宋史卷四十一 本紀第四十一 理宗一

出自と生い立ち

  • 理宗、諱は昀。太祖の十世孫。父の希瓐は榮王に追封され、家は紹興府山陰県にあった。母の全氏は開禧元年(1205年)正月癸亥、邑中虹橋里の第で理宗を生んだ。その前夜、榮王は紫衣金帽の人が謁するのを夢見、覚めて夜漏がまだ十刻残るころ、室中に五彩が爛然と輝き赤光が天に属き日が中天にあるようであった。誕生から三日、家人は戸外に車馬の声を聞いたが出ても何も見えなかった。幼少期に昼寝していると、人が身体に龍鱗のような隠々とした模様を見たという。
  • 当時、寧宗の弟の沂靖恵王が嗣なく薨じたため、宗室希瞿の子に「均」の名を賜り沂王の後とし、まもなく「貴和」と改名した。嘉定十三年(1220年)八月、景献太子(皇太子詢)が薨じ、寧宗は国本(後継者)未立を理由に、太祖十世孫のうち十五歳以上の者を選び、髙宗が普安・恩平を選んだ故事に倣って教育させた。十四年六月丙寅、貴和を皇子に立て「竑」と改名し、理宗を沂王の嗣とした。六月乙亥、秉義郎に補し、八月甲子、右監門衛大将軍を授け「貴誠」の名を賜った。十五年五月丁巳、竑を検校少保・済国公に進封し、己未、理宗を邵州防禦使とした。理宗は性、凝重で寡言、修行を好んで学を好み、朝参の際の待漏でしばしば笑い語る者があっても、理宗は独り儼然として殿庭の出入りに常の矩度があり、見る者は態度を改めた。
  • 済国公竑は丞相史彌遠と不和で、彌遠は日々その失策を寧宗に讒言する機会を窺い、寧宗の意は理宗に属していたがまだ果たされなかった。十七年八月丙戊、寧宗は不予(病)となり視朝せず、壬辰、疾が篤くなると彌遠は詔と称して貴誠を皇子とし「昀」と改名させ武泰軍節度使・成国公に授けることとした。閏月丙申、寧宗の病が甚だしくなり、丁酉、福寧殿で崩じた。彌遠は楊谷・楊石をして楊皇后より遺旨と称させ、皇子竑を開府儀同三司・済陽郡王・判寧国府に進封し、子の昀に皇帝位を嗣がせ大赦した。楊皇后を皇太后として同聴政とし、竑を済王に封じて湖州に邸を賜り醴泉觀使として就第させた。癸亥、宮中で三年の喪に服すことを詔した。
  • 九月乙亥、老儒を褒め表す詔を出し、傅伯成を顕謨閣学士、楊簡を寶謨閣直学士とし並びに南京鴻慶宮を提挙させ、柴中行の元職を復し右文殿脩撰・南京鴻慶宮主管を授けた。戊寅、兄の済王の妻衞国夫人呉氏を許国夫人に封じることを詔した。己夘、皇太后・皇帝は便殿に御し垂簾した。先聖四十九代孫行可を廸功郎に授け判司簿尉とした。禮部侍郎程珌・吏部侍郎朱著・中書舎人真徳秀に侍読を兼ねさせ、工部侍郎葛洪・起居郎喬行簡・宗正少卿陳貴誼・軍器監王塈に侍講を兼ねさせた。壬午、葛洪を権工部尚書とし侍読を兼ねさせた。辛夘、明堂を祀り大赦。冬十月戊戌、諸路提点刑獄に十一月に囚徒を按理することを詔した。己亥、嗣秀王師嵒が薨じた。壬子、百官の奉按(俸給)を月給とすることを詔した。十一月甲子、右正言麋漂が「東朝(皇太后)に順い、志を継ぎ事を述べ、ひたすら孝宗を法とすべし。当今の新政の切要は天を畏れ親を悦ばし、学を講じ民を仁しむにあり」と請い、帝はこれを嘉納した。癸未、五月十六日を「皇太后夀慶節」とすることを詔した。丁亥、明年を「寶慶元年」とすることを詔した。戊子、葛洪を端明殿学士・同簽書樞院事とした。己丑、生日を「天基節」とすることを詔した。十二月甲午、雪寒により京城の官私房賃地門税等の銭を免じ、以後は祥慶・災異・寒暑ともにこれを免ずることとした。癸丑、経筵を開き輔臣に観講を詔し、太后の居殿を「慈明」と号した。辛酉、大行皇帝の諡号を南郊に請い、「仁文哲武恭孝皇帝」、廟号「寧宗」とした。

寶慶元年(1225年)

