宋史卷三十八 本紀第三十八 寧宗二

嘉泰元年(1201年)

  • 春正月戊午、福建の科鹽の禁を厳しくした。壬戌、謝深甫らが三十五人の人材を薦め、その名を中書に籍して選擢に備えさせた。丁卯、路鈐に諸州兵士を按閲し、饋遺の受納や擅な招軍を禁じ、違反者は法に処すよう命じた。庚午、葛邲を光宗廟庭に配饗。丙子、金の完顔充が弔祭に来た。
  • 二月戊子、明の暦法に通じた者を求める詔。壬辰、資善堂を開き、俞烈を金への報謝使に派遣。癸巳、監察御史施康年が少傅観文殿大学士致仕の周必大が偽学を首唱して党を植えたと弾劾し、必大は少保に降されて光宗実録を修めることとなった。乙未、吏部七司法を続修。己亥、四川に初めて教官試を置いた。辛丑、雨土。三月丙寅、雨雹。戊辰、再び雨雹。慶元寛恤詔令・役法撮要を頒布。己巳、雨雹。戊寅、臨安で大火が四日続いた。
  • 夏四月辛巳、有司に被災居民の死者への振恤を命じ、壬午、自責の詔を出し、樞密院に禁衛班直と諸軍営柵の焼毀の数を調べさせた。癸未、正殿を避け膳を減じた。甲申、臨安府に放火した奸民の取り締まりを軍法によることを命じ、内帑の銭十六万緡・米六万五千余石を被災死亡の家に振済した。辛卯、龍州蕃部が辺を寇したため官軍に討伐させた。風俗の侈靡と災後の官軍営造が法制に反することを理由に、内蔵の銷金鋪翠を通衢で焼き、民の服用を禁じた。丁酉、正殿に復し膳を復した。戊戌、潜邸を「開元宮」とした。丙午、寓居州で釐務官を任じないことを法令化。
  • 五月戊午、旱により天地宗廟社稷に禱り、大理・三衙・臨安府・両浙州県に繋囚の決断を詔した。癸亥、諸路の杖以下の囚を釈放し茶鹽賞銭を除いた。丁卯、寛恤の政十六条の施行を命じた。乙亥、太平惠民局を監する夏允中が文彦博の故事に倣い韓侂胄を平章軍国重事とすることを請うたが、侂胄は上疏して致仕を請い許されず、允中は罷官された。丙子、雨。丁丑、雨雹。六月辛巳、陳宗召を金への賀使に派遣。丙午、太白経天。秋七月乙卯、何澹が罷免。丁巳、旱により再び天地宗廟社稷に禱った。壬戌、大理・三衙・臨安府・闕雨州県の杖以下囚を釈放。癸亥、雨雹。甲子、陳自強を参知政事兼同知樞密院事、張釜を簽書樞密院事とした。丁卯、被火の貧民を再び振済。
  • 八月己卯、奏薦の恩を減じた。甲申、張釡が罷免され、陳自強に知樞密院事、給事中張巌を参知政事、右諫議大夫程松を同知樞密院事とした。丙戌、侍従・臺諫・両省に沿江八州の鉄銭利害の集議を再度命じた。九月辛亥、朝臣二人を派遣し浙西の圍田を決壊させた。己未、雨土。辛未、李景和を金への賀正使に派遣。甲戌、礼官に孝宗一朝典礼の纂集を命じた。冬十月甲申、瑞慶節の諸道からの入貢を免じる詔。丙戌、起居郎王容の請により韓侂胄の定策事迹を史館に付すことが認められた。甲午、金の徒単懐忠が瑞慶節を賀しに来た。甲辰、光宗御集を編纂。
  • 十一月庚申、潭州の民の旧輸の黄河鉄纜銭を蠲免。丙寅、太白昼見。十二月己卯、太白経天。庚寅、臨安府民の身丁銭を再び三年蠲免。辛丑、雨土。癸卯、金の紇石烈眞が来年正旦を賀しに来た。この歳、浙西・江東・両淮・利州路が旱に遭い振済し、その賦を蠲免。真里富国が馴象二頭を献じた。

嘉泰二年(1202年)

