一転。朱熹の『通鑑綱目』を国子監に頒布した。
- 三月、陳韡・史嵩之・趙葵はそれぞれ官二転。魏了翁が薨じ、贈少師、諡文靖。孟珙は忠州団練使知江陵府京西湖北安撫副使、別之傑は宝章閣待制知太平州となった。
- 四月、李&KR0811;は同知枢密院事四川宣撫使知成都府となった。両淮の応戦で戦死した李仙・王海・李雄・廖雷らに武翼大夫を追贈した。
- 五月、袁韶が薨じた。京城で大火。蘄州都統制万文勝・知州徐栗の守城の功を賞した。
- 六月、鄒応龍は資政殿学士知慶元府沿海制置使となった。呉潜は工部侍郎知慶元府兼沿海制置使、知黄州兼淮西安撫使李夀朋は赴任遅延の罪で三秩削られ建昌軍に謫居となった。宗子教育のため内小学の設置が命じられた。
- 七月、湖北提挙董槐が楮幣(紙幣)の物価問題を上奏。李曾伯・趙勝・王福らが廬州守禦の功で各官一転。
- 八月、秦国公汝愚(趙汝愚)を福王に追封。李鳴復は参知政事、李宗勉は簽書枢密院事となった。蜀の鶏冠隘都統王宣が戦死し、総管呉桂は守地を棄てて略奪した罪で三官削られ勒停となった。
- 十一月、陳韡・史嵩之・趙葵に沿江淮漢の州軍で舟師戦具を備え要衝を防遏するよう命じた。十二月朔の日食が予告され、避殿減膳・故実の検討が命じられた。
嘉熙二年(1238年)
- 正月、史嵩之・趙葵に黄州・安豊救援、光州・信陽二城の奪回を命じた。余玠は招信軍知事兼淮東制置司参議官に進み三秩。孟珙は寧遠軍承宣使帯御器械。史嵩之は端明殿学士京湖安撫制置使兼沿江制置副使兼鄂州知事として召還された。
- 二月、両浙転運判官王埜が呉潜の不法を弾劾。史嵩之は参知政事として京西・荆湖南北・江西軍馬を督視、鄂州に司を置いた。大宗正丞賈似道は北使への対応と贓吏取締を上奏。大元が再び王檝を派遣、朱揚祖が送伴使を務めた。孟珙は京湖安撫制置副使、松滋県に司を置いた。
- 三月、周次説が大元通好使、李心傳が秘書少監史館修撰として高宗・孝宗・光宗・寧宗四朝の国史実録を修めた。高定子は中書舎人京湖江西督視参賛軍事となった。史嵩之は光・蘄・黄・夔・施州軍馬督視を兼ねた。
- 四月、李&KR0811;は同簽書枢密院事督視江淮京湖軍馬となった。四川の被災地の囚人釈放、流民の復業支援。
- 五月、進士周坦以下422人が及第。李鳴復は知枢密院事、李宗勉は参知政事、余天錫は簽書枢密院事となった。厳州の布衣銭時・成忠郎呉如愚を秘閣校勘に選抜。崔与之は洞霄宮提挙。
- 七月、霖雨烈風のため避殿減膳、直言を求める詔が出された。
- 十月、呉潜が宗子趙時集ら流民十余万を十七砦に結集し兵二万を籍することを奏上、許可された。
- 十一月、皇子子維が薨じ祁王・諡冲昭を追封。十二月、光州守臣董壵臣が伏誅、司戸柳臣舉は雷州に配流。四川の塩酒権額を三年免除。祠牒会子七百万を四川制司に三年分の生券として給した。
嘉熙三年(1239年)
- 正月、喬行簡を少傅平章軍国重事・益国公とした。李宗勉は左丞相兼枢密使、史嵩之は右丞相兼枢密使として両淮四川京湖軍馬を督視、余天錫は参知政事、游侣は同簽書枢密院事となった。
- 三月、呉潜は敷文閣直学士沿海制置使兼慶元府知事、別之傑は権兵部尚書沿江安撫使兼都督行府参賛軍事、李曾伯は都督行府参議官、孟珙は都督行府参謀官となった。
- 七月、董槐は江州知事兼都督行府参議官、八月、呉淵は都督行府参賛軍事を兼ねた。
- 九月、明堂祭祀・大赦。淮西の敢勇将官陸旺・李威らは廬州磨店北の戦功で官三転。故太師魯王謝深甫に恵正の諡。
- 十二月、崔与之が薨じ、贈少師、諡清献。夔州を回復し、荆鄂都統張順・孟璋らの戦功を記録した。
嘉熙四年(1240年)
