宋史卷四十 本紀第四十 寧宗四

嘉定十年(1217年)

  • 春正月癸巳、雨土。乙未、大風。庚子、銭撫を金への賀使に派遣。二月庚申、地震。夏四月丁未朔、金人が光州の中渡鎮を犯し榷場官盛允升を捕らえて殺し、兵を分けて樊城を犯した。戊申、鄂州江陵府副都統王守中が兵を率いてこれを拒いだ。金人は兵を分けて棗陽・光化軍を包囲した。丙辰、江淮制置使李珏・京湖制置使趙方に措置調遣を委ね便宜に行事させることを詔した。丁巳、四川制置使董居誼にも便宜行事を命じた。辛酉、廬州鈐轄王辛が光山県の安昌砦で金人を破りその統軍完顔掩を殺した。壬戌、金兵が遁去し、徐州・光化がともに勝報を伝えた。丁卯、出戍官兵に家への給付を詔した。
  • 五月辛巳、久雨により大理・三衙・臨安府の杖以下囚を釈放し茶鹽賞銭を蠲免。甲申、禮部進士呉潜以下五百二十三人に及第出身を賜った。癸卯、趙方が伐金の詔を請い、檄を伝えて中原の官吏軍民を招諭した。六月庚戌、太白昼見。戊午、将士を励まし京西忠義人を募って進討することを詔した。辛未、東川で大水。癸酉、太白経天。秋七月丙子朔、日食。戊午、旱により諸路の杖以下囚を釈放。甲申、雅州蛮が辺を寇し碉門砦を焼いたため兵を遣わし討伐させた。丁亥、嗣濮王不儔が薨じた。庚子、諸軍将佐に罪ある者は屯駐州に送り鞫問させ軍士への淫刑を罷めることを詔した。八月乙丑、監司郡守に威勇材略ある将帥にふさわしい者二人の推薦を詔した。冬十月乙巳朔、久雨により大理・三衙・臨安府及び両浙諸州の杖以下囚を釈放。癸酉、三衙・江上諸軍の公私逋負銭を蠲免。十一月丁丑、大風。庚辰、太白昼見。甲申、浙東提挙司に米十万石を発し貧民に振給することを詔した。戊戌、太白経天。十二月戊申、軍興により民の粟納入による補官を行った。乙卯、武挙人が再び文挙に応じることを禁じた。癸亥、金の鳳翔副都統軍完顔贇が歩騎万人で四川を犯した。戊辰、湫池堡に迫った。己巳、天水軍を破り守臣黄炎孫が遁走した。金人は白環堡を攻め破った。庚午、黄牛堡に迫り統制劉雄は大散関を棄てて遁走し金人がこれを拠した。

嘉定十一年(1218年)

