宋史卷三十九 本紀第三十九 寧宗三

嘉定元年(1208年)

  • 春正月戊寅、右諫議大夫葉時らが韓侂胄の首を両淮に梟して天下に謝すことを請うたが取り上げられなかった。辛巳、求言の詔を出した。壬午、王柟が河南より還り金人が韓侂胄の首を求める牒を持ち帰った。丙戌、葉時らが再び首の梟示を請うた。戊子、安定郡王伯栩が薨じた。壬辰、史彌遠を知樞密院事とし、許奕を金国通謝使とした。二月戊申、趙汝愚に観文殿大学士を追復し諡「忠定」とした。史官に紹熙以来の韓侂胄事迹の改訂を詔した。壬子、臨安府に流民の振給を詔した。戊午、程松を責授し果州団練副使・賓州安置とした。この月、郴州の黒風峒寇羅世傳が乱を起こし招降された。三月癸酉、毛自知は用兵をまず論じた咎により進士第一人の恩例を奪われた。戊子、内外群臣に秦檜の王爵・贈諡の復旧を戒める詔を出した。己丑、王柟が軍前より再び行在に還り、韓侂胄の首函と淮陝の侵地交換が議された。辛卯、侂胄の首を両淮に梟すことを詔した。この春、子垍が誕生。
  • 夏四月丙辰、後省に群臣の奏疏で実行可能なものの上聞を詔した。彭亀年に寶謨閣直学士を贈り、李沐の寶文閣学士を落とした。戊午、陳自強を再び責授し復州団練副使・雷州安置としその家を籍没した。閏月辛未、拘榷安辺銭物所を置いた。壬申、雨雹。癸未、子垍が薨じ肅王に追封、諡「沖靖」。大理・三衙・臨安府・諸路の闕雨州県に繋囚の決断と杖以下の釈放を詔した。甲申、以後は視事に皇太子を侍立させることを詔した。乙酉、銭象祖に太子少傅を兼ねさせ、衛涇・雷孝友・林大中に太子賓客を兼ねさせた。辛卯、旱により天地宗廟社稷に禱った。癸巳、常膳を減じた。乙未、両浙の闕雨州県の貧民の逋賦を蠲免し大理・三衙・臨安府・両浙州県に繋囚の決断を命じた。丙申、太乙宮・眀慶寺に幸し禱雨。丁酉、旱により求言の詔を出した。
  • 五月辛酉、禮部進士鄭自成以下四百二十六人に及第出身を賜った。甲子、太白経天。乙丑、飛蝗の災により常膳を減じた。丁卯、侍従・臺諫に闕政の上疏、監司守令に民間利害の条上を詔した。六月庚午、金人が大散関を還した。辛未、金人が濠州を還した。乙亥、衛涇が罷免。丙子、鄒応龍を金への賀使に派遣。甲申、林大中が薨じた。乙酉、蝗害により天地社稷に禱った。丙戌、侍従両省臺諫に沿辺守臣の推薦を詔した。辛卯、史彌遠に参知政事を兼ねさせた。秋七月辛丑、呂祖泰を特に上州文学に補することを詔した。癸丑、丘崈を同知樞密院事とした。壬戌、飛蝗の災により三省に寛恤の未だ尽きぬ事の上奏を詔した。八月戊辰朔、米を発して貧民を振済。辛未、丘崈が卒した。甲戌、侍従臺諫両省に会子の折閲(減価)利害の詳議を命じた。辛巳、禮部尚書婁機を同知樞密院事、吏部尚書楼鑰を簽書樞密院事とした。丙戌、礼部侍郎許奕・起居舎人曾従龍に監司守令の陳ずる民間利害を考訂させ実行可能なものは選び、未上のものは督促させた。甲午、米三十万を発し江淮の流民に振糶。
  • 九月辛丑、金使完顔侃・喬宇が入見した。壬子、安辺所の銭百万緡を出し江淮制置大使司に命じて米を糴わせ饑民を振済。己未、和議成立を天下に諭す詔。甲子、曾従龍を金への賀正使に派遣。乙丑、大風により沿辺諸州を赦した。冬十月丙子、銭象祖を左丞相、史彌遠を右丞相、雷孝友を知樞密院事兼参知政事、婁機を参知政事、楼鑰を同知樞密院事とした。己卯、慶元年間に上書した楊宏中ら六人を褒録。庚辰、伯柷を安定郡王に封じた。辛巳、蔡璉は除名され贑州牢城に配された。癸未、金の使者が瑞慶節を賀しに来た。十一月丙辰、金主璟が殂した。戊午、史彌遠が母の喪により離任。十二月戊辰、銭象祖が罷免。庚午、四川に初めて当五大銭を行い、嘉興府を嘉興軍に昇格、李沐をさらに三官奪い信州居住とした。戊寅、曽従龍に改めて金への弔祭を命じた。己卯、黎州蛮の畜卜が辺を寇した。己丑、宇文紹彭を金への賀即位使に派遣。辛夘、両淮州軍の二税を一年蠲免。この歳、江淮制置司が雄淮軍を汰して農に帰らせ、淮東で八千余人を選抜して鎮江大軍・武鋒軍の欠を補い、淮西で二万六千余人を選抜して御前定武軍とした。