  • 春正月壬戌朔、賢良の推薦を詔した。庚午、湖州の盗潘壬・潘丙・潘甫が済王竑の擁立を謀った。竑は変を聞いて水竇に匿れたが盗に捕らえられ、黄袍を着せられて州治に擁立された。守臣謝周卿は官属を率いて入賀した。当初、壬らは偽って李全が精兵二十万で史彌遠の擅な廃立の罪を討つのを助けると称したが、夜明けに見れば皆太湖の漁人及び巡尉兵卒であった。竑はそこで王元春を遣わし朝廷に告げ、州兵を率いて賊を誅した。彌遠は殿司将彭任を遣わし討伐させたが、着いた時には既に盗は平定されていた。彌遠はさらにその客秦天鍚を遣わして医を勧める名目で竑を診させ、旨を諭して竑を死に追いやり、まもなく巴陵郡公に貶する詔を出した。辛未、保寧軍節度使師彌を検校少保とすることを詔し、皇太后の弟である奉国軍節度使楊谷・保寧節度楊石を並びに開府儀同三司とした。丙戌、済王竑の訃報により特に視朝を輟めた。己丑、寧宗の諡冊寳を上った。
  • 二月甲午、故太師武勝定国軍節度使鄂王岳飛に諡「忠武」を詔した。丙申、師彌を検校少師・嗣秀王とすることを詔した。丙辰、楚州で火災。戊午、廩を発して在京の細民を振済し、犒馬歩軍・皇城司守衛軍に差をつけて給した。三月癸酉、寧宗を会稽の永茂陵に葬った。夏四月辛夘朔、寧宗を廟に祔した。壬辰、皇兄竑に少師・保静鎮潼軍節度使の贈官を詔したが、直舎人院王塈らが繳奏しその命は取りやめられた。丁酉、皇太后が手書で「多病につき今後は垂簾聴政を免ずる」とし、壬寅、帝は再三皇太后の垂簾を請うも許されなかった。辛亥、廩を発して在京の細民を振済した。五月甲子、内外文武大小の臣に国政に見聞ある者は封章を上るよう詔した。丙寅、不熄を保康軍承宣使・嗣濮王とすることを詔した。六月辛夘、太白昼見。丁未、史彌遠を太師・依前右丞相兼樞密使・魏国公に進封することを詔したが、彌遠は太師を辞退した。秋七月丁丑、滁州で大水があり振恤を詔した。乙酉、大宋元寳銭の鋳造を詔した。八月壬寅、司農丞姚子才の封事が切直だったため一秩進め祕書郎を授けることを詔した。癸卯、知袁州趙䈣夫を直祕閣・福建提点刑獄とし廉吏を旌した。丙午、侍従給諫卿監郎官及び在外の前執政侍従・師臣・監司に廉吏三人の推薦を詔した。戊申、侍従両省臺諫三衙知閤御帯環衛官及び在外の前執政侍従・帥臣監司・都副都統制及び屯戍主将に将帥にふさわしい者三人の推薦を詔した。己酉、地震。壬子、張九成に太師を贈り崇国公に追封し諡「文忠」とした。甲寅、程頤の四世孫源を籍田令とした。乙邜、莫澤が「真徳秀は綱常を舛論し簡節上の語で暗に済王のことを言った」と言ったため、徳秀は煥章閣待制・提挙玉隆萬夀宮とされた。丁巳、貪吏を戒める詔を出した。九月丙寅、著作佐郎陶崇が保業・慎独・謹微・持乆の四事を上り、帝はこれを嘉納した。
  • 冬十一月癸巳、太白大の流星があった。甲寅、会稽の攢宮所在の税賦を全て免じ、折科は山陰県は三年権免することを詔した。十一月癸亥、宣繒に同知樞密院事、薛極に参知政事、葛洪に簽書樞密院事を兼ねさせることを詔し、邵州潜藩を「寶慶府」に昇格、筠州は御名と音が近いため「瑞州」と改めた。壬午、雪寒により在京諸軍に緡銭を差をつけて給し、出戍の家には倍にした。以後、祥慶・災異・霪雨雪寒には皆給することとした。甲申、朱端常が「魏了翁の封章は誹謗であり、真徳秀の奏劄は誣詆である」と言ったため、魏了翁は落職し三秩を奪われ靖州居住、真徳秀は落職し祠を罷めた。十二月甲辰、敕令の刪修を詔した。この歳、両浙路の戸数は一百九十七万五千九百九十六、口数は二百八十二万二千三十二、福建路の戸数は一百七十万四千一百八十六、口数は二百五十五万三千七十九であった。

寶慶二年(1226年)

