宋史卷三十三 本紀第三十三 孝宗一
出自と生い立ち
- 孝宗紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝は諱を眘、字を元永といい、太祖の7世孫である。太祖の少子秦王徳芳は英國公惟憲を生み、惟憲は新興侯從郁を、從郁は華陰侯世將を、世將は慶國公令譮を、令譮は子偁を生んだ。これが秀王である。王夫人張氏は羊を抱いて贈られる夢を見て「これを以て識とせよ」と言われ、まもなく身ごもり、建炎元年(1127年)10月戊寅、秀州杉青閘の官舎で帝を生んだ。紅光が室に満ち日が中天にあるようであったという。
- 少長にして命名は伯琮。元懿太子が薨じ髙宗にまだ後がなく、昭慈聖獻皇后も江西から行在に還っていた。后はかつて異夢を感じ密かに髙宗に言った。髙宗が大いに悟り、右僕射范宗尹も膝を進めて請うたため、髙宗は「太祖は神武をもって天下を定めたが子孫は享けられなかった。零落を憫れみ、朕が仁宗に法らねば天の霊にどう慰めるか」として太祖の後を選ぶ詔を下した。同知樞密院事李回は「藝祖(太祖)は大位を私せず至誠より出たもの。陛下が天下のため遠慮するのは藝祖に合し天命に昭格しうる」と言い、參知政事張守は「藝祖の諸子に失徳は聞かず、太宗に伝位したのは堯舜を遥かに過ぎる」と言った。髙宗は「事は難しくない。朕は伯字行の中から選ぶ、それが昭穆の順序に叶う」と言った。上虞丞婁寅亮もまた上書し、昌陵(太祖)の後が寂寥無聞で民庶と同じであること、藝祖が上にあって顧みられないのは金人が悔禍しない所以であるとして、伯字行内の太祖の孫で賢徳ある者を選ぶよう望んだ。髙宗はこれを読んで大いに感歎した。
- 紹興2年(1132年)5月、帝を選んで禁中で育てさせた。3年2月、和州防禦使を除し名を瑗と賜り、壬寅に貴州と改めた。5年5月、左僕射趙鼎の議を用い書院を宮中に立てて教え、資善堂とした。帝は読書し記憶に優れ天資特異であった。已亥、保慶軍節度使を制授し建國公に封じた。6月己酉、資善堂で聴読し徽猷閣待制范冲を翊善に、朱震を賛読に兼ねさせた。髙宗は帝に冲・震を見て拝させた。12年正月丁酉、検校少保を加え普安郡王に封じた。3月壬寅、外第に出閤。13年9月、秀王が秀州で殁した。14年正月庚辰、廷臣の議により官を解いて服喪。16年4月乙已、喪を免じ旧官に還った。
- 17年6月戊午、常徳軍節度使に改めた。24年、衡州で盗が起こり秦檜は殿前司将官辛立に千人を将いて捕えさせたがこれを聞かなかった。帝が入侍してこれを言うと髙宗は大いに驚き、翌日檜に問うと檜は「聖慮を煩わすに足りないので敢えて聞かなかった。朝夕盗が平定すれば奏する」と答えた。檜は退いて帝の言であることを知り忌んだ。檜が疾篤くなるとその家は秘してこれを聞かせず、子の熺に相を代えさせようとしたが、帝はまた密かに髙宗に啓してその奸を破った。30年2月癸酉、皇子に立て名を瑋と改め、甲戌に詔を下し、丙子に寧國軍節度使・開府儀同三司を制授し建王に進封した。制が出ると中外は大いに悦んだ。4月、字を元瓌と賜った。31年10月壬子、明堂の恩により鎮南軍節度使に改めた。これより先、金人が辺を犯し髙宗は親征を詔したが両淮は失守し、朝臣の多くは退避の計を陳べた。