嘉定二年(1209年)

  • 春正月庚子、内外有司に節用の事の上疏を詔した。辛丑、金の裴満正が告哀に来た。丁巳、楼鑰を参知政事、御史中丞章良能を同知樞密院事、吏部尚書宇文紹節を簽書樞密院事とした。庚申、金の蒲察知剛が遺留物を献じに来た。侍従両省臺諫に治行優異な監司郡守二三人の推薦を詔した。二月己巳、金使が即位を告げに来た。庚午、黎州蛮が辺を寇した。壬午、会子の折閲が激化したため侍従両省以下に所見の上疏を詔した。丁亥、法科試経義を罷め六場の旧法を復した。戊子、大風。三月丙申、雨雹。己酉、会子の下落により籍没された者の家財を返還することを詔した。戊午、両淮官吏の私買民田を禁じた。庚申、浙西・沿江諸州に流民病者への薬給付を命じた。辛酉、漳・泉・福三州・興化軍の廃寺田売却を罷めた。壬戌、内庫銭十万緡を出し臨安の貧民の棺槥費とした。
  • 夏四月乙丑、諸路監司に督州県の捕蝗を詔した。戊辰、江淮制置司の言により廬・濠二州の忠義軍を農に帰らせた。甲申、臨安諸軍の死者に棺銭を賜った。戊子、楊震仲に諡「節毅」を賜った。五月丙申、史彌遠を起復。丁酉、旱により諸路監司に繋囚の決断と貪残な守令の弾劾を詔した。戊戌、借補武訓郎羅日愿が変を謀り誅殺された。庚子、侍従両省臺諫に政績才望ある監司郡守二人の推薦を詔し郎官の欠を補わせた。辛丑、州県に再び捕蝗を命じた。癸卯、両淮荊襄守令の戸口多寡による殿最を詔した。乙卯、大理・三衙・臨安府・両浙州県の杖以下囚を釈放し茶鹽賞銭を除いた。己未、旱により群臣に封事の上奏を詔した。庚申、天地宗廟社稷に禱った。
  • 六月癸亥朔、浙西諸州に麻豆種植を諭し租を督さぬことを命じた。臺省・諸路監司に滞獄の速決を詔した。戊辰、成粛皇后の神御を&KR1402;靈宮に奉安。己巳、俞応符を金への賀使に派遣。乙酉、天地宗廟社稷に再び禱雨。己丑、江西福建二広の豊稔諸州に糴運を命じ臨安に供させ、その費を賞した。辛夘、京湖制置司の言により諸州新軍と忠義人を農に帰らせた。秋七月癸巳、有司に寛恤の政五条の施行を命じた。乙未、荒歉州県の七歳以下男女の異姓収養を法令化。己亥、信陽・荊門・漢陽軍の民の賦を蠲免。壬寅、両淮転運司に諸州の民への麦種給与を命じた。癸卯、民の募集により饑民の振済と免役を行った。八月甲子、両淮諸州の民に鉄銭を沿江八州で行うことを聴した。乙丑、安丙を四川制置大使とし宣撫司を罷めた。甲戌、皇后を册立した。丁丑、皇太子が太廟に謁した。戊寅、皇太子の名を「詢」と改めることを詔した。己夘、黎州蛮が再び辺を寇した。丙戌、米十万石を発し両淮の饑民を振済。
  • 九月己亥、&KR1402;靈宮に朝献。庚子、太廟に朝享。辛丑、明堂で天地を合祭し大赦。丙午、太学の内舎生を十員増やした。癸丑、吏部郎官劉爚らに中外の陳ずる会子利害の審定を命じ朝廷に上らせた。己未、費培を金への賀正使に派遣。冬十月丁卯、京湖制置司に逃卒・放散忠義人の募集による廂禁軍の欠補を命じた。丁丑、金の使者が瑞慶節を賀しに来た。己丑、両淮転運司に諸路の民への稲種給与、公私房廊白地銭の三割減を命じた。十一月辛卯朔、沔州統制張林らが乱を謀るも事覚し死を貸されて除名・広南羈管とされた。甲午、浙西監司に饑民を募った水利事業を詔した。乙未、歳饑により雪宴を罷めた。この月、郴州黒風峒寇李元礪が乱を起こし数万の衆で吉・郴の諸県を連破したため、荊・鄂・江・池四州軍を遣わして討伐させた。十二月甲子、四川制置大使司が官軍を調え黎州蛮を討つも敗績。己巳、朱熹に諡「文」を賜った。乙亥、諸州に職田の租を糴らせぬことを詔した。丙戌、金の使者が来年正旦を賀しに来た。この歳、諸路旱蝗、楊・楚・衡・郴・吉五州と南安軍で盗が起こった。