  • 春正月癸亥、知閤門事蘇師旦に樞密都承旨を兼ねさせた。丁卯、陳自強らが髙宗実録を上った。二月甲申、趙汝愚に資政殿学士を追復。丁亥、髙宗正史・寳訓を修める。戊子、治県十二事を頒布し県邑を戒励した。癸巳、私史の刊行を禁じた。三月辛亥、宰執に辺郡守にふさわしい人物二三人の推薦を詔した。己未、諸路提刑に五月に部内を巡り理囚することを初めて命じた。己巳、諸路帥臣・総領・監司に将帥にふさわしい者を挙げさせ本軍主帥と並べて上らせることを詔した。夏四月庚寅、雨雹。五月甲辰朔、日食。己巳、禮部進士傅行簡以下四百九十七人に及第出身を賜った。六月丙子、趙不艱を金への賀使に派遣。己卯、臨安で火災。壬午、浙西運河を浚渫。辛卯、都民が火の噂で驚くことを禁じた。庚子、大雨雹。
  • 秋七月辛亥、子覿を安定郡王に封じた。癸亥、旱により諸路の杖以下囚を釈放。己巳、有司に寛恤の政七条の施行を命じた。庚午、天地宗廟社稷に禱り寛恤四事を再び行った。八月丙子、吏部尚書袁説友を同知樞密院事とした。癸未、光宗御集を蔵する寶謨閣を建てた。己丑、壽慈宮の造営を詔し、太皇太后の還内を請うた。甲午、謝深甫らが慶元条法事類を上った。九月己酉、壽慈宮に朝した。甲寅、皇帝会要を修めた。壬戌、光宗・慈懿皇后の神御を景靈宮萬夀觀に奉安。丙寅、嗣秀王伯圭が薨じ崇王に追封、諡「憲靖」。庚午、臨安府の野蚕が繭を成した。
  • 冬十月乙亥、壽成惠慈太皇太后に尊号「壽成惠聖慈祐太皇太后」を上った。戊子、金の完顔瑭が瑞慶節を賀しに来た。乙未、魯諠を金への賀正使に派遣。この月、朱熹の煥章閣待制致仕を追復。十一月甲辰、初めて正殿に御した。乙巳、吏部七司法を再修。庚戌、陳自強を知樞密院事、前同知樞密院事許及之を参知政事とした。丁巳、右文殿の楹に芝が生じた。十二月甲戌、日中に黒子あり。群臣を率いて壽成惠聖慈祐太皇太后の冊寳を壽慈宮に上った。甲申、貴妃楊氏を皇后に立て、韓侂胄に太師を加えた。庚寅、大閲。閏月丁未、講官に随事の開陳を詔した。乙卯、福州観察使曮を威武軍節度使・衞国公とした。丁卯、金の徒単公弼が来年正旦を賀しに来た。この月、周必大を少傅・観文殿大学士に復した。この冬、子坰が誕生し満月前に薨じ、華王に追封、諡「沖穆」。この歳、建寧府・福・汀・南剣・瀘四州が水害、邵州が旱害に遭い、これを振済した。

嘉泰三年(1203年)