帝はその憤りに勝えず前駆となることを請うたが、直講史浩が病んで告げるうち急いで入り、帝に皇子は兵を将いるべきでないと言い、中宮を通して奏を進めて衞従で子職を共にすることを請わせた。髙宗もこれによって帝に諸将を徧く識らせようとした。12月、遂に金陵への扈蹕に従った。32年5月甲子、皇太子に立て名を眘と改めた。初め髙宗は久しく禅位の意があり帝に諭したが帝は流涕し固辞、辺事があり果たさなかった。金陵から帰るに及び陳康伯が去ることを求め、髙宗は再び倦勤をもってこれを諭した。中書舎人唐文若はこれを聞いて対を請い、急遽なことは宜しくないと言ったため、先に建儲の詔を下し名を賜うこととした。監察御史周必大は密かに康伯に唐昭宗と名の音が同じで不可であることを言い、詔して別に擬させることに定め、今の名とした。また学士承旨洪遵に太子の字を選ばせ、遵は4字を擬して進めたがみな旨に称わなかった。甲戌、御筆で字を元永と賜った。乙亥、内降の御札に「皇太子は即皇帝位すべし、朕は太上皇帝と称して徳壽宮に退処し、皇后は太上皇后と称す」とあった。丙子、中使を遣わし帝を禁中に召し面ら諭したが、帝はまた推遜して受けず側殿門に趣いて東宮に還ろうとし、髙宗が再三勉め諭してようやく止めた。ここに髙宗は紫宸殿に出御し輔臣が奏事を畢えると髙宗は還宮、百官は殿門外に班を移し詔を拝し畢えて再び殿庭に班入した。しばらくして内侍が帝を掖して御榻の前に至らせたが側立して坐せず、内侍が扶掖すること7・8度にしてようやく略ら坐に就いた。宰相が百僚を率いて賀を称すると帝は遽かに興ち、輔臣が升殿し固請すると帝は愀然として「君父の命は独断より出たもので、この大位に克え当たれるか懼れる」と言った。班が退くと太上皇帝は徳壽宮に駕したが、帝は袍履のまま祥曦殿門を歩き出て雨を冒して輦に付き添って行き、宮門に及んでも止まなかった。上皇は再三謝り退かせ、左右に扶掖して還らせつつ「吾は付託を得た。吾に憾みなし」と顧みて言い、左右はみな万歳を呼んだ。この日、有司に太上皇帝・太上皇后の尊号を議し聞せる詔。内の諸司に日を輪して官吏を徳壽宮に応奉させ、徳壽宮提点幹辦等の官を増置。徳壽宮の宿衞は皇城及び宮門の法に依らせた。
紹興三十二年(1162年)
- 丁丑、徳壽宮に朝した。戊寅、大赦。宰相に百官を率い月に2度徳壽宮に朝させる詔。已夘、即位を天地宗廟社稷に告げた。庚辰、5日に1度徳壽宮に朝する詔。左武大夫龍大淵を樞密副都承旨、武翼郎曾覿を帯御器械とした。癸未、後殿に初めて御した。甲申、中外士庶に時政の闕失を陳べさせる詔。丙戌、宰執の官を2等進めさせる詔。丁亥、太上皇が5日に1度の朝を許さないので、今より月4度朝することとし、除名勒停人の胡銓を知饒州に復した。已丑、有司に徳壽宮へ月に緡銭10万を奉ぜさせる詔。辛夘、四川の市馬を罷める詔。壬辰、百官に日ごとに1人ずつ入対させる詔。癸已、蝗。甲午、太上皇帝に光堯壽聖太上皇帝、太上皇后に壽聖太上皇后の尊号を上呈。乙未晦、金人が原州を屠った。