  • 春正月癸亥、沈煥・陸九齢に贈官を詔し、煥は諡「端憲」、九齢は諡「文達」とし、張九成・呂祖謙・張栻・陸九淵の子孫にそれぞれ差をつけて官を録した。癸酉、布衣李心伝を闕に召した。戊寅、熒惑が氐宿に入った。壬午、太白・歳星・填星が女宿に合した。二月辛邜、監察御史梁成大が「真徳秀に大悪五あり」と言ったため職を褫われ祠を罷められたが罰が軽いとされ二秩を削られた。三月癸酉、久雨により大理寺・三衙・両浙運司・臨安府・諸属県榷酒所に、既決の贓賞等の銭は一切徴収せず妻子を留めぬことを詔し、以後霖潦・寒暑は皆これを免じることとした。戊寅、太常寺に「昭勲崇徳」を名とする功臣閣の建立を詔した。巳夘、蘄州で火災。夏四月巳丑、輔臣の奉薄は隆興の格を制とすることを詔した。辛亥、太白大の流星があった。六月丙申、後殿に御し進士王会龍以下九百八十九人に及第出身を差をつけて賜った。壬寅、孔子の五十二代孫万春を衍聖公として襲封させることを詔した。秋七月戊辰、雷電雨があり昼が晦く大風で遂安・休寧両県の界の山が裂け洪水が公宇民居田疇を壊した。八月乙巳、済王竑をさらに巴陵県公に降した。辛亥、衞涇が薨じた。九月庚申、雷。冬十月甲申、寧宗の御集を蔵する閣に「寶章」を名として学士待制員を置くことを詔した。辛丑、また雷。辛亥、熒惑・歳星・填星が女宿に合し、熒惑が填星を犯した。湖州を「安吉州」と改めた。十一月甲寅、程嬰・公孫杵臼を祀る祚徳廟を修めた。丙辰、初めて紫宸殿に御した。辛酉、熒惑が歳星を犯した。丙子、日南至、慈明殿に詣でた。十二月癸夘、太廟に親享した。

寶慶三年(1227年)

  • 春正月辛亥朔、慈明殿で寿明皇太后の尊号冊寳を上った。壬子、史彌遠に二秩を追加。辛酉、楊谷・楊石を並びに少傅とした。知楚州姚翀が辞朝する際、淮楚忠義軍事を奏すると、帝は「南北はみな朕の赤子、なにゆえ彼此を分けようか。卿はこれを撫定せよ」と言った。己巳、「朕は朱熹集註の大学・論語・孟子・中庸を観て聖賢の蘊奥を発揮し治道を補うところがあると考え、学を励んで講じ典刑を懐かしんでいる。特に熹に太師を贈り信国公に追封してよい」と詔した。三月庚戌朔、郡県の長吏に農桑を勧め末作を抑え苛擾を戒めることを詔した。工部侍郎朱在が対に進み人主の学問の要を奏すると、帝は「先卿(朱熹)の中庸序に甚だ詳しく述べられている。朕はこれを読み手を離せず、同時代に生きられなかったことを恨む」と言った。辛亥、皇太后の尊号冊寳の礼が成り、姪孫楊鳳孫以下に恩を推した。夏四月戊戌、前丞相謝深甫の孫女謝氏を宣引し慈明殿で進見させた。五月壬子、岳珂を戸部侍郎・依前淮東総領兼制置使とすることを詔した。閏月己邜朔、郡県の繋囚は実書歴に未だ経ずして給録すべきことを詔し、守臣が輒行する場合は憲司にその獄案を詳覆させ嵗月淹延する者は重く憲に処すこととした。六月戊申朔、日食。秋七月乙酉、太陰が心宿を犯した。丁酉、被水郡県の振贍を詔しその竹木等の税を復さぬこととした。丙午、史彌遠が田里への帰還を乞うも許されなかった。八月庚戌、謝氏に「通義郡夫人」を特封することを詔した。癸亥、邑試で両経とも罷黜された者は以後知県・県令に授けぬことを詔した。甲戌、太白・熒惑が翼宿に合した。丙子、太平州に城を築いた。詔で知州綦奎を中奉大夫に進め、他は差をつけて恩を推した。九月癸未、故観文殿大学士魏国公に太師を贈られた留正に諡「忠宣」とした。丙午、寧宗に徽号「法天備道純徳茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝」を追上した。冬十月甲子、右監門衛大将軍與奭を「貴謙」と改名し宜州観察使を授け沂王の後を継がせ、右千牛衛将軍孟杓を「乃裕」と改名し荊州防禦使を授け景献太子の後を継がせた。甲戌、趙范を江東提刑兼知池州とし節制防江水歩軍・池州都統司軍馬とした。十一月戊寅、寧宗の徽号冊寳を太廟に奉った。辛巳、日南至、郊で大赦し明年を「紹定元年」と改めることを詔した。十二月己酉、日旁に珥のような気があった。壬申、廩を発して京城の細民を振贍した。大元兵が関外の諸隘を破り、四川制置鄭損が三関を棄てた。

紹定元年(1228年)

  • 春正月丙子朔、慈明殿で寿明慈睿皇太后の尊号冊寳を上り、楊谷・楊石を並びに少師に進めた。六月壬寅朔、日食。己酉、流星が昼隕した。秋七月戊戌、熒惑が南斗を犯した。冬十月戊申、熒惑が壁塁陣星を犯した。丁巳、熒惑・填星が危宿に合した。甲子、熒惑が填星を犯した。十一月癸酉、熒惑が羽林に入った。庚辰、雷。丁酉、皇城司の給符の制と照闌入法を厳しくすることを詔した。十二月辛亥、薛極を知樞密院事兼参知政事、葛洪を参知政事、袁詔を同知樞密院事、鄭清之を端明殿学士・簽書樞密院事とした。

紹定二年(1229年)