  • 春正月壬午、京東路忠義李全が衆を率いて帰順したため京東路総管とすることを詔した。戊子、金人が皂郊堡を包囲した。壬辰、利州将麻仲が忠義人を率いて秦州永寧砦を焼いた。乙未、度僧牒千を四川軍費に給した。丁酉、四川忠義人の立功への賞は官軍と同様にすることを詔した。金人が隔芽関を犯し興元都統李貴が遁走して官軍が大潰した。二月甲辰、金人が大散関を焼いて去った。乙巳、沔州都統王大才が馬に躓き河池で死んだ。丙午、金人が皂郊を破り死者五万人。丁未、金人が湫池堡を破った。戊申、金人が随州を包囲し棗陽軍への遊騎が漢上に至り、均州守臣応謙之は城を棄てて逃げた。丙辰、白虹貫日。楚州鈐轄梁昭祖が金人の糧舟を大清河で焼き、京東忠義副都統沈鐸が兵を遣わし助けた。三月丁丑、金人が湫池堡を焼いて去った。戊子、利州統制王逸らが忠義人を率いて皂郊を復し、金の副統軍完顔贇・包長寿は遁走したが、沔州軍の郭雄がこれを追撃し贇の首を斬り、長寿はかろうじて身のみ免れた。己丑、沔州都統劉昌祖が皂郊に至った。辛卯、忠義人十万余が秦州を攻め、官軍が続いて赤谷口に至ったが、王逸は昌祖の命として退師し忠義人を放散させたため軍が大潰した。癸巳、包長寿が長安・鳳翔の衆を合わせ再び皂郊を攻め西和州に趨り、同日、鎮江忠義統制彭惟誠らが泗州で敗れた。丙申、劉昌祖が西和州を焼いて遁走し守臣楊克家は城を棄てて去った。戊戌、金人が西和州を破った。
  • 夏四月甲辰、劉昌祖が成州を焼いて遁走し守臣羅仲甲は城を棄てて去り、同日金人は西和州を去った。戊申、四川に印銭引五百万を増やし軍費に充てることを命じ、階州守臣侯頤は城を棄てて去り、同日金人は成州を去った。戊午、金人が再び大散関を犯し守将王立が遁走した。己未、金人が黄牛堡を犯すも興元都統呉政がこれを退けた。癸亥、政は大散関に至り王立を捕らえて斬った。五月乙亥、四川制置司に忠義人の招募を命じた。癸未、蚩尤旗が現れ長さ天に竟った。丁亥、侍従臺諫両省官に平戎・禦戎・和戎の三策の集議を詔した。壬辰、試法官七等の制を厳しくした。六月辛酉、湖州に被水貧民の振恤を詔した。秋七月癸酉、知天水軍黄炎孫の三官を奪い辰州居住とした。乙酉、孝宗寳訓を修めた。辛卯、四川関外諸州の税役を蠲免。甲午、光州の民兵戦死の家の税役を蠲免。九月己夘、景靈宮に朝献。庚辰、太廟に朝享。辛巳、明堂で天地を合祭し大赦。辛卯、安定郡王伯渾が薨じた。丙申、興元都統呉政・利州副都統張威にそれぞれ三官進め、劉昌祖は五官奪い韶州安置とした。冬十月丙午、羅仲甲・楊克家・侯頤をそれぞれ三官奪い、仲甲は常徳府、克家は道州、頤は撫州居住とした。戊午、大風。壬戌、盱眙軍城を修築。十一月壬申、金人が安豐軍の黄口灘を攻めた。この月、陝西人張羽が帰順した。

嘉定十二年(1219年)