- 秋7月戊戌、興州中軍統制呉挺が鞏州を復した。庚子、判建康府張浚が入見、雨水・飛蝗により侍従台諫に民間の利害を条上させた。壬寅、諸郡守臣を戒飭する詔。癸夘、張浚を少傅・江淮宣撫使とし魏國公に封じた。甲辰、參知政事汪澈に湖北京西を視師させた。劉珙らを金に遣わし即位を告げた。戊申、四川宣撫使呉璘に陜西河東路宣撫招討使を兼ねさせ、岳飛の元官を追復し礼をもって改葬した。この夜地震し大風で木を抜いた。已酉、太廟・別廟に事があった。癸丑、馬軍司中軍統制趙撙・忠義軍統領皇甫倜が光州を復した。甲寅、景靈宮に朝献。淮南諸州に淮北の帰順民を存恤し権に税役を免じる詔。丙辰、少保保康軍節度使呉益を少傅・太尉、寧武軍節度使呉盖を開府儀同三司とした。丁已、李寳の海道措置を罷めた。戊午、恩平郡王璩が入見。庚申、御前軍器所を再び工部に隷せさせた。辛酉、後省に中外の上書で採るべきものがあれば聞かせる詔。壬戌、黄祖舜に兼権参知政事、諸路の聖節進奉を罷めた。李顯忠の軍馬を張浚の節制に聴わせる。癸亥、将士の戦傷死者の推恩格を増した。詔して四川の積年の逋負を蠲した。
- 8月乙丑朔、四川馬軍統制髙師中は摧沙で金人と戦い敗死。丙寅、呉璘は徳順軍で金人と戦った。已已、翰林學士史浩を參知政事とした。戊寅、群臣を率いて徳壽宮に詣り太上皇帝・太上皇后に尊号冊寶を上呈。丁亥、寛恤事18条を頒布。起居舎人洪邁は知閤門事張掄が使命を辱めた罪に連座して罷めた。甲申、呉璘は金人を北山で破った。戊子、李光を資政殿學士に追復し、趙鼎・范冲はともに合わせ得るべき恩数を還した。庚寅、生日を会慶節とした。
- 9月甲午、子愭を少保・永興軍節度使とし鄧王に進封、愷を雄武軍節度使・開府儀同三司とし慶王に進封、惇を鎮洮軍節度使・開府儀同三司とし恭王に進封。金人は徳順軍東山堡を攻め中軍将李庠が戦死。丁酉、講日には輔臣を召して観講させる詔。川陜宣諭使虞允文は辺事の議が合わず罷めた。已亥、侍従台諫に四川利害に堪える都転運使を挙げさせる詔。庚子、金人が旧礼を来索したので宰執・侍従・台諫に応敵定論を条上させる詔。辛丑、呉璘に川蜀の保全を審度措置させる詔。乙已、勲臣名次を纂録する詔。丙午、朱震・范冲の子孫の官を転補。庚戌、皇后郭氏に恭懐と諡した。辛亥、淮東義兵及び帰正人を振わせ、総領四川財賦軍馬銭糧の王之望を戸部侍郎・川陜宣諭使とし将に興州の川口の防守を同調させた。乙夘、虞允文に呉璘の軍に赴いて議事させる詔。辛酉、呉璘を少師とした。
- 冬10月丙寅、朝臣に監司郡守に堪える者を挙げさせる詔。戊辰、岳陽軍節度使居広を開府儀同三司とした。史浩に権知樞密院事を兼ねさせた。已已、葉義問が罷め、登聞鼓院にみだりに進状を阻抑しないよう詔した。庚午、恩平郡王璩を少保とし、会慶節に上寿を権免する詔。戊寅、張浚・陳俊卿に諸将の陳べた功賞を覆実させ、皇后郭氏に安穆と諡した。壬午、岳飛の孫6人に官を与えた。甲申、契丹招討蕭鷓巴が来奔、金人は徳順城を攻め呉璘はこれを撃走したが再び兵を遣わし追襲すると敗れた。乙酉、建州を建寧府に昇格。戊子、資政殿學士張燾を同知樞密院事とした。已丑、安南都護南平王李天祚・闍婆国王悉里地茶蘭固野・占城国王鄒時巴蘭にみな食邑実封を加えた。
- 11月庚子、蕭鷓巴を忠州團練使とした。乙已、金人が水洛城を攻めた。丙午、忠義軍統制皇甫倜に軍帛5千匹・綿1万両を賜った。戊申、明年を隆興元年とする詔。辛亥、楊存中が献じた酒坊の逋負銭40万緡を免除。甲寅、内侍官の額を定めた。辛酉、史浩は権知樞密院事を免ぜられた。文武臣の宮観嶽廟の員数を裁定。京西営田司を措置。