  • 春正月庚辰、謝深甫が罷免。壬午、湖南谿洞総首を置いた。戊子、龍州蕃部が再び辺を寇したため官軍に討伐させた。甲午、張巌が罷免。丙申、陳自強に参知政事を兼ねさせた。戊戌、大学に幸して大成殿に謁し化原堂に御し、国子祭酒李寅仲に尚書周官篇を講じさせ、さらに武学に幸して武成殿に謁し、監学官の秩を一級進め諸生に恩を推し帛を賜った。袁説友を参知政事、権翰林学士知制誥傅伯燾を簽書樞密院事としたが伯燾は辞退。二月乙巳、文徳殿で皇后を册立し、吏部尚書費士寅を簽書樞密院事とした。三月丁丑、久雨により大理・三衙・臨安府に繋囚の決断を詔した。乙酉、聚景園に幸した。
  • 夏四月己亥朔、日食。壬寅、福州で瑞麦が生じた。丙午、両淮交子百万を封樁庫より出し、転運司に民間の鉄銭を回収させた。乙卯、陳自強らが徽宗玉牒・孝宗光宗実録を上った。辛酉、宰執・臺諫の子孫を科挙に応じさせぬことを詔した。五月戊寅、陳自強を右丞相、許及之を知樞密院事兼参知政事とした。庚辰、旱により大理・三衙・臨安府に杖以下囚の釈放を詔した。癸未、有司に旧聞の捜訪と三朝正史の修纂を命じ、書を上る者を賞した。この月、蘇師旦を定江軍承宣使とした。六月壬寅、劉甲を金への賀使に派遣。己酉、大理・三衙・臨安府の罪囚を一等減じ杖以下を釈放。癸亥、太白経天。秋七月辛未、慶元条法事類を頒布し、殿前司に戦艦の建造を命じた。壬午、同安・漢陽・蘄春三監の鋳銭を一時罷めた。白虹貫日。癸未、江浙州県の逃賦の抑納を禁じた。
  • 乙未、光宗に「循道憲仁明功茂徳温文順武聖哲慈孝皇帝」の諡を加えた。八月壬寅、襄陽の騎軍を増置。戊申、四川に提挙茶馬二員を置きそれぞれ茶馬の事を分治させた。丙辰、陳自強らが皇帝会要を上った。甲子、刑部に諸路の瘐死の数の歳末比較を詔し殿最(考課)とした。九月庚午、袁説友が罷免。壬申、宗子希を荘文太子の嗣に立てて名を「搢」と改め、右千牛衞将軍を授けた。癸酉、坑冶鉄冶司に私銭を改鋳させることを命じた。己丑、南郊に感生帝・太子庶子星・宋星の加祀を詔し、張孝曾を金への賀正使に派遣。冬十月庚子、呂祖泰への恩赦を詔した。癸卯、費士寅を参知政事、華文閣学士知鎮江府張孝伯を同知樞密院事とした。丙午、両淮諸州に仲冬教閲民兵万弩手を命じた。丁未、大風。戊申、龍州蕃部が出降した。壬子、金の完顔奕が瑞慶節を賀しに来た。
  • 十一月壬申、光宗の冊寳を太廟に上った。癸酉、景靈宮に朝献。甲戌、太廟に朝饗。乙亥、圜丘で天地を祀り大赦。癸未、大風。己丑、安定郡王子覿が薨じた。選人薦挙改官法を改定。庚寅、福田居養院を再置し諸路提挙常平司に主管させた。十二月丙辰、四川提挙茶馬に茶馬の事の通治を命じた。辛酉、将帥の掊克(搾取)を戒める詔を出し、金の独吉思忠が来年正旦を賀しに来た。この冬、金国が多難に乗じて朝廷が隙を窺うことを懼れ、沿辺で糧を聚め戍を増し、襄陽の榷場を禁じた。辺境での衝突の端はここに始まった。

嘉泰四年(1204年)

  • 春正月乙亥、大風。天長県の濠を浚渫。癸未、日中に黒子あり。壬辰、雨雹。瓊州の西浮洞の逃軍が乱を起こし文昌県を寇掠したため、兵で討平させた。二月丁酉、荘文太子府に小学教授を置いた。辛亥、内外諸軍に鉄帖を射させて転資させた。壬子、臨安府の逋負の酒税を蠲免。己未、試刑法避親格を立てた。庚申夜、赤気が天を亘った。三月丁卯、臨安で大火が起こり太廟に迫ったため、神主を一時景靈宮に権奉した。己巳、正殿を避けた。庚午、臨安府に焚室の振済を命じた。辛未、太廟の修復を詔し、甲戌、罪己(自らを罪する)の詔を出した。乙亥、百官に時政の闕失の疏陳を詔した。庚寅、正殿に復した。
  • 夏四月甲午朔、鎮江府に韓世忠廟を建てた。内外諸軍に純隊法の詳度を命じた。甲辰、許及之が罷免され、江西の水旱州県を振恤した。乙巳、費士寅に知樞密院事を兼ねさせ、張孝伯を参知政事、吏部尚書銭象祖に出身を賜り同知樞密院事とした。丙辰、選挙の弊を革める詔。五月乙亥、諸軍主帥に部内の将材三人の推薦を詔し、挙げた者が不適格なら連座させた。癸未、岳飛を鄂王に追封。六月癸巳、張嗣古を金への賀使に派遣。丙申、諸軍帳前雄校を置き軍官の子孫を補させた。壬寅、侍従・臺諫・両省に濫賞の裁抑を集議させた。壬子、諸路監司に諸州の樁積銭米の実態調査を、沿江・四川の軍帥に軍実の簡練を命じた。丁巳、廬州強勇軍を千人に増やした。秋七月甲子、旱により大理・三衙・臨安府・両浙・諸路に繋囚の決断を詔した。戊辰、天地宗廟社稷に禱り、己巳、諸路提刑に疑獄の適宜な断案を命じ、内外諸軍の逋負営運息銭を蠲免。辛未、両浙の闕雨州県の逋租を蠲免。戊子、諸路提刑・提挙司に保伍法の措置を命じた。
  • 八月己亥、陳自強らが皇帝玉牒を上った。癸丑、以後恩賞による進秩は歳二官を超えぬことを詔し、紹興府の攢宮所在の民の身丁銭絹綿鹽を蠲免。丙辰、静江府・昭州の折布銭を除いた。戊午、張孝伯が罷免。九月乙丑、四圭の玉一を得て太常に蔵した。壬午、鄧友龍を金への賀正使に派遣。丙戌、両淮州県に寛恤の旧法遵守を戒めた。冬十月庚子、資政殿大学士淮東安撫使張巌を参知政事とした。壬寅、金の完顔昌が瑞慶節を賀しに来た。十一月乙未朔、両淮荊襄諸州に、荒歉で奏請が間に合わぬ場合は先に廩を発してよいことを詔した。庚午、伯栩を安定郡王に封じた。壬申、白気が天を亘った。庚辰、六合県城を修築。十二月癸巳、内外財賦の総覈を詔し、陳自強に国用使、費士寅・張巌に同知国用事を兼ねさせた。己亥、明年を「開禧元年」とすることを詔した。壬寅、州県が私に民産を籍没することを禁じた。甲辰、臨安府民の身丁銭を再び三年蠲免。乙卯、金の烏林答毅が来年正旦を賀しに来た。