  • 春正月庚辰、大理司直張衍が検験推鞫四事を上り、刑獄人命に関わることは有司に究行させることを詔した。丁亥、熒惑・歳星が婁宿に合した。二月庚戌、歳ごとの廉吏の推挙で姦贓を犯した場合は保任者も同罪とすることを詔し、監司守臣にその覚察を厳しくさせた。三月辛邜、郡県の繋囚に瘐死者が多いとして、憲司に獄官の姓名を上らせ黜罰することを詔した。夏四月庚申、郡県の官の欠員を芸術人・豪民・罷吏の権摂補任にせぬことを詔した。五月、成都潼川路の歳旱による民の饑饉を制司・監司に急ぎ振恤させ郡県が勤惰であるかを察することを詔した。辛巳、進士黄朴以下五百五十七人に及第出身を差をつけて賜り、絶戸の者に嗣を立てることを許し妄りに籍没せぬことを詔した。六月丁巳、通義郡夫人謝氏を美人に進封することを詔した。九月丁邜、台州で大水。壬辰、太白大の流星があった。冬十月壬戌、台州の水災により民田租及び茶鹽酒酤の諸雑税を除くことを詔し、郡県で抑納する者は監司に察させた。十一月己丑、熒惑が氐宿に入った。

紹定三年(1230年)

  • 春正月甲申、故皇子緝に保信奉国軍節度使開府儀同三司を贈り永王に追封、諡「沖安」とすることを詔した。壬辰、知棗陽軍史嵩之が屯田を創置した功で官を二転勞賞した。二月丙申、日に背気があった。戊戌、汀・贑・吉・建昌の蛮獠が竊発し郡県を擾したため賦税を一年復すことを詔した。庚戌、趙范を起復し依前知鎮江府・節制防江水歩并本州在砦軍馬とし、趙葵を起復し依前知滁州・節制本州屯戍軍馬とすることを詔した。壬子、故皇子繹に忠正保寧軍節度使開府儀同三司を賜り昭王に追封、諡「沖純」とすることを詔した。閏月癸酉、逃卒穆椿が夜に皇城に竊入し甲仗衛士を焼毀したため捕らえ市に磔した。乙酉、太白・歳星が畢宿に合した。三月丁酉、雨土。戊申、奉国軍節度使不㤏が薨じ少傅を贈られ楽平郡王に追封された。夏四月己邜、漳州連城の盗が起こり、知竜巌県荘夢詵・尉鍾自強が死守できなかったため各二秩を削られ罷免された。五月甲寅、検校少保李全を彰化保康軍節度使・開府儀同三司・京東鎮撫使・依旧京東忠義諸軍都統制とすることを詔した。戊午、李全を左右金吾衛上将軍とし職任は旧のままとした。六月乙酉、歳星が井宿に入った。秋七月丁酉、汀州寧化県の曾氏の寡婦晏が軍糧を給し漳寇を禦ぐ功があり、また郷民数万人を全活させたため恭人に封じ冠帔を賜り、その子を承信郎に官することを詔した。九月辛丑、明堂を祀り大赦。丙午、美人謝氏を貴妃に進封。冬十月己巳、熒惑・填星が室宿に合した。十一月丁酉、星孛が天市垣に現れた。丁未、流星が昼隕した。十二月庚申、孔子の四十九代孫燦の録用による補官を詔した。李全が叛いた。壬戌、淮東の官兵王青が力戦して死んだため右武大夫・蘄州防禦使を贈った。甲子、逆賊李全の反形が日に著しくなり、江淮制臣に兵を率い進討させ、全を擒斬して降す者には不次の賞を加えることを詔した。乙丑、明年の元会の礼を免じることを詔し、鄭清之を参知政事兼簽書樞密院事、喬行簡を端明殿学士・同簽書樞密院事とした。史彌遠には「敷奏は精敏、気体はもとより安らかとされる。朕はいまだ朝謁の労を求めぬので、十日に一度都堂の政務に赴くがよい」と詔した。丁邜、貴妃謝氏を皇后に冊命した。己夘、慈明殿より緡銭百五十万を出し諸軍を犒い京城の細民を振贍した。癸未、寿明仁福慈睿皇太后の尊号冊寳を上った。

紹定四年(1231年)