- 12月乙丑、宰臣に樞密使を再び兼ねさせる詔。金人が隴城縣を攻めるも官軍がこれを拒退。丙寅、帥臣監司に部内の知州の治行の臧否を具さに聞かせる詔。徳順城を棄て兵民を秦州に徙して裏屯住させる詔。丁夘、陳康伯に樞密使を兼ねさせ、江淮宣撫司に武勇効用軍を増招させた。戊辰、侍従台諫に当今の弊事を集議させ、その属をことごとく率いて極言隠すことのないようにさせる詔。辛未、劉珙・張説が盱眙より還った。戊寅、四川の赦前の登帯白契税銭を蠲した。丙戌、観察使以上に各々知る所3人を挙げさせる詔。三省樞密院にこれを詳議し格を立てて聞かせた。庚寅、建康・鎮江の営田官兵を罷めた。辛夘、廣西の賊王宣が藤州を破り守臣廖顒は城を棄て逃走。この歳、諸路で大辟を断ずること41人。
隆興元年(1163年)
- 春正月壬辰朔、群臣が文徳殿に朝し、帝は徳壽宮に朝した。武臣薦挙格を立てた。甲午、四川宣撫司に班師の詔を奉じさせた。庚子、史浩を尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密使、張浚を樞密使・都督江淮東西路軍馬に進めた。丙午、殿前司後軍で謀変した者を誅した。戊申、礼部貢院の試額を100人増す詔。丁已、呉璘の軍の進退は便宜に従わせる詔(璘はすでに徳順を棄て道すがら金人に邀撃され将士の死者は数万を数えた)。
- 2月壬戌朔、史浩の策により布衣李信を兵部員外郎とし蠟書を齎して間道より中原へ赴かせ、州郡を拠する豪傑を招き封王世襲を許した。安慶軍節度使士籛は奉賜の半分を減らして軍用の助けとすることを乞い、これより諸宗室で請う者はみなこれに従った。戊辰、宰執陳康伯らは再び奉を減らし旧格の半分に止めることを乞い許した。已夘、両淮の流民及び山東の帰正忠義軍を振わせた。癸未、黄祖舜が罷めた。庚寅、秦檜の党人を逐い、行在に輙く至ることを禁じた。
- 3月壬辰朔、金の右副元帥紇石烈志寧が書をもって侵地を取り戻すよう求めた。癸已、張燾を參知政事、御史中丞辛次膺を同知樞密院事とした。葉義問は端明殿學士を落とされ饒州に居住。丙申、雨雹。丁酉、戸部に局を置いて浮費を議させる詔。已亥、楊存中らは半奉の減を乞い宰執の例に許された。庚子、龍大淵を知閤門事とした。陳康伯は欽宗の陵名を永献と上呈。乙已、遺逸を求める詔。丁未、太上皇帝の聖政を修めさせ、龍大淵を別に差遣に与えさせる詔。曾覿に帯御器械を復し張浚を召した。已酉、張燾が罷めた。選人の減挙主法を立てた。甲寅、龍大淵を再び知閤門事、曾覿を同知閤門事とし、給事中中書舎人が留黄して行わなかった。乙夘、郡縣の吏を飭める詔。庚申、久雨により有司に災傷を振わせ刑禁を察させた。
- 夏4月乙丑、選人の改官嵗額を定めた。戊辰、張浚が入見し出師渡淮を議し三省樞密院は預り聞かなかった。壬申、禮部進士李待問以下538人に及第出身を賜った。乙亥、王之望が罷めた。壬午、戸部台諌に浮費を議させる詔。癸未、白金25万両を江淮都督府の軍費に給する詔。戊子、張浚は邵宏淵に師を率いさせ盱眙に次させた。乙丑(乙酉の誤りか)、李顯忠に師を率いさせ定逺に次させた。この月、金人は環州を拔き守臣強霓とその弟震が死した。