嘉定三年(1210年)

  • 春正月甲辰、群盗招諭の詔を出し、監司郡守を戒飭する詔も出した。丙午、雨土。二月辛酉、黎州蛮が再び辺を寇した。庚午、楚州武鋒軍に大軍と同様の累重銭を給すことを詔した。壬午、工部侍郎王居安を知隆興府とし峒寇の督捕を命じた。三月丁酉、都城及び荒歉諸州の民間の逋負を蠲免。己亥、湖南転運判官曹彦約を知潭州とし峒寇の督捕を命じた。庚子、彭亀年に諡「忠粛」を賜った。甲寅、楚州の渠賊胡海を誅した。丙辰、久雨により両浙州県の繋囚を釈放。夏四月癸亥、李元礪が南雄州を犯し官軍が大敗した。乙丑、臨安の繋囚を決し杖以下を釈放。丙寅、監司守臣に賊に蹂躙された泰・吉二州の民の安集を詔した。戊辰、内庫銭二十三万緡を出し臨安の軍民に賜った。己巳、臨安府に病死した細民への棺櫬給与を詔した。
  • 五月乙未、淮東の賊が悉く平定され、詔で残破州県を寛恤した。甲辰、前歳の旱蝗により百官の応詔封事から両省が実行可能なものを選び上らせた。乙巳、沿海諸州に海寇の督捕を命じた。戊申、両淮の屯田を経理した。庚戌、江陵忠勇軍を「御前忠勇軍」とした。癸丑、久雨により米を発し貧民を振済。六月丁巳朔、日食。壬戌、有司に寛恤の政十九条の施行を命じた。癸亥、黄中を金への賀使に派遣。己夘、楊次山に少保を加え永陽郡王に封じ、三衙・江上・四川諸軍の主帥に軍籍の欺冒(不正)を核実させ、贓罪として問うた。この月、池州副都統許俊・江州副都統劉元鼎が李元礪と江西で戦うも共に利あらず、知潭州曹彦約もまた賊と戦い敗れ、賊勢はますます盛んになった。秋七月辛卯、圍田の増広を厳しく禁じた。癸卯、南班を三十員に定めた。八月乙亥、大風で木が抜けた。この月、臨安府で蝗害。九月丙戌朔、三衙・江上諸軍の升差将校は必ず才芸・年労によることとし、私を狥う者は臺諫及び制置総領がこれを弾劾することを詔した。癸丑、銭仲彪を金への賀正使に派遣。冬十月壬申、雷。金の使者が瑞慶節を賀しに来た。丁丑、南雄州の戦没将士に恩を推した。十一月癸巳、楚州平賊の功を賞した。乙巳、朝臣二人を両浙路に遣わし提挙官と浮鹽の収取を議させた。この月、李元礪が贑州・南安軍に迫り、重賞をもって討伐する者を募った。十二月丙辰、江淮諸司に守令の流民安集を厳戒する詔を出した。戊午、婁機が罷免。丙寅、湖南の賊羅世傳が李元礪を縛って降り峒寇が悉く平定された。辛巳、金の使者が来年正旦を賀しに来た。黎州蛮が降を請うた。この歳、臨安・紹興二府、厳・衢二州で大水があり振済し、その賦を蠲免した。