開禧元年(1205年)

  • 春正月癸酉、澉浦水軍を初めて置いた。壬午、雨霾。二月癸巳、徐安国の三官を奪った。癸卯、国用司に財賦考覈の法を詔した。丙午、臨安府の逋負酒税を蠲免。三月庚申、太白昼見。辛未、民間で子を生んで棄殺することの禁を厳しくし、有司に月々の銭米給与を命じた。辛巳、淮西安撫司の招軍を「強勇軍」とした。癸未、費士寅が罷免。夏四月戊子朔、銭象祖を参知政事兼同知樞密院事、吏部尚書劉徳秀を簽書樞密院事とした。辛卯、江陵副都統李奕を鎮江都統、皇甫斌を江陵副都統兼知襄陽府とした。戊戌、憲聖慈烈皇后聖徳事迹を修めた。辛丑、日中に黒子あり。甲寅、武学生華岳が上書して用兵の不可・辺釁の懸念を諫めたが韓侂胄を忌避したため建寧府に編管された。乙卯、大風。
  • 五月己巳、禮部進士毛自知以下四百三十三人に及第出身を賜り、淳熙薦挙改官法を復した。乙亥、衞国公曮を皇子とし榮王に進封することを詔した。甲申、鎮江都統戚拱が忠義人朱裕に弓手李全を結ばせ漣水県を焼いた。この月、金国は辺民の侵掠と増戍を理由に盟の破棄を責めてきた。六月戊子、広東税場八十一墟を罷めた。辛卯、内外諸軍に密かに行軍の計を詔した。戊戌、諸路安撫司に禁軍の教閲を命じた。己亥、李壁を金への賀使に派遣。庚子、程松を資政殿大学士・四川制置使に進めた。辛丑、淮東安撫鄭挺は北人の牛を擅に納れ漣水軍事を劫かした罪により二官を奪われ罷免。壬寅、天鳴あり。同安・漢陽・蘄春三監を復した。己巳、熒惑が太微右執法を犯した。陳自強らが新修の淳熙以後の吏部七司法を上った。壬子、陳自強及び侍御史鄧友龍らが本朝の故事に倣い韓侂胄を平章軍国事とすることを請い、大理・三衙・臨安府の罪囚を一等減じ杖以下を釈放。
  • 秋七月庚申、韓侂胄の平章軍国事の立班を丞相の上とし、三日に一度都堂の政務に赴くことを詔し、興元都統司に戦兵の増招を命じた。丙寅、蘇師旦を安遠軍節度使・領閤門事とした。丁邜、侍従両省臺諫・在外待制学士以上及び内外文武官に将帥・辺守にふさわしい者一二人の推薦を詔した。戊辰、趙汝愚に少保を贈った。己夘、韓侂胄らが髙宗御集を上った。壬午、諸路提刑提挙司に保甲の措置を詔した。癸未、韓侂胄に国用使を兼ねさせ、旱により大理・三衙・臨安府・両浙州県・諸路に繋囚の決断を詔した。八月丙戌朔、両浙の闕雨州県の贓賞銭を蠲免。丁亥、湖北安撫司に神勁軍の増招を命じた。癸巳、雨。乙巳、殿前副都指揮使郭倪を鎮江都統兼知揚州とした。この月、宇文虗中に少保を贈り、劉光世を鄜王に追封。閏月戊寅、韓侂胄らが欽宗玉牒・憲聖慈烈皇后聖徳事迹を上った。
  • 九月丁亥、劉徳秀が罷免。庚子、官吏の犯贓は旧法により追還を詔した。丁未、陳&KR1402;俊を金への賀正使に派遣。庚戌、大風。冬十月甲子、江州守臣陳鑄が歳旱に瑞禾を献じようとしたため一官を奪われた。丙寅、嘉定府を嘉慶軍に昇格。庚午、金の紇石烈子仁が瑞慶節を賀しに来た。和州馬監を再置。十一月乙酉、殿前司に神武軍五千人を揚州に屯させた。乙未、告訐(密告)の禁を厳しくした。十二月癸丑朔、孝宗光宗御集を修めた。庚午、両淮京西の監司帥守に寛恤の政の実施を詔し、刺馬軍司弩手を増やした。癸酉、両浙の身丁銭絹を永久に除くことを詔した。戊寅、金の趙之傑が来年正旦を賀しに来た入見の礼は甚だ倨傲であったため、韓侂胄は帝の還内を請い、来使は正旦の朝見に改めることを詔した。著作郎朱質が上書して金使の斬首を請うたが取り上げられなかった。この歳、真里富国が瑞象を献じ、江浙・福建・二広諸州が旱、両淮・京西・湖北諸州が水害に遭い振済した。