- 5月壬申、鋪翠銷金及び神祠僭擬の禁を厳しくした。丁酉、李顯忠は靈壁縣を復し邵宏淵は虹縣に次すが金人がこれを拒んだ。戊戌、顯忠は東の虹縣に趨き、庚子に虹縣を復し金の知泗州蒲察徒穆及び同知泗州大周仁が降った。辛丑、左右史に日ごとに前殿に立ち代わらせる命。壬寅、張浚が渡江して視師。癸夘、金の右翼軍都統蕭琦が李顯忠に降った。甲辰、顯忠及び宏淵は宿州で金人を破った。乙已、史浩が罷め、司馬康・右諫議大夫を追復。丙午、宿州を復し金兵数千人を戮した。建康前軍統領官王珙は巷戦で死した。丁未、辛次膺を參知政事、翰林學士承旨洪遵を同知樞密院事とし諸路に営田を開かせた。辛亥、徳壽宮に赴き天申節を賀した。金の紇石烈志寧は睢陽から兵を引いて宿州に至ったが李顯忠がこれを撃退。壬子、欽宗の大祥、帝は衰服して几筵に詣り祥服に易えて祥祭の礼を行った。顯忠は宿州で金人と戦うも邵宏淵は援けず顯忠は失利、この夜建康中軍統制周宏及び邵宏淵の子世雄・殿前司統制官左士淵は逃帰。癸丑、李顯忠に開府儀同三司・淮南京畿京東河北招討使、邵宏淵に検校少保・寧遠軍節度使・招討副使を進めた。金人は宿州城を攻めるも顯忠が大破し、殿前司統制官張訓通ら7人・統領官12人は二将が不叶により遁走した。甲寅、李顯忠・邵宏淵の軍は符離で大潰した。乙夘、親征を詔した。丙辰、汪澈を召し張浚に荆㐮軍馬を兼都督させ、李顯忠・邵宏淵は濠州に至った。張浚は劉寳を鎮江諸軍都統制とした。丁已、蒲察徒穆・大周仁・蕭琦をみな節度使とし(徒穆は大同軍、周仁は彰国軍、琦は威塞軍)、御前忠勇軍を都督府に赴かせた。この月、成都で地震3度。
- 6月庚申朔、日食。内侍を遣わして淮東将士の功賞を促した。癸亥、汪澈が罷め、張浚は致仕を乞い通好を請うたがともに許されなかった。丁夘、観文殿大學士湯思退を醴泉觀使兼侍讀とした。戊辰、虞允文を召し兵部侍郎周葵を參知政事とし、汪澈は資政殿學士を落とし台州に居住。庚午、張浚は盱眙から揚州に還った。辛未、李顯忠は軍職を罷めた。壬申、太傅同安郡王楊存中を御營使とし殿前司軍馬を節制させた。癸酉、詔して自らを罪し、張浚は特進・前樞密使・江淮東西路宣撫使に降授しその官属は各々二官を奪われ、邵宏淵は武義大夫に降されたが職はそのまま。楊存中に先に建康に赴き営塞措置・沿江守備検視させる詔。戊寅、巡幸の期を展べる詔、辛次膺が罷めた。已夘、李顯忠は清逺軍節度副使・筠州安置に責め授けられた。辛已、浙西副都総管李寳に御營統制官を兼ねさせ浙西海道措置を命じた。甲申、右諫議大夫王大寶が入対し移蹕を論じ、敷文閣學士虞允文を兵部尚書兼湖北京西宣諭使とした。戊子、宮人30人を放ち、蕭琦を検校少保・河北招撫使とした。
- 秋7月庚寅朔、虞允文を湖北京西制置使とした。癸已、湯思退を尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密使、李顯忠を再び果州團練副使・潭州安置に責め、乙未に宿州棄軍の将佐を奪官貶竄した。丙申、太白が昼に経天。江淮宣撫司の便宜行事を罷めた。乙已、旱蝗星変により侍従台諫両省官に時政の闕失を条上させる詔。丁未、李顯忠の侵欺した官銭を徴す詔だがその家は籍せずと免除した。乙夘、省部寺監官吏を裁減。戊午、岳飛の田宅を給還した。
- 8月丙寅、張浚は再び江淮軍馬を都督。庚午、劉寳に淮東招撫使を兼ねさせた。丙子、飛蝗・風水の災により避殿減膳、諸路職田の借用の令を罷めた。戊寅、金の紇石烈志寧はまた書をもって海泗唐鄧四州の地及び歳幣を求めた。癸未、龍大淵を再び知閤門事、曾覿を同知閤門事とした。丙戌、淮西安撫司幹辦公事盧仲賢らを遣わし書を金帥府に齎させ、四州の差減歳幣を許さぬこと、諸将に兵人を境外に遣わさせないことを戒めた。