嘉定四年(1211年)

  • 春正月己丑、叙州蛮が嘉定府の利店砦を攻め陥落させた。甲辰、四川の鹽檐銭に対して激賞絹を一年減じた。丙午、湖南江西諸州の賊に蹂躙された地について、監司守臣が県令の安集の実を考察しその能否を第付けて上ることを詔した。二月乙卯、李元礪が誅に伏した。壬戌、羅世傳は補官されたがまもなく再叛した。辛巳、広西諸州の牛税を罷めた。閏月丁未、大風。辛亥、諸路帥臣監司守令に朝廷の振恤の令と盗発を即座に捕らえぬ者への重罪を詔した。三月己未、臨安府に病民の死者への棺銭給与を振給。丙子、沔州将劉世雄らが仙人原に拠って乱を謀るも誅に伏した。夏四月甲申、両浙福建州県の鹽酒の科折を禁じた。己丑、呉曦の没官田租をもって関外四州の旱傷秋税に代えた。丙午、黒風峒に「効忠」の名を賜った。戊申、内庫銭を出し疫死者の貧民を瘞葬した。この月、四川制置大使司が安辺司を置き蛮事の経制を成都路提刑李&KR0811;・漳川路安撫許奕に共に領させた。
  • 五月乙亥、禮部進士趙建大以下四百六十五人に及第出身を賜った。六月丁亥、余嶸を金への賀使に派遣したが金国に難があり至らず還った。京畿の囚罪を一等減じ杖以下を釈放。辛丑、四川諸軍の軍額を改定。秋七月壬戌、太白昼見。丙寅、四川官吏でかつて偽命を受けた者は以後叙用せぬことを詔した。丁丑、軍興以来の爵賞の冒濫を自陳させその罪を除くことを詔した。九月辛酉、叙州蛮が辺を寇した。乙亥、羅世傳がその党に殺された。丁丑、程卓を金への賀正使に派遣し、辺境で罪を得た者は以後叙用せぬことを詔した。冬十月甲辰、金国の内難により江淮京湖四川制置司に辺備を厳しくすることを命じた。十一月乙酉朔、日食。癸丑、峒寇平定の功を賞した。甲戌、諸軍升差の制を厳しくした。十二月辛巳、奉議郎張鎡は国本を揺るがしたとして除名され象州羈管。癸未、会子の折閲不行により官を遣わし江浙諸州を体訪した。乙巳、金の使者が来年正旦を賀しに来た。この歳、金国に難があり賀生辰使が至らなかった。