  • 春正月戊辰朔、董居誼を行在に召し、新利州路安撫使聶子述を四川制置使とした。庚辰、金人が湫池堡を犯すも守将石宣がこれを退けた。甲申、金人が白環堡を攻めるも守将董炤がこれを退けた。戊子、金人が成州を犯し沔州都統張威は西和州より仙人原に退守した。庚寅、金人が随州・棗陽軍を犯し、また信陽軍の二砦を破ったため京西の諸将が兵を率いて拒いだ。辛卯、金人が西和州を犯すも守将趙彦呐が伏を設けてその衆を殲滅した。金人は安豐軍を犯すも建康都統許俊が将を遣わしこれを退けた。金人は成州を焼き河池を犯すも守将張斌は遁走した。癸巳、金人が安豐軍・光州を包囲し光化軍を攻めて鄖山県を破り均州に迫った。甲午、鳳州を破り守臣雷雲は城を棄てて去り、金人はその城を破壊した。乙未、興元都統呉政が金人と黄牛堡で戦い戦死し、金人は武休関に勝ちに乗じて攻めた。
  • 二月戊戌朔、金人が光山県を破った。太白昼見。壬寅、金人が棗陽軍を包囲し、京湖制置使趙方が統制扈再興を遣わし救わせるも克たず進んで還った。癸卯、金人が武休関を破り興元都統李貴は遁走、還って利州路提刑権興元府事趙希皆も城を棄てて去った。丁未、金人が興元府を破った。戊申、金人が棗陽軍を攻めた。己酉、殿前司軍八千人を遣わし江面を防捍させた。庚戌、曾従龍を同知樞密院事兼江淮宣撫使、権吏部尚書任希夷を簽書樞密院事とした。辛亥、金人が大安軍を破り守臣李文子は城を棄てて去り、金人は洋州を犯すも守臣蔡晋卿が兵を遣わし拒くも克たず洋州が破れた。壬子、四川制置使董居誼は利州より遁走したが、沔州都統張威が統制石宣らを遣わし大安軍で金人を邀撃して大破し、その将巴土魯安を獲た。金人はついに興元府を去った。丙辰、金人が洋州を去った。丁巳、京湖制置使趙方が統制扈再興らを遣わし三万余人で唐・鄧二州を出撃し、随州忠義統領劉世興らが唐州を攻めた。甲子、金人が棗陽軍を去った。乙丑、夏人が再び書を寄せ四川と金人への夾攻を議し、利州路安撫丁焴がこれを許した。
  • 三月己巳、鄭昭先を知樞密院事、曾従龍を参知政事とした。癸酉、金人が再び洋州に入りその城を焼いて去った。乙亥、興元軍士権興らが乱を起こし巴州を犯すも守臣秦季槱は城を棄てて去り、鄂州統制劉世栄が兵を合わせ唐州を攻めた。丁亥、太白昼見。権興らが降った。癸巳、雨土。甲午、金人が盱眙より退師した。閏月己未、雷雲の三官を追奪し梅州安置。辛酉、呉政に右武大夫・忠州刺史を贈った。壬戌、四川官軍・忠義人を撫諭した。癸亥、興元軍士張福・莫簡らが乱を起こし紅巾を号とした。この春、金人が安豐軍・滁・濠・光三州を包囲し、江淮制置使李珏が池州都統武師道・忠義軍統制陳孝忠に救わせるも共に進めず、金人はついに兵を分け光州から黄州の麻城を犯し、濠州から和州の石磧を犯し、盱眙軍から滁州の全椒・来安及び楊州の天長・真州の六合を犯した。淮南の流民が江を渡り乱を避け、諸城は悉く門を閉ざし、金人の遊騎数百が東采石・楊林渡に至り建康は大いに震撼した。京東総管李全は楚州より、忠義総轄李先は漣水軍よりそれぞれ兵を率いて救援に赴き、金人はここに至り退去し、全はこれを曹家荘で追撃して破りその貴将を獲た。
  • 夏四月庚午、張福が利州に入り四川制置使聶子述は遁走し総領財賦楊九鼎が殺された。丁丑、張福が閬州を掠奪。丁亥、果州を掠奪。癸巳、曾従龍が罷免され鄭昭先に参知政事を兼ねさせ、崇信軍節度使開府儀同三司萬夀觀使安丙を四川宣撫使とし、董居誼は落職して三官奪われた。五月乙未朔、聶子述を行在に召し、張福が遂寧府に迫り潼川府路転運判官権府事程遇孫は城を棄てて遁走した。丁酉、両淮荊襄湖北利州路沿辺諸州の雑犯死罪囚を減じ流以下を釈放し今年の租税を蠲免。己亥、太学生何処恬らが闕に伏して上書し、工部尚書胡榘が金人との和議を欲したとしてこれを誅し天下に謝すよう請うた。張福が遂寧府に入りその城を焼いた。甲寅、四川宣撫司が沔州都統張威に兵を率い福を捕らえさせることを命じた。戊午、福が晋州に入り守臣張已之は城を棄てて遁走した。癸亥、侍従両省臺諫に文武の才二三人の推薦を詔した。六月戊辰、張福が普州の茗山に屯し、庚午、張威が兵を率いて到着した。丙子、太白昼見。辛巳、西川で地震。太白昼見。癸未、張福が降を請うた。乙酉、張威がこれを捕らえ宣撫司に送った。丁亥、嗣濮王不嫖が薨じ、金国は李全らを招諭しても聴かなかった。辛卯、太白経天。癸巳、丁焴が再び書をもって夏国と金人攻撃を約した。
  • 秋七月丙申、張福が誅に伏し、董居誼をさらに二官奪い永州居住とした。庚子、張威が賊衆一千三百余人を捕らえて誅し、莫簡は自殺し紅巾の賊は悉く平定された。癸亥、李全が兵を率いて斉州に至り知州王贇が城を挙げて降った。八月戊辰、利州東西路を再び一路に合わせた。九月丙午、江淮制置司を罷め沿江淮東西制置司を置き、寶文閣待制李大東を沿江制置使、淮南転運判官趙善湘を主管淮西制置司公事、淮東提刑賈渉を主管淮東制置司公事兼節制京東河北路軍馬とした。十一月辛亥、楊次山を会稽郡王に進封。十二月壬申、京東節制司が京東河北二府九州四十県を復したことを言上した。乙亥、興元府城を築いた。丁丑、雅州蛮が盧山県に入った。己卯、四川宣撫司が兵を遣わし洮州を取り、諸将を召して中原の豪傑の招諭を議した。辛巳、蛮が碉門砦を焼き辺丁が大敗した。乙酉、金人が鳳州の長橋を犯した。丁亥、四川宣撫司が洮州の師を罷めることを命じた。己丑、京湖制置司が統制扈再興らに兵六万人を遣わし二道に分けて出境させた。庚寅、茗山の捕賊功を賞した。

嘉定十三年(1220年)