開禧二年(1206年)

  • 春正月癸未朔、両浙路の身丁紬綿を蠲免。癸巳、再び軍士に雪寒銭を給し、金使の悖慢により館伴使副以下の官が奪われた。乙未、太学の内舎生を百二十人に増員。辛丑、国用司を「国用参計所」と改称。己酉、雷雨雹。辛亥、坑戸が銭を毀して銅とすることを赦さぬ法を定めた。この月、雅州蛮の髙吟師が辺を寇し官軍が討伐。二月癸丑、壽慈宮で火災。甲寅、太皇太后が大内に移り、車駕は月四朝とした。乙卯、火災を理由に正殿を避け楽を徹した。丁巳、久雨により大理・三衙・臨安府・諸路に繋囚の決断を詔した。己卯、正殿に復した。
  • 三月癸巳、程松を四川宣撫使、呉曦を宣撫副使とした。甲午、開禧重修七司法を頒布。丁酉、諸路監司に歳十一月に部内を巡り理囚することを五月の制と同様にすることを詔した。己亥、太皇太后に従い聚&KR1402;園に幸した。乙巳、銭象祖が罷免され、張巌に知樞密院事を兼ねさせた。丙午、銭象祖は姦を懐き事を避けたとして二官を奪われ信州居住。己酉、知処州徐邦憲が入見して太子擁立と大赦・弭兵を請い、侍御史徐柟がこれを弾劾し罷免。夏四月己未、雅州蛮が乱を起こし碉門砦を焼いたが官軍は失利。庚申、四川宣撫司が再び御前大軍を派遣して討たせた。甲子、薛叔似を兵部尚書・湖北京西宣撫使、鄧友龍を御史中丞・両淮宣撫使とし、粟を納れて補官する令を出した。戊辰、呉曦に陜西河東路招撫使を兼ねさせた。己巳、三衙兵を調え淮東に増戍。庚午、秦檜の王爵を追奪し、礼官に諡の改定を命じた。乙亥、郭倪に山東京東路招撫使、鄂州都統趙淳に京西北路招撫使、皇甫斌に京西北路招撫副使を兼ねさせた。丁丑、呉曦がその客姚淮源を遣わし関外四州を金に献じて蜀王への封を求めた。鎮江都統制陳孝慶が泗州を復し、江州統制許進が新息県を復した。戊寅、光州忠義人孫成が襃信県を復した。
  • 五月辛巳朔、陳孝慶が虹県を復した。呉興郡王抦が薨じ沂王に追封、諡「靖恵」。癸未、辺郡官吏の擅離職守を禁じた。丙戌、江州都統王大節が蔡州を攻めるも克たず軍が大潰した。丁亥、詔で金討伐を発した。癸巳、伐金を天地宗廟社稷に告げ、皇甫斌は唐州攻めに敗績、興元都統秦世輔は城固県に出師して軍が大乱した。甲午、宗室希瞿子均に「賜均」の名を賜り沂王抦の後を継がせ千牛衞将軍に補し、池州副都統郭倬に馬軍行司公事を主管させ李汝翼と共に宿州を攻めるも敗績。壬寅、太白昼見。荊襄両淮の田卒を戦兵に備えさせた。癸卯、郭倬らが蘄県に還るところを金人に追われ包囲され、倬は馬軍司総制田俊邁を捕らえて金に与えて免れた。
  • 六月壬子、王大節は除名され袁州安置、後に封州に徙された。癸丑、建康都統李爽が壽州攻めに敗績。甲寅、鄧友龍が罷免され、江南東路安撫使丘崈を刑部尚書・両淮宣撫使とした。乙卯、雅州蛮の髙吟師が出降したが官軍がこれを殺した。丁巳、大理・三衙・臨安府の罪囚を一等減じ杖以下を釈放。郭倬・李汝翼の二官を奪った。辛酉、皇甫斌の三官を奪った。甲子、李爽が罷免。丁夘、泗州を曲赦し雑犯死罪囚を減じ他は除いた。租税を蠲免。建康副都統田琳が壽春府を復した。戊辰、雅州蛮が再び辺を寇した。甲戌、李爽の三官を奪い汀州居住とし、皇甫斌をさらに五官奪い南安軍安置とした。丙子、鄧友龍の三官を奪い興化軍居住とした。戊寅、蘇師旦が罷免。この月、丘崈に楊州で諸将を部署させ三衙・江上軍を悉く三分し江淮の要害を守らせた。金人は呉曦を蜀王に封じた。