  • 春正月戊子、皇太后は年七十五となり慈明殿に詣で慶寿の礼を行い大赦し、史彌遠以下の秩を差をつけて進めた。李心伝に同進士出身を賜った。壬寅、趙范・趙葵らが新塘で李全を誅し、それぞれ二秩進め、他は差をつけて恩を推すことを詔した。二月戊午朔、雄辺軍統制総轄范勝・谷汝礪らが逆を誅した功を賞し各官を五転し、将士で功を立てた者は等第と姓名を具して上らせることを詔した。丙子、起復した孟珙を従義郎・京西路分・棗陽軍駐劄とすることを詔した。夏四月戊辰、趙范・趙葵を並びに中大夫・右文殿脩撰に進め紫章服・金帯を賜った。丁丑、鄭清之に同知樞密院事、喬行簡に簽書樞密院事、趙善湘に兵部尚書・江淮制置大使・知建康府・依旧安撫使、趙范に権兵部侍郎・淮東安撫副使・知揚州兼江淮制司参謀官、趙葵を福州観察使に換え右驍騎衛大将軍・淮東提刑・知滁州兼大使司参議官とすることを詔した。五月丙午、宗室司正・検校少傅安徳軍節度使天水郡公に食邑五百戸を加え、貴謙を承宣使、乃裕を観察使とした。六月己未、魏了翁・真徳秀・尤焴・尤爚を並びに元官職・祠禄に叙復することを詔した。七月己丑、日に承気があった。丁酉、賈渉の女が後宮に侍したため文安郡夫人に封じることを詔した。庚戌、葛洪を資政殿学士・知紹興府とし、太白大の流星があった。八月己未、大元兵が武休を破り興元に入り仙人関を攻めた。辛酉、洪咨夔を元官・祠禄に叙復した。辛未、文安郡夫人賈氏を才人に封じた。九月丙戌の夜、臨安で火災があり太廟に及び、統制徐儀・統領馬振遠は救火の不力の罪により差をつけて貶削された。帝は素服して朝を眂し、膳を減じ楽を徹した。庚子、建昌軍で火災。甲辰、太白大の流星があった。冬十月戊午、太常少卿度正・国史院編脩官李心伝がそれぞれ「宗廟の制がいにしえに合わなくなっている、この災異を機に挙行すべし」と疏言し、両省侍従臺諫に集議を命じた。甲子、余天鍚を戸部侍郎兼知臨安府・浙西安撫使とした。癸酉、大元兵が蜀口の諸郡を破り、御前中軍統制張宣は青野原で戦功を上げ沔州都統を授けられた。戊寅、李&KR0811;を煥章閣直学士・四川制置使・知成都府とし、趙彦呐を直龍図閣・四川安撫制置副使・知興元府・利路安撫使、安癸仲を戸部郎中総領四川財賦とした。十一月乙酉、忠義総管田遂が力戦して殁したため武節大夫・忠州刺史を贈り廟を建てて封じることを詔した。十二月乙亥、史嵩之を大理少卿兼京湖制置副使とした。

紹定五年(1232年)

  • 春正月己丑、孟珙を京西路兵馬鈴轄・棗陽軍駐劄とした。庚寅、李全の叛乱の際、淮東提刑司検法呉澄らが泰州城を出て賊に謁したため各追官勒停とし、賊に見えなかった者、髙夢月・劉賔雲は二資(官等)を昇進、賊を罵って死んだ海陵簿呉嚞は特に朝奉郎の官を贈り一子を将仕郎とした。壬辰、史嵩之を大理卿に進め権刑部侍郎・京湖安撫制置使・知襄陽府とした。壬寅、新造の太廟が成った。二月癸丑、帝は太廟に謁した。三月乙酉、京城内外の商税徴収を免じることを三月詔した。丁酉、日に抱気・承気があった。夏四月癸亥、寶章閣直学士桂如淵はかつて蜀を帥した日、北兵の攻城に守りを合わせず軍民に殃を及ぼしたのに勝報として上ったため職を褫われ祠を罷めることを詔した。丁夘、魏了翁を集英殿脩撰に起用し知遂寧府とした。五月己丑、「昨年の火災で太廟に及んだのは罪、朕にあるが、二三の執政が引咎して職を去った。今、宗廟が崇成し神御が妥安したので薛極・鄭清之・喬行簡を並びに元官に復す」ことを詔した。辛夘、臣僚が「積陰の霖霪が夏より秋に及んでいるのは咎の徴に違いない」と言い、蘄州の進士馮杰は元来儒家であったが都大坑冶司に炉戸とされ誅求が日に増し、杰の妻はこれを憂いて死に、その女もこれに続き、弟の大声は愬えに赴く途中で死んだため、杰は免れぬと知り二子・一妾を毒殺して自らも首を経て死んだと述べ、「民の冤はここに至り、どうして陰陽の和を上に干さないことがあろうか」として都大坑冶魏峴を罷職することを詔した。癸巳、太白経天昼見。戊戌、「今後、齊民に罪あるも監司守臣は輒く籍没せず、必ず具して命を待て」と詔した。六月乙丑、熒惑・填星が婁宿に合し、熒惑が順行して填星を犯した。丙子、諸獄官に他務を理せぬことを詔した。秋七月甲申、「近年北兵が再び利閬に入り順慶に迫ったとき、承奉郎胡元琰が郡事を摂し散卒を収め居民を定め叛将を諭して郡全体を保った」として功により三資特別に転官することを詔した。太白が井宿に入った。丙戌、監楚州大軍倉富起宗が軍変で死難したため宣教郎を贈り一子を官とし、文林郎張煥も同時に被創害を受けその家に転官一資を詔した。丁酉、呉潜を太府少卿・総領淮西財賦、陳貴誼を端明殿学士・同簽書樞密院事とした。八月乙夘、真徳秀を徽猷閣待制・知泉州に起用した。丁巳、泗州路分劉虎・副都統董琳が盱泗橋を焼断して金兵を遏った。己未、魏了翁を寶章閣待制・潼川安撫使・知瀘州とした。乙丑、進士徐元杰ら四百九十三人に及第出身を差をつけて賜った。壬申、太白・歳星が張宿に合した。甲戌、玉牒殿を新造し累朝の玉牒を奉安した。九月乙巳、雨雹雷。閏月己酉、太白大の流星があった。庚戌、彗星が角宿に出た。戊辰、史彌遠が田里への帰還を乞うも許されなかった。冬十月戊子、星変により大赦した。金将が盱眙軍をもって降ったため赦して招信軍と改めた。十一月己巳、喬行簡が累疏して田里への帰還を乞うも許されなかった。十二月丙子朔、才人賈氏を貴妃に進封。辛巳、皇太后が不予となった。壬午、大赦し、皇太后が崩じた。癸夘、群臣が七度上表して聴政を請い、これに従った。外朝の大典は敢えて軽々しく改めぬこととし宮中では自ら三年の喪に服した。時に宋は大元兵と合わせ汴京を包囲し、金主は帰徳府に奔り、まもなく蔡州に奔った。大元は再び使者を遣わし金への攻撃を議し、史嵩之が鄒伸之にこれを報謝させた。