  • 春正月丁酉、扈再興が兵を率い鄧州を攻め、鄂州都統許国が唐州を攻めるも克たず還り、金人がこれを追撃してついに樊城を攻め、趙方が諸将を督してこれを拒退した。己亥、雅州蛮が再び盧山県を掠め兵を遣わし討伐させた。己酉、不凌を嗣濮王とすることを命じた。戊午、夏人が再び書を寄せ四川と金人夾攻を議した。三月辛卯朔、雨土。丁巳、黎州の土丁が叛き兵を遣わし討伐させた。夏四月庚申朔、淮東制置賈渉が山東両河の豪傑を招諭した。五月庚寅朔、雅州蛮が降った。戊戌、史彌遠らが玉牒及び三祖下第七世宗藩慶系録を上った。六月癸酉、禮部進士劉渭以下四百七十五人に及第出身を賜った。安丙に少保を加えた。丙子、李全を左武衛大将軍とした。壬午、季先を果州団練使・漣水軍忠義副都統とし、樞密院への出仕を命じたが到着前に殺された。秋七月戊戌、京東河北諸州守臣の空名官告を京東河北節制司に付し帰順を待つ豪傑に備えた。丙午、任希夷に参知政事を兼ねさせた。丙辰、四川宣撫司が黎人・土丁を招き降した。八月癸亥、皇太子詢が薨じ諡「&KR1402;獻」を賜った。壬申、安丙が夏人に書を遺し金人夾攻の議を定めた。癸未、四川宣撫司が利州統制王仕信に兵を率いて熙・鞏州で夏人と会わせることを命じ、檄を伝えて陝西五路の官吏軍民を招諭した。甲申、海州を復し将作監丞徐晞稷を知州事とした。盱眙将石珪が叛いて漣水軍に入ったため珪を漣水忠義軍統轄とすることを詔した。九月辛卯、夏人が兵を率い鞏州を包囲し師を促した。甲午、太白昼見。王仕信が兵を宕昌より発した。乙未、四川宣撫司統制質俊・李寔が兵を下城より発した。戊戌、四川宣撫司が諸将に分道進兵を命じ、沔州都統張威は天水に出て、利州副都統程信は長道に出て、興元副都統陳立は大散関に出て、興元統制田胃は宣撫司帳前都統として子午谷に出て、金州副都統陳昱は上津に出た。己亥、張威が所部諸将に擅な進兵を禁じた。庚子、質俊らが来遠鎮を克した。辛丑、王仕信が鹽川鎮を克した。壬寅、質俊らが来遠鎮より定辺城を進攻し、金人が救援に来たがこれを撃破した。乙巳、程信・王仕信が兵を率い夏人と鞏州城下で会した。丁未、城を攻めるも克たず。庚戌、金人が皂郊堡を犯し沔州統制董炤らがこれと戦うも大敗した。壬子、程信が夏人と鞏州を攻めるも克たず、信は兵を率い秦州に趨った。丙辰、夏人が安遠砦より退師した。冬十月丁巳朔、程信が夏人を邀えて共に秦州を攻めようとしたが夏人は従わず、信はついに伏羌城より軍を還し諸将は皆兵を罷めた。戊寅、程信は四川宣撫司の命により王仕信を西和州で斬った。四川宣撫司は張威が進兵しなかったため軍職を罷めた。十一月庚戌、大風。壬子、臨安府で火災。十二月戊午、大風。壬申、漣水忠義軍統轄石珪が叛いた。癸未、鎮江副都統翟朝宗が「皇帝恭膺天命之寳」を献じた。

嘉定十四年(1221年)