- 正月、彗星の出現により罪己の詔が出された。
- 三月、四川安撫制置副使彭大雅が三秩削られた。
- 四月、前潼川運判呉申が対策を上奏し、鄭損の失策(辺郡放棄)・桂如淵(潰卒の乱誘発)・趙彦呐(忌功不救)・彭大雅(険譎変詐)を指摘し、孟珙を夔門に進めるべきと説いた。史嵩之は三秩進み右丞相兼枢密使となり、都督局が撤廃された。
- 六月、江浙福建で大旱・蝗害。追封閬州簽庁陳承己の妻彭氏(賊に殺された夫の死に殉じた)を恭人とし立廟。王鞏(丙申の蜀破の際一門死亡)を通直郎に追贈。
- 九月、余玠が淮河を渡り汴に至る舟師の功で三秩進み淮東提刑節制招信軍屯戍軍馬となった。
- 十月、翌年を淳祐元年と改元。余玠は応天府・泗宿・永・海・邳・徐・漣水の屯戍軍馬節制を兼任。
- 十二月、多謨(奉国軍節度使)が薨じた。李宗勉が薨じ、贈少師、諡文清。游侣は知枢密院事兼参知政事、范鍾は参知政事、徐栄叟は簽書枢密院事となった。銭会中半(銭と会子の折半)の制を定めた。
淳祐元年(1241年)
- 正月、詔で孔子の道が孟軻以後絶えていたが、周敦頤・張載・程顥・程頤・朱熹によって明らかにされたとして、五臣を学官に列し従祀することを命じた。王安石は「天命不足畏、祖宗不足法、人言不足恤」と称し万世の罪人とみなされ従祀から黜けられた。周敦頤を汝南伯、張載を郿伯、程顥を河南伯、程頤を伊陽伯に封じた。太学に行幸し孔子を謁し、道統十三賛を国子監に頒布した。
- 二月、喬行簡が薨じ、諡文恵。四月、与芮を開府儀同三司万寿観使嗣栄王、貴謙を開府儀同三司嗣沂王とした。
- 五月、進士徐儼夫以下367人が及第。
- 十一月、余玠が舟師で安豊の囲みを解いた。
- 十二月、余天錫が薨じ、贈太師、諡忠恵。侍御史金淵が彭大雅の貪黷残忍を弾劾し、罪重く罰軽いとして贑州居住に竄された。
淳祐二年(1242年)
- 正月、右丞相史嵩之らが玉牒・中興四朝国史・孝宗経武要略・寧宗玉牒日歴会要実録を進呈した。
- 二月、游侣は知紹興府浙東安撫使、范鍾は知枢密院事兼参知政事、徐栄叟は参知政事、趙葵は同知枢密院事、別之傑は簽書枢密院事となった。
- 六月、盛夏の積雨で浙右が大水。七月、常潤・建康大水、両淮甚だしい。
- 九月、淮東忠勇軍統領王温ら24人が天長県東で衆寡敵せず全滅、王温に武翼大夫刺史を贈り、子興国は保義郎に補された。
- 十月、史嵩之が永国公に進封。大元兵が通州に大挙侵攻。
- 十二月、通州守臣杜霆が城を棄て私財を持って逃げ、民が屠殺された罪で追加処罰。大元兵、敘州を攻め、帳前都統楊大全らが激戦の末戦死、眉州防禦使を贈られ二子が承節郎に。孟珙は検校少保京湖安撫制置大使夔路策応大使、余玠は権資政殿学士湖南安撫大使兼知潭州、趙葵は資政殿大学士福建安撫使知福州となった。
淳祐三年(1243年)
- 正月、高定子が参知政事を兼ねた。李曾伯は淮東西制置使知揚州、杜杲は沿江制置使知建康府、董槐は沿江制置副使知江州主管江西安撫司事となった。
- 二月、呂文徳は福州観察使侍衛馬軍副都指揮使として両淮出戦軍馬を総統した。郢州推官黄従龍の死節に対し通直郎を贈った。
- 四月、濠州の防戦で王烈・王傑・李季実らが大元兵に遭遇し戦死、贈官。嘉定守臣程立之の固守に官一転。安豊軍統領陳友直の王家堈戦功に官両転。
- 五月、施州の城郭・関隘六十余所の築城に功のあった将士・戍卒に恩賞。
- 閏月、四川制置司言により知巴州向佺・鈐轄譚淵ら白土坪の戦功に恩賞。
- 九月、高郵の民の荒田耕地の租を免除。
- 十二月、史嵩之が五度祠を請うも許されなかった。
(末尾に本文なし。以上、宋史巻四十二理宗二の記事に大きな脱落・欠字は確認されなかった。)