嘉定五年(1212年)

  • 春正月己巳、諸路に両浙倍役法の通行を詔し法令化した。壬申、李好義に諡「忠壮」を賜った。二月壬午、両淮の軍興以来の借補官を罷めた。三月庚戌、四川制置司が兵を分道して叙州蛮を討ち、その酋長米在が降を請うた。戊辰、久雨により大理・三衙・臨安府・両浙州県に繋囚の決断を詔した。甲戌、広東湖南京西の盗平定により監司帥臣の進職に差があった。夏五月癸酉、安南国王李龍翰が卒し子の昊旵を安南国王とした。州県の現役の者に免役銭を納れさせず役満了後に復輸させることを詔した。六月癸未、傅誠を金への賀使に派遣。乙酉、銅銭の過江を禁じた。秋七月庚申、降叙州蛮の功を賞した。戊辰、雷雨で太廟屋を毀したため正殿を避け膳を減じた。八月甲戌朔、後殿に御し膳を復した。九月丙午、太白昼見。己酉、有司が続編中興礼書を上った。庚戌、遵義砦の夷楊煥が馬を献じに来た。辛未、沿海諸州の海船銭を罷め、応武を金への賀正使に派遣。冬十月辛巳、諸路総領官に将帥にふさわしい者二三人の歳ごとの推薦、安撫提刑に将材二人の推薦を詔した。戊子、金の使者が瑞慶節を賀しに来た。戊戌、雷。使者を遣わし安南を弔祭。十一月庚申、景靈宮に朝献。辛酉、太廟に朝饗。壬戌、圜丘で天地を祀り大赦。十二月丁丑、濠州の租税を再び一年蠲免。壬午、州県の横に増した税額を蠲免することを詔した。己亥、金の使者が来年正旦を賀しに来た。

嘉定六年(1213年)

  • 春正月庚申、宇文紹節が卒した。侍従臺諫両省官帥守監司に実材二三人の推薦を詔した。二月丁丑、太白昼見。丙戌、有司が嘉定編修吏部条法総類を上った。乙未、宗室が胥吏と婚姻を結ぶことを禁じ法令化。三月癸亥、楼鑰が罷免。夏四月丙子、章良能を参知政事とした。甲午、法科試経義法を復し雑流進納人はこれに与らせなかった。五月丁夘、旱により大理・三衙・臨安府に繋囚の決断を命じた。戊辰、慶元六年以来の寛恤詔令を修めた。六月乙亥、刑部に歳末、尚書省に諸州の未決の獄を上らせ最も久しいものを罪することを詔した。丁丑、董居義を金への賀使に派遣したが金国の乱により至らず還った。丁亥、監司の臧否守令の制及び監司郡守の廉吏推薦法を復した。丙申、三衙・江上諸軍主帥に将帥にふさわしい者二三人の推薦を詔した。八月己巳朔、諸路監司帥臣に部内官吏の才行卓絶・績用著名な者の推薦を詔した。庚午、知思州田宗範が乱を謀るも夔州路安撫司が兵を遣わし討平した。この月、金人がその主允済を弑した。九月甲辰、京湖諸州の逋負二十八万余緡を蠲免。閏月戊辰朔、御史臺に考課監司簿の設置を詔した。丙戌、金主の新立により四川に辺備を厳しくすることを詔した。己丑、湖北監司守令に旱傷の振恤を詔した。癸巳、雷。甲午、史彌遠らが三祖下七世仙源類譜・髙宗寶訓・皇帝玉牒・会要を上った。乙未、大雷。丙申、雷が非時に発したことを理由に罪己の詔を出した。冬十月丁酉朔、互送の禁を厳しくした。戊申、真徳秀を金への賀即位使に派遣したが金国の乱により至らず還った。庚戌、李&KR0811;を金への賀正使に派遣したが至らず還った。甲子、金の使者が即位を告げに来た。十一月癸未、虗恨蛮が嘉定府の中鎮砦を寇した。十二月壬寅、瓊州の丁鹽銭を蠲免。癸亥、金の使者が来年正旦を賀しに来た。この歳、両浙諸州で大水があり振済した。