  • 秋七月辛巳、紹興辺郡の賞を復した。蘇師旦の三官を奪い衡州居住、その家を籍没した。旱傷州軍の租賦比較を一年罷めた。侍従・臺諫・両省卿監郎官・監司郡守・前宰執侍従に人材二三人の推薦を詔した。壬午、雅州蛮が出降した。庚子、蘇師旦は除名され韶州安置。癸卯、張巌を知樞密院事、禮部尚書李壁を参知政事とした。乙巳、沂王府に小学教授を置いた。八月丙寅、有司が開禧刑名断例を上り、郭倬を鎮江で斬った。戊辰、李爽をさらに三官奪い南雄州安置。辛未、諸州の無証有佐の獄は上奏せぬことを詔した。壬申、淮東安撫司の招軍を「御前強勇軍」とした。九月壬午、金兵が和尚原を攻め奪った。己丑、景靈宮に朝献。庚寅、太廟に朝饗。辛卯、明堂で天地を合祭し大赦。乙巳、泗州復功を賞した。
  • 冬十月戊申朔、内外軍帥に智勇な将帥にふさわしい者二人の推薦を命じた。辛酉、将士の暴露を理由に瑞慶節の宴を罷めた。丙子、金人が清河口から淮を渡り楚州を包囲した。十一月庚辰、主管殿前司公事郭杲に兵を率いて真州に駐屯させ両淮を援けさせた。辛巳、金人が棗陽軍を破った。甲申、丘崈を簽書樞密院事・督視江淮軍馬とし、金人は神馬坡を犯し江陵副都統魏友諒は包囲を突いて襄陽に趨った。乙酉、趙淳が樊城を焼いた。戊子、金人が廬州を犯すも田琳がこれを退けた。癸巳、金人の淮への侵犯を天地宗廟社稷に告げた。乙未、正殿を避け膳を減じ、湖廣総領陳謙を湖北京西宣撫副使とした。丙申、金人が廬州を去った。丁酉、金人が旧岷州を犯し守将王喜が遁走した。戊戌、金人が和州を包囲するも守将周虎がこれを拒ぎ、信陽軍を破った。辛丑、金人が襄陽を包囲した。壬寅、金人が随州を破った。癸丑、太皇太后が銭百万緡を犒賞に賜り、諸路に禁軍の招填を詔して調遣に備えさせた。甲辰、金人が真州を犯した。乙巳、金人が西和州を破った。この月、濠州安豐軍と辺屯が金人に破られた。
  • 十二月戊申、金人が徳安府を包囲するも守将李師尹がこれを拒いだ。庚戌、金人が成州を破り守臣辛槱之は遁走、呉曦は河池県を焼いて青野原に退屯した。辛亥、大理・三衙・臨安府の杖以下囚を釈放。癸丑、金人が和州を去った。甲寅、金人が六合県を攻め、郭倪が前軍統制郭僎を遣わして救わせるも胥浦橋で大敗し倪は楊州を棄てて逃走した。丁巳、金人が大散関を破った。戊午、熒惑が太微を守る。癸亥、魏友諒の軍が花泉で潰え江陵に逃げた。丁卯、金人が七方関を犯すも興州中軍正将李好義がこれを拒卻した。戊辰、呉曦が興州に還った。金人は淮南から退師し一軍を濠州に留めた。己巳、郭倪は罷めて三官を奪われ果州団練副使・南康軍安置とされた。庚午、薛叔似・陳謙が罷免され、京湖北路安撫使呉獵を湖北京西宣撫使とし、両浙の圍田を復し両淮流民に耕種を募った。癸酉、呉曦は初めて自ら蜀王を称した。甲戌、鎮江副都統畢再遇を鎮江都統・権山東京東路宣撫司公事とした。乙亥、四川宣撫使程松が遁走した。