  • 春正月丙戌朔、雪寒により大理・三衙・臨安・両浙諸州の杖以下囚を釈放。乙未、地震。李全が山東より還ったことにより緡銭六万を賜った。庚子、四川運米賞格を立てた。二月戊辰、金人が光州を包囲した。己巳、金人が五関を犯した。壬申、金人が団風で舟を治めるも渡れず黄州を包囲し、兵を分けて諸県を破り、また別将を遣わし漢陽軍を犯した。丁丑、李全が泗州を棄て遁走して還った。甲申、詔で淮東京湖諸路に淮西の応援と沿江制置司の江面防守を命じ、権殿前司職事馮榯に兵を将いさせ鄂州に駐屯させ、京東忠義都統李全に兵を将いさせ蘄・黄を救わせようとしたが榯は果たさず。三月丙戌朔、鄂州副都統扈再興が兵を率い唐州を攻めた。丁亥、金人が黄州を破り淮西提刑知州事何大節は城を棄てて遁走し死んだ。庚寅、長星が現れ、李全が楚州より兵を率い淮西を援けた。癸巳、扈再興が所部を率い蘄州に趨った。甲午、太白昼見。乙未、京湖制置司に蘄黄の援助を趣促する詔を出した。己亥、金人が蘄州を陥落させ知州事李誠之及びその家人官属は皆死んだ。癸丑、金人が退師し扈再興がこれを天長鎮で邀撃して破った。甲寅、晦にまたこれを破った。
  • 夏四月乙卯、諸王宮の大小学教授を再置した。乙丑、任子の簾試を御史臺で行うことを命じた。戊辰、金人が淮を渡り北に還り、李全が兵を遣わし追撃して破った。五月甲申朔、日食。壬辰、史彌遠らが孝宗寳訓・皇帝会要を上った。丙申、西川で地震。乙巳、慶元寛恤詔令を頒布。六月甲寅朔、沿江制置副使司を初めて鄂州に置いた。丙寅、姪の福州観察使貴和を皇子とし「竑」と改名し祁国公に進封することを詔した。丁卯、立皇子を天地宗廟社稷に告げた。乙亥、太祖十世孫與莒を乗義郎に補した。丙子、京畿の囚罪を一等減じ杖以下を釈放。辛巳、大風。秋七月辛丑、趙方を京湖制置大使、賈渉を淮東制置使兼京東河北路節制使とした。丁未、光宗寳訓を修めた。八月乙卯、史彌遠に家廟を賜り、任希夷が罷免。壬戌、兵部尚書宣繒を同知樞密院事、給事中俞応符を簽書樞密院事とした。甲子、秉義郎與莒を右監門衛大将軍とし「貴誠」と改名。乙丑、史浩を越王に追封し諡を「忠定」と改め孝宗廟庭に配享した。戊寅、姪の右監門衛大将軍貴誠を果州団練使とした。九月癸未、貴誠を沂靖恵王の後嗣に立てた。己丑、景靈宮に朝献。庚寅、太廟に朝饗。辛卯、明堂で天地を合祭し大赦。冬十月癸丑、京東河北節制司が滄州の回復を言上し、趙澤を河北東路鈐轄知州事とした。甲寅、齊州を再び済南府に、兖州を襲慶府に復した。丙寅、夏人が再び書を寄せ四川と会兵を促した。庚午、雷。十一月己亥、安丙が薨じた。この月、京東安撫張林が叛いた。十二月庚申、鄭昭先が罷免。閏月辛巳朔、宣繒に参知政事を兼ねさせ、俞応符に権参知政事を兼ねさせた。戊申、殿前司同正将華岳らが変を謀ったため殺した。この歳、浙東江西福建諸路が旱、沔・成・階・利四州が水害に遭い振済した。

嘉定十五年(1222年)

  • 春正月庚戌朔、大慶殿で恭膺天命の寶を受けた。癸丑、李誠之の廟を蘄州に立てた。甲寅、蘄州の死事官吏を褒贈し子孫を録用した。丁巳、山東河北の軍民将帥官吏を撫諭する詔を出した。己未、受寶により大赦し文武官の秩を一級進め諸軍を大いに犒った。二月庚子、御史臺の簾試任子法を罷めた。三月丁巳、江西提挙司に旱傷州県の振恤を詔した。夏四月壬午、蘄州の今年の租賦を蠲免。五月庚戌、太白昼見。甲寅、監司に囚を慮り州県で囚を匿す者の弾劾を詔した。丁巳、子の祁国公竑を済国公に進封。己未、姪の果州団練使貴誠を邵州防禦使とした。壬戌、知済南府种贇らが張林を青州で攻め林は遁走した。己巳、孝宗経武要略を修めた。六月辛卯、俞応符が薨じた。秋七月甲子、江淮荊襄四川制置監司に営田の条画を上るよう詔した。八月己卯、戸部に義役の詳議を命じた。辛卯、文武官の帰宗(本宗への復帰)を禁じ法令化した。甲午、彗星が氐宿に出た。九月辛亥、宣繒を参知政事、給事中程卓を同知樞密院事、吏部尚書薛極に出身を賜り簽書樞密院事とした。癸丑、雷大雨雹。丁巳、随州三関を再び徳安府に隷し関使を置いた。壬戌、彗星が没した。辛未、太白昼見。冬十月丙子、京東州軍回復による忠義への犒賞に差があった。十一月戊午、京東河北路を赦した。十二月乙亥朔、米を発し臨安府の貧民を振給。丙子、雪寒により京畿及び両浙諸州の杖以下囚を釈放。丁亥、李全を保寧軍節度使・右金吾衛上将軍・京東路鎮撫副使とした。