嘉定七年(1214年)

  • 春正月丁卯朔、四川制置司が提挙皂郊博馬務何九齢に諸将を率いさせ秦州城下で金人と戦わせるも敗れて還った。丁丑、章良能が薨じた。壬午、沔州都統王大才が何九齢を斬りその首を境上に梟してその事を上聞した。三月丁卯、安丙に同知樞密院事、成都府路安撫使董居誼に四川制置使を命じた。庚辰、金国が二年分の歳幣を督促に来た。戊子、金人が正旦を賀するのみで来なくなった。夏四月癸卯、福建沿海諸州の貧民の納鹽を蠲免。五月丁丑、太白経天。乙酉、禮部進士袁甫以下五百四人に及第出身を賜った。六月辛丑、旱により諸路州軍に禱雨を命じた。甲辰、諸路監司守臣に滞訟の速決を詔した。丙午、両浙路諸州の贓賞銭を蠲免。壬子、大理・三衙・両浙路の杖以下囚を釈放。丁巳、嘉定府に辺丁二千人を置き蛮に備えた。
  • 秋七月甲子朔、左諫議大夫鄭昭先を簽書樞密院事兼権参知政事とした。戊辰、省吏の参議官授与を禁じた。乙亥、金人が南京への遷都を告げに来た。庚寅、起居舎人真徳秀の奏により金国への歳幣を罷めた。この月、夏人が書を寄せ四川と金人への夾攻を議したが応じなかった。八月癸巳朔、関外四州が増した方田税を罷めた。乙未、四川宣制司の補官を罷めた。癸卯、宗学を再建し博士諭各一人・弟子員百人を置いた。金国が再び歳幣を督促に来た。乙巳、太白経天。州県の義役妨害を禁じた。戊申、安丙を観文殿学士・知潭州とすることを詔した。九月壬戌朔、日食。太白昼見。乙丑、史彌遠らが髙宗中興経武要略を上った。戊寅、殿前司兵を調え天長県の戍を増やした。丙戌、久雨により大理・三衙・臨安府の杖以下囚を釈放。庚寅、両浙路の杖以下囚を釈放し茶鹽賞銭を除いた。冬十月壬辰朔、内帑銭を出し臨安府の貧民を振済。十一月辛丑朔、聶子述を金への賀正使に派遣。刑部侍郎劉鑰らと太学諸生が不可を上章したが取り上げられなかった。丙戌、浙東監司に常平米を発し災傷州県を振済することを命じ、四川制置大使司が開いた鹽井を罷めた。十二月甲午、同安監の鋳銭を再び罷めた。丁巳、金の使者が来年正旦を賀しに来た。この歳、黎州蛮の畜卜が初めて降った。

嘉定八年(1215年)