紹定六年(1233年)

  • 春正月己酉、少傅・保寧軍節度使・嗣秀王師彌を判大宗正事、趙善湘を光禄大夫・江淮制置大使兼知建康府・行宮留守とし食邑四百戸を加えた。戊辰、史彌遠に食邑千戸を加えた。二月丁丑、大行皇太后に諡「恭聖仁烈皇后」を上り、趙范を工部侍郎兼中書門下省検正公事、趙葵を祕書監兼侍講、余天鍚を礼部侍郎兼侍読とした。癸夘、熒惑が東井を犯した。三月丙辰、大雨雹。夏四月壬寅、恭聖仁烈皇后を永茂陵に葬った。五月庚戌、太白・熒惑が桞宿に合した。鄧州の移刺が城をもって降った。六月丁酉、史嵩之を刑部侍郎兼京湖安撫制置使兼知襄陽府とした。秋七月、武仙を浙江で敗った。八月、唐州を抜いた。九月壬寅朔、日食。辛亥、明堂を祀り大赦。辛酉、経筵官が御製「敬天法祖事親齊家」四十八条及び緝熙殿の榜記を史館に宣付するよう請うた。冬十月、江海が襄軍を領し大元兵と合わせ金主を蔡州に包囲した。甲申、史宅之を太府少卿、史宇之を将作少監とし並びに同進士出身を賜った。丙戌、史彌遠を太師・左丞相兼樞密使・魯国公に進め食邑一千戸を加え、鄭清之を光禄大夫・右丞相兼樞密使とし食邑一千戸を加えた。丁亥、史彌遠を保寧昭信軍節度使・充醴泉觀使とし會稽郡王に進封して仍奉朝請の食邑封を加え、薛極を樞密使、喬行簡を参知政事兼同知樞密院事、陳貴誼を参知政事兼簽書樞密院事とすることを詔した。史彌遠に「定策の大功と王室への勤労あり、今は疾により政を解くのでよろしく優礼を加えるべし」として、長子宅之を権戸部侍郎兼崇政殿説書、次子宇之を直華文閣・樞密院副都承旨、長孫同を直寶章閣、次孫紹卿・良卿・会卿・晋卿を並びに承事郎、女婿趙汝は軍器少監、孫女婿趙崇榟には官一転を詔した。己丑、崔与之・李&KR0811;・鄭性之を闕に召すことを詔した。庚寅、顕謨閣待制・知福州の真徳秀に福建安撫使を兼ねさせた。乙未、史彌遠が薨じ中書令を贈られ衞王に追封、諡「忠献」とし、貪吏を戒める詔を出した。十一月乙巳、給事中莫澤らが「差提挙千秋鴻禧観の梁成大は暴狠貪婪、苟賎無恥」と言ったため成大の祠祿を奪うことを詔した。丙午、明年を「端平元年」とすることを詔した。己未、魏了翁を華文閣待制・知瀘州・潼川安撫使とし金帯を賜った。癸亥、趙葵を兵部侍郎・淮東制置使兼知揚州に進めた。甲子、臺臣が刑部尚書莫澤の貪淫忮害を弾劾し罷免された。丙寅、権兵部尚書趙范が「宣和の海上の盟はその初め甚だ美なるも取禍に迄んだ、その事は鑑みなければならぬ」と言い、帝はその言を嘉納した。丁卯、趙葵に防禦の任責を詔した。戊辰、禮部郎中洪咨夔が対に進み「今日の急務は君子を進め小人を退けること、真徳秀・魏了翁のような者は朝に聚めるべき」と言い、帝はその言を是とし咨夔と王遂を並びに監察御史とすることを命じた。己巳、趙葵が入見し帝が金事を問うと「今、国家の兵力は未だ足りず、しばらく和議に従い、根本が壮んになるを待って二帝の恥を雪ぎ中原を復すべし」と答えた。十二月戊寅、史宅之が賜った第を返上したため、詔でその本家に給賜し家廟を奉じさせることとした。庚辰、許極を観文殿大学士・知紹興府兼浙東安撫使とした。甲申、呉潜を太府卿とし仍淮西総領財賦・暫兼沿江制置・知建康府とした。戊申、洪咨夔が「資政殿学士提挙洞霄宮袁韶は善類を仇視し彌遠に諂附し険忮傾危である」と言ったため袁韶の職を奪い祠祿を罷めることを詔した。壬辰、臺臣が「趙善湘・陳䀭・鄭損は史彌遠に賄を納れ勢を怙み姦を肆にし江淮荊襄蜀漢の人心を失った」と罪状を言い、趙善湘は李全討伐の功により特別に免ぜられ、陳䀭は罷官の上祠を与え、鄭損は落職の上祠を与えることを詔した。