開禧三年(1207年)

  • 春正月丁丑朔、丘崈が罷免。己卯、知樞密院事張巌に江淮軍馬の督視を命じた。庚辰、陳自強に樞密使を兼ねさせた。癸未、金人が階州を破った。丁亥、子圻が誕生。庚寅、建康府に淮民への装銭給与と帰郷を詔した。辛卯、呉曦が通判興元府権大安軍事楊震仲を招くも震仲は屈せず死んだ。癸巳、両淮の帥守監司に流民の招集を命じた。甲午、呉曦が興州で僭位した。甲辰、池州都統陳孝慶の三官を奪い罷免。二月壬子、金軍の退却により正殿に復し膳を復した。甲寅、福建路総管兼延祥水軍統制商栄の官爵を削り柳州安置。己未、程松の四川宣撫使を罷め、成都府路安撫使楊輔を四川制置使、沿江制置使葉適に江淮制置使を兼ねさせた。庚申、旱により大理・三衙・臨安府に繋囚の決断を詔した。癸亥、子圻が薨じ順王に追封、諡「沖懐」。甲子、旱傷州県の貧民を振給し諸路提刑司に疑獄の適宜な断案を命じた。丁卯、江浙荊湖福建の招軍を罷めた。戊辰、子墌が誕生。庚午、金人が襄陽を去った。辛未、旱により天地宗廟社稷に禱り有司に寛恤の政八条を命じ、両淮の被兵諸州の今年の租賦を蠲免。乙亥、両浙路の杖以下囚を釈放。四川宣撫副使司随軍転運の安丙及び興州中軍正将李好義、四川総領所興州合江倉の楊巨源らが呉曦を共に誅殺し首を行在に伝えて廟社に献じ三日梟首した。四川は平定し、曦の妻子家属を誅殺し嶺南に徙し、その父挺の官を奪い、呉璘の子孫を出蜀させたがその廟祀を存し、呉玠の子孫は連座を免れた。
  • 三月丙子朔、両淮の被兵州郡の役銭を蠲免。丁丑、偽四川都転運使徐景望を利州で斬った。壬辰、興州将劉昌国が兵を率いて階州に至ると金人は退去した。癸巳、李好義が西和州を復した。丁酉、金人が成州を去った。庚子、楊輔を四川宣撫使、安丙を端明殿学士・四川宣撫副使、起居舎人許奕を四川宣諭使とすることを詔し、程松の資政殿大学士を落として六官を奪い筠州安置とした。忠義統領張翼が鳳州を復した。辛丑、四川を曲赦し雑犯死罪囚を減じ杖以下を釈放。壬寅、程松を責授し順昌軍節度副使・澧州安置とした。夏四月戊申、呉獵に四川宣諭使を兼ねさせ、子墌が薨じ申王に追封、諡「沖懿」。癸丑、両淮湖北京西の被兵諸州を赦し雑犯死罪囚を減じ流以下を釈放、湖北京西諸郡の今年の租賦を蠲免、四川忠義人が大散関を復した。己未、奉使金国通謝国信所参議官方信孺が行在を発した。庚申、兵部尚書宇文紹節を知江陵府・権湖北京西宣撫使とした。壬戌、呉獵に宣撫司との興州都統司軍の半分を利州に屯せしめる議を詔した。丁卯、楊輔を行在に召し、呉獵を四川制置使とした。戊辰、興州を「沔州」と改称。庚午、楊震仲に官を贈りその子一人を官とした。癸酉、金人が再び大散関を破った。甲戌、西和・階・成・鳳四州を赦した。