  • 春正月辛未、師禹に秀王を嗣がせることを命じ、侍従両省臺諫に将材三人の推薦を詔した。己卯、丁焴を金への賀使に派遣。戊子、銷金鋪翠の禁を厳しくした。二月丙午、雷孝友が罷免。壬子、平江等五郡の逋負米を蠲免しその繋囚を釈放。己未、雨土。三月辛丑、大郡に歳ごと廉吏二人、小郡一人の推薦を詔した。乙亥、旱により諸路州県に禱雨を命じた。丙子、臨安府の茶鹽賞銭を蠲免しその繋囚を釈放。辛巳、賢良方正能直言極諫科に応じた何致が事端を妄造し衆聴を惑わした罪により広西牢城に配された。癸未、安定郡王伯柷が薨じた。丙戌、江淮の闕雨州県の杖以下囚を釈放。
  • 夏四月乙未、太一宮眀慶寺に幸し禱雨。辛丑、正殿を避け膳を減じた。壬寅、天地宗廟社稷に禱雨。癸卯、中外臣民に時政の得失の直言を詔した。乙巳、臨安及び諸路の雑犯死罪以下の囚を減じ杖以下を釈放。五月辛未、雨。己卯、利州路安撫司に忠義人の招刺を命じた。辛巳、正殿に復し膳を復した。癸未、有司に再び禱雨を命じた。甲申、贓吏が減年参選できぬことを法令化。乙酉、米を発し臨安府の貧民に振糶。六月丙辰、両浙江淮路に粟麦麻豆の雑種を諭し、有司はその賦を収めず田主はその租を責めぬことを詔した。秋七月辛酉、鄭昭先を参知政事、禮部尚書曾従龍を簽書樞密院事とした。壬戌、四川に楊巨源の廟を建て「褒忠」と名づけることを詔した。戊辰、両淮諸州の今年秋税、及び極辺五州の明年夏税を蠲免。癸酉、臨安・紹興二府の貧民の夏税を蠲免。丙子、米三十万石を発し江東の饑民に振糶。庚辰、弟の搢を「思正」、姪の均を「貴和」と改名することを詔した。甲申、職田は民田同様に蠲放し違反者を罪することを詔した。八月己丑、張栻に諡「宣」を賜った。庚子、宗子訓名法を厳しくした。丁未、旱傷州県の比較賞罰を一時罷め、己酉、州県の遏糴(穀留め)を禁じた。この月、蘭州の盗程彦暉が内附を求めるも四川制置使董居誼はこれを却けた。
  • 九月己巳、景靈宮に朝献。庚午、太廟に朝饗。辛未、明堂で天地を合祭し大赦。乙亥、両浙圍田の禁を厳しくした。甲申、四川法科試を罷めた。冬十月乙未、六部に赦書寛恤事を分類させ諸路監司に推行させた。壬寅、金の使者が瑞慶節を賀しに来た。十一月丙辰朔、伯澤を安定郡王に封じた。癸亥、施累を金への賀正使に派遣。十二月己丑、楊巨源・李好義の子孫にそれぞれ一官進めることを詔した。辛亥、金の使者が来年正旦を賀しに来た。この歳、両浙江東西路で旱蝗があった。

嘉定九年(1216年)

  • 春正月乙丑、呂祖謙に諡「成」を賜り、馬軍司水軍を置いた。乙亥、留筠を金への賀使に派遣。丙子、諸州に軍籍の招填を命じた。辛巳、諸路の旱蝗州県の和糴と四川関外の科糴を罷めた。二月甲申朔、日食。辛亥、東西両川で大地震。三月乙卯、また震。甲子、また震。馬湖夷界の山が崩れ八十里にわたり江水が通じなくなった。丁卯、また震。壬申、また震。丁丑、侍従臺諫両省に監司にふさわしい者各二人の推薦を詔した。夏四月戊戌、秦州人唐進とその徒何進らが衆十万を率いて帰順を求めたが四川制置使董居誼はこれを拒卻した。五月癸酉、太白昼見。六月辛卯、西川で地震。壬辰、また震。乙未、また震。黎州で山崩れ。戊申、浙西の被水州県を振恤しその租税を寛めた。秋七月戊辰、辺県に才を選び常法にこだわらぬことを詔し、その他は三年の制に遵うこととした。九月甲申、両浙江東監司に被水最も甚だしい州県を核実しその租を蠲免することを詔した。冬十月癸亥、西川で地震。甲子、また震。丙寅、金の使者が瑞慶節を賀しに来た。十一月庚寅、陳伯震を金への賀正使に派遣。癸卯、程彦暉が鞏州を包囲し四川の境に迫ったため利州副都統劉昌祖を西和州に移駐させ備えさせることを命じた。十二月丁巳、諸軍に雪寒銭を再給。乙亥、金の使者が来年正旦を賀しに来た。

宋史卷三十九