端平元年(1234年)

  • 春正月庚子朔、直言を求める詔を出し、侍従卿監郎官及び在外執政従官に監司守令にふさわしい者各二人、三衙統帥知閤御帯環衛官及び在外総管軍帥に将帥にふさわしい者各二人の推薦を詔した。鍾震・陳公益・李性傳・張虙を並びに侍読兼務、徐清叟・黄朴・李大同・葉味道を並びに崇政殿説書兼務とした。辛丑、趙范を依前沿江制置副使・権移司知黄州とし、史嵩之を権京湖安撫制置使兼知襄陽府、陳韡を華文閣待制仍知隆興府・江西安撫使とし、徳安三関使彭哲は前年十月の北兵到来時に関を棄てて遁走したため二秩を削られ勒停とすることを詔した。乙巳、故少傅権参知政事任希夷に諡「宣憲」を賜った。丙午、趙范に淮西制置副使を兼ねさせ防禦の任責を詔し、太白・熒惑が斗宿に合した。戊申、金主完顔守緒が宗室承麟に位を伝え、己酉、城が破れ守緒は自ら経(首を吊る)て死に、承麟は乱兵に殺され、その参知政事張天綱を執らえた。丙寅、「太師中書令榮王はすでに王爵を進めているので、よろしく三代を封ずべし」として曽祖の子奭に太師呉国公、祖の伯旴に太師益国公、父の師意に太師越国公を贈ることを詔した。戊辰、樞密院の言により、京西忠順統制江海・棗陽同統制郭勝がかつて所部の兵の劫掠を発覚させなかった罪により除名され広州拘管とされたが、赦により軍前に還って自効し功があったため並びに元受の軍職に叙復されることを詔した。史嵩之は金の滅亡を露布で告げ、謹んで郭春を遣わし旧壌に循い奉先県に赴かせ祖宗の諸陵を汛掃させ、還師して信陽に屯し、王旻に随州、王安国に棗陽、蒋成に光化、楊恢に均を守らせ並びに兵を益し備えを飭し、唐鄧の屯田を経理することを命じた。
  • 二月辛未、監察御史洪咨夔が「帝の親政の始めに李知孝・梁成大を斥逐したのは、彼らが権姦に諂事し党を私にし上を罔き淫を倡え貨を黷したためだが、罪は大きく罰は軽い」と言ったため、李知孝は一秩削られ祠を罷め、梁成大は二秩削られることを詔した。壬申、趙彦呐を四川安撫制置使兼知興元府とした。丁亥、端平元年正月以前に貶竄・物故した諸命官は帰葬を許すことを詔した。三月己酉、賈渉の子似道を籍田令とした。辛酉、太常寺主簿朱楊祖・閤門祗候林拓を遣わし洛陽の八陵を省謁させることを詔した。夏四月辛未、朱復之を遣わし八陵の相度脩奉に赴かせることを詔した。丁丑、「近年宗親が貧窶で失所することが多いのは国家の睦族の意に甚だ反する」として大宗正司・南外西外宗正司に州郡が随時これを贍給することを厳しく命じ、違反者には刑を科すことを詔した。監察御史王遂が「史嵩之はもとより兵を知らず功を矜り身を謀り詭秘して君を欺き国を誤らせている。襄陽に留めることは一日でも一日の憂いとなる」と言ったが取り上げられなかった。戊寅、歳星が太微垣上相星を守った。壬午、監察御史洪咨夔が「今、残金は滅んだが隣国はまさに強く、備えを厳しくすべきなのに、色を動かし相賀して渙然と体を解いてしまえば、来る憂いを重くするのではないか」と言い、帝はこれを嘉納した。甲申、日に赤暈があった。丙戌、金主完顔守緒の遺骨を得たことを太廟に告げ、その玉寶法物並びに俘囚張天綱・完顔好海らを有司に審実させ上聞させることを詔した。庚寅、孟珙に帯御器械・京襄部押官属を授け、陳一薦・江海の官を二転し、その他は論功行賞し、金の降人夹谷奴婢は姓を改めて「同名鼎」、王聞顕・呼延寔・来伯友・石大瑞・白華にそれぞれ官を差をつけて授けることを詔した。丁酉、臣僚が「江淮荊襄諸路都大提点坑冶呉淵は才を恃み貪虐で人の家貲を数百万計も籍にとって己有とし、その弟の潜は道に違い誉を干め非類を任用している」と言ったため呉淵の右文殿脩撰、呉潜の袐閣脩撰を落として並びに放罷することを詔した。