嘉定十六年(1223年)

  • 春正月戊申、命官の犯贓は罪を免ぜぬことを詔した。己酉、子坻が誕生。辛酉、淮東制置司に山東流民の振給を命じた。二月戊子、雨土。己丑、嗣秀王師禹が薨じ和王に追封。戊戌、子坻が薨じ邳王に追封、諡「沖美」。三月戊申、張林の所部邢徳が帰順したため二官進め京東東路副総管に復した。丁卯、道州の民の饑餓により米を発し振済することを詔した。夏五月甲辰、右選に左選同様の試注官の制を詔した。戊申、禮部進士蒋重珍以下五百四十九人に及第出身を賜った。戊辰、潭州の税酒法を復した。六月丁酉、程卓が薨じた。秋八月辛巳、州県の経界は紹興の税額を増やさぬことを詔した。癸未、舶船の銅銭の禁を厳しくした。九月庚子朔、日食。乙巳、江淮諸司に被水貧民の振恤を詔した。乙卯、雷。冬十一月辛亥、太平州の大水により振恤を詔した。十二月辛巳、淮東西総領及び沿江被水州に江西湖南の民を募って米を入れさせ補官することを命じた。癸未、嗣濮王不凌が薨じた。壬辰、雷。

嘉定十七年(1224年)

  • 春正月戊戌朔、先聖の裔孔元用を通直郎に補し程頤の後を継がせることを詔した。癸亥、淮東西湖北路転運司に営屯田の提督を命じた。二月癸巳、台州の通賦十万余緡を蠲免。甲午、臨安府に貧民への振糶を命じた。三月癸丑、雪が降った。この月、金人が西和州に迫るもまもなく兵を引いて還った。夏四月辛卯、廬州に饑民への振糶を詔した。乙未、李全・彭義斌に犒賞戦士費として銭三十万緡を賜った。五月戊戌、両淮京湖四川江上諸軍の数の核実を詔した。六月丁卯朔、太白経天昼見。癸酉、知和州尚震午は金兵の到来を聞き遁走を謀ったため三官を奪われ岳州居住とされた。壬辰、大名府の蘇椿らが城を挙げて帰順し悉く補官してその州を授けた。秋七月丁酉朔、福建路監司に被水貧民の振恤を命じた。辛亥、師嵒に秀王を嗣がせることを命じた。八月乙亥、通州の天賜鹽場を罷めた。丙戌、帝が不予となった。閏八月乙未朔、両浙諸州の輸苗の過取を厳しく禁じた。丁酉、皇帝は福寧殿で崩じた。年五十七。史彌遠は遺詔を伝え、姪の貴誠を皇子に立て「昀」と改名して皇帝位に即かせ、皇后を皇太后として垂簾聴政させ、皇子竑を済陽郡王に進封して湖州に出居させた。寳慶元年(1225年)正月乙丑、諡を「仁文哲武恭孝皇帝」、廟号を「寧宗」とした。三月癸酉、会稽の永茂陵に葬った。三年九月、諡法を加え「天備道純徳茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝」とした。

史論

贊にいう。宋の御世の内禅は四度あったが、寧宗の禅は独り事勢の難きに当たり、なお礼節を失わなかった。これは善く処したと言うべきである。初年は旧学の輔導の功により宿儒を召用し善類を引き立て、一時は守文継体の政が輝かしく見るべきものがあった。中頃、韓侂胄が事を用い内に群奸を蓄え、ついには正人を邪とし正学を偽と指し、外は強隣を挑発して淮甸に毒を流し、頻年の兵敗の末に侂胄の首を函にして金国と講和を結び、国体は損なわれた。やがて史彌遠が権を擅にし、帝の耄荒(老いてぼんやりすること)に乗じて威福を弄び、皇儲国統に至るまで機に乗じ間を伺ってその廃立の私を遂げた。他も推して知るべきである。とはいえ、宋の東都(北宋)は仁宗に至るまで四代を伝えて国を保つこと百年、邵雍はこれを前代未有と称した。南渡の後、寧宗に至るまでもまた四代を伝えて国を保つこと九十八年、これもまた偶然ではあるまい。惜しむらくは、神器授受の際、寧宗と理宗の跡は仁宗・英宗のそれと似てはいても、その情は大きく異なっていた。

宋史卷四十