  • 五月丁丑、呉曦誅殺の功を賞した。戊寅、四川宣撫司の奏により呉曦の党人張伸之ら十六人を除名し両広及び湖南諸州に編配した。己丑、旱により天地宗廟社稷に禱った。辛卯、太皇太后謝氏の疾により大赦、この日崩じた。四川宣撫副使司参贊軍事楊巨源が金人と長橋で戦い敗績。戊戌、四川宣撫置制司に兵民の分治を詔した。庚子、沔州副都統制を再置し李好義をこれに任じた。辛丑、李好義が秦州を襲うも敗れて還った。六月甲寅、襄陽守備の功を賞した。己未、李好義が毒にあたり死んだ。癸亥、林拱辰を金国通謝使、富琯を金への告哀使、劉彌正を金への賀使に派遣。癸酉、安丙がその参議官楊巨源を殺した。秋七月己卯、不儔を嗣濮王とすることを命じた。乙酉、災傷により罪己の詔を出した。八月己巳、大行太皇太后に「成粛皇后」の諡を上った。九月丁丑、諸路帥臣に辺備の申戒を詔した。辛巳、張巌を行在に召した。壬午、方信孺は韓侂胄を忌避したため私覿物の使用と擅な大臣への饋遺の罪に問われ三官を奪われ臨江軍居住とされた。甲申、極辺の官吏挙主員を減じた。乙酉、成粛皇后を阜陵に権攢。丙戌、淮西転運司に雄淮軍の措置を命じた。辛卯、趙淳を殿前副都指揮使兼江淮制置使とした。乙未、張巌が罷免。辛丑、王柟を遣わし金国都副元帥府に書を持たせた。壬寅、成粛皇后の神主を太廟に祔した。
  • 冬十月乙巳、臨安・紹興二府の罪囚を一等減じ攢宮役に関わる民の賦を蠲免。丙午、殿前司の純隊法を改めた。乙卯、珍州遵義軍を復した。丙辰、辺事を軍民に諭す詔を出した。十一月甲戌、韓侂胄の軽率な用兵開始を詔で罪し、平章軍国事を罷めた。陳自強は阿附充位として右丞相を罷められた。乙亥、礼部侍郎史彌遠らは密旨により権主管殿前司公事夏震に命じて韓侂胄を玉津園で誅殺させ、銭象祖に知樞密院事、李壁に同知樞密院事を兼ねさせ、韓侂胄誅殺を天下に詔した。丁丑、夏震を福州観察使・主管殿前司公事とし、将士の行賞に差があった。陳自強の三官を奪い永州居住。戊寅、蘇師旦を武泰軍節度副使・韶州安置に責授し、己夘、これを斬った。姦臣が竄殛された今こそ言路を開き忠讜を来すべきとして中外臣僚に所見を詔した。辛巳、鄧友龍をさらに五官奪い南雄州安置とし、まもなく除名して循州に徙した。乙酉、御前忠鋭軍を置いた。丙戌、御史中丞衛涇を簽書樞密院事兼参知政事とした。丁亥、皇子榮王曮を皇太子に立て「懤」と改名することを詔した。戊子、郭倪は除名され梅州安置、郭僎は除名され連州安置しその家を籍没した。李壁の三官を奪い撫州居住。癸巳、張巌の二官を奪い微州居住。己亥、立太子により大赦。十二月癸卯、丘崈を江淮制置大使とし、山東京東招撫司を罷め、許奕を金国通問使とした。乙巳、太白昼見。丁未、京西北路招撫司を罷めた。己酉、葉適の寶文閣待制を落とし両淮州軍の税を一年蠲免。庚戌、許及之の二官を奪い泉州居住、薛叔似の二官を奪い福州居住、皇甫斌をさらに五官奪い英徳府安置とした。癸丑、金人が再び随州を破った。辛酉、銭象祖を右丞相兼樞密使、衛涇及び給事中雷孝友を並びに参知政事、吏部尚書林大中を簽書樞密院事とした。乙丑、礼部尚書史彌遠を同知樞密院事とした。丙寅、呂祖儉に朝奉郎直祕閣を贈りその子一人を官とした。丁卯、明年を「嘉定元年」とすることを詔した。この歳、浙西で旱蝗、沿江諸州で水害が起きた。

宋史巻三十八