  • 五月庚子、薛極が卒し少師を贈られた。戊申、太平州で螟害。己酉、太陰が氐宿に入った。乙夘、李知孝を瑞州居住、梁成大を潮州居住、呉沢を南康軍居住とし並びに再降授官の上、まもなく尽くその爵秩を追奪することを詔し、魏了翁を闕に召した。丙辰、趙范を両淮制置使・節州軍馬兼沿江制置副使とした。壬戌、崔与之を端明殿学士・提挙西京嵩山崇福宮、陳韡を権工部尚書・知隆興府・江西安撫使とした。丙寅、黄幹・李燔・李道傳・陳宓・楼昉・徐宣・胡夢昱はみな権姦に阨まれながらもそれぞれその志を行ったとして、諡を賜り官を復し優贈存恤し、それぞれその子を録用して忠義を旌することを詔し、戴埜にはその元資の復を詔して士風を励ました。建陽県で盗が起こり衆数千人が邵武の麻沙・長平を焼劫した。六月戊辰朔、鄭清之らが選徳殿の柱に金書六字「毋不敬・思無邪」があると奏すると、帝は「これは坐右の銘である」と言った。庚午、熒惑・填星が胃宿に合した。壬申、漳・泉・興化三州の丁米銭を蠲免することを詔した。丙子、李鳴復を侍御史兼侍講とした。戊寅、喬行簡を知樞密院事、曽従龍を参知政事、鄭性之を簽書樞密院事、陳貴誼に同知樞密院事を兼ねさせることを詔した。己夘、故巴陵県公竑の本身の官爵を尽く復すことを詔し、有司にその墓域を検視し時に祭を致すよう命じ、妻呉氏は前に尼となることを自請していたので特に慧浄法空大師を賜り紹興府に月々の衣資緡銭を給することを詔した。殿司に精鋭千人を選ばせ統制婁拱に統領楊辛を率いさせ建陽県の盗を討捕させた。辛巳、故端明殿学士開府儀同三司史彌遠に資政殿大学士を贈り諡「忠宣」とすることを詔し、熒惑が填星を犯した。丙戌、太白大の流星があった。戊子、日暈が匝せず生格の気があった。癸巳、史嵩之を兵部尚書に進め、銅銭を毀して器用とすることと海に貿易することを禁じた。
  • 秋七月乙巳、嘉興県の王臨が百二歳になったため廸功郎致仕に補することを詔した。八月癸酉、「河南の新復郡県は久しく荒廃し民の食は甚だ乏しい」として江淮制司に米麦百万石を発して帰附の軍民を済うことを命じ、開封・応天・河南三京に牓諭することを詔した。甲戌、朱楊祖・林拓が八陵に朝謁し戻って図を進上した。帝が諸陵の距離や陵前の澗水の新たな状況を尋ねると、楊祖は悉く答え、帝は涙を忍び太息した。乙亥、趙范を京湖関陝宣撫使・知開封府・東京留守、趙葵を京湖制置使・知応天府・南京留守、全子才を関陝制置使・知河南府・西京留守とすることを詔した。甲午、権邵武軍王埜が建陽の寇を平定した功で官を二転し、他は差をつけて推賞した。九月庚子、趙范を依旧京西湖北安撫制置大使・知襄陽府とした。辛丑、熒惑が井宿に入った。壬寅、趙范が「趙葵・全子才は軽率に偏師を遣わして西京を復させ、趙楷・劉子澄を参贊とし失計により師を後退させ律なく後陣を敗覆させた」と言ったため、詔で趙葵は一秩削られ河南京東の営田辺備を措置させ、全子才は一秩削られ唐鄧息の営田辺備を措置させ、劉子澄・趙楷は並びに三秩削られ放罷とされた。また「楊義一軍の敗は皆、徐敏子・范用吉が援に赴くのを怠り支えられなくさせたためである」と言ったため、詔で范用吉は武翼郎に降し、徐敏子は三秩削られ放罷、楊義は四秩削られ勒停自効とされた。己酉、真徳秀が「権臣が上を罔き講筵官もその言に付会した。今、その弊を承け慮るべきこと五事あり、あわせて泉漳の寇盗・鹽法の弊に及ぶ」と言い、帝はこれを嘉納し、進士何霆に朱熹の解注文字を編類させ経筵の資に補うため上文学を授けることを詔した。冬十月己夘、真徳秀が太学衍義を進上した。辛卯、陳貴誼が薨じ少保を贈られた。十一月壬子、京湖制司が鎮北軍を創め襄陽府駐劄御前忠衛軍を名とすることを詔した。壬戌、太白経天。十二月己卯、大元が王檝を遣わし来朝。戊子、王檝が後殿で辞去した。辛卯、鄒伸之・李復禮・喬仕安・劉溥を遣わし報謝し、それぞれ二秩を進めた。

宋史卷四十一