- 9月已酉、楊存中が罷めた。
- 冬10月戊午朔、大臣が金帥書の四事を奏し、帝は「四州の地・歳幣は名分をもって与えてよいが、帰正人だけは従えない」と言った。辛酉、御殿を復膳。已已、護聖軍を江南に戍らせた。丙子、太上皇后の教旨を聖旨と改称する詔。賢妃夏氏を皇后に立てた。丁丑、地震。辛巳、洪州を隆興府に昇格。江淮の軍馬調発は都督府の取旨に応え、余事はことごとく聞くようにする詔。
- 11月已丑、盧仲賢は宿州から金都元帥僕散忠義の三省樞密院への書を持って還った。庚子、王之望らを金国通問使として遣わした。辛丑、侍従台諫に後省で講和・遣使礼数・土貢の4事を集議させ、各々小使に備える者を薦めさせる詔。丙午、盧仲賢は擅に四州を許した罪により大理寺に下り三官を奪われた。張浚を召した。癸丑、胡昉・楊由義を使金通問国信所審議官とした。
- 12月已未、陳康伯が罷めた。乙丑、張浚が入見。丁丑、湯思退を尚書左僕射、張浚を右僕射とし同中書門下平章事兼樞密使とし、浚には仍お江淮東西路軍馬の都督を兼ねさせた。壬午、西南方に白気があった。この歳、両浙の大水・旱・蝗、江東の大水により租をことごとく蠲した。
隆興二年(1164年)
- 春正月辛夘、徳壽宮の車輦儀衞を増す詔。壬辰、文徳殿に御し皇后を冊立。癸已、三省法を修めた。乙未、皇帝及び皇后が徳壽宮に朝した。丙申、虞允文に廣西諸盗の討伐を調兵させる命。庚子、諸州の招軍を罷めた。丙午、金の僕散忠義がまた書を来した。庚戌、卿監郎官の更出迭入の制を厳しくした。壬子、帰正人を振わせた。甲寅、白気が天に亘った。この月、福建諸州で地震。
- 2月辛未、秀州の貧民の逋租を蠲した。壬申、容州の妖賊李雲が乱を起こした。癸酉、王権を武義大夫に復し廣西路都鈐轄を専一措置盗賊とした。丙子、将帥を飭め文武官及び百司の吏の郊賜を半分に減じる詔。両浙・福建・江西・湖南・夔州路の参議官を罷めた。丁丑、雨雹及び雪、李雲を獲てその党をことごとく平定。乙酉、胡昉が宿州から還った(初め金帥は昉らが四郡を許さぬので械繋したが、昉らは屈せず金主が帰らせた)。
- 3月丙戌朔、張浚に淮に視師させる詔。また王之望らに幣を還らせる詔。丁亥、荆㐮川陜の帥臣に辺備を厳しくし先事の妄挙を戒める詔。盧仲賢は除名し郴州へ械送し編管。壬寅、知光州皇甫倜に帰正人を招納させない詔。丙午、王宣らが降った。三衙の戍兵を司へ帰らせ建康・鎮江の大軍を更番で砦に帰らせる詔。庚戌、徳壽宮に芝が生じた。戸部侍郎錢端禮を淮東宣諭使、吏部侍郎王之望を淮西宣諭使とし両淮軍民を撫諭させた。壬子、廣西の賊平定により髙藤雷容四州の雑犯死罪囚を減じ杖以下を釈し夏秋の税賦を蠲した。忠勇軍を歩軍司に隷し神勁右軍を鎮江都統司に隷した。癸丑、王彦を建康諸軍都統制兼淮西招撫使とした。
- 夏4月庚申、張浚を朝に召還した。甲子、李顯忠の侵欺した官銭を諸軍に給還した。丁夘、建康の帰正人を忠毅軍、鎮江を忠順軍とし蕭琦・蕭鷓巴に分領させた。戊辰、江淮都督府を罷めた。髙麗が入貢。丁丑、張浚が罷めた。癸未、言者が宰相執政の狥欺の弊を論じ書を政事堂に置く命。
- 5月壬辰、環衞官を復置。丙申、呉璘に帰正人を招納させない詔。辛丑、劉寳に泗州の輕重取捨の事宜を量度させる詔。江西総管邵宏淵は靖州團練副使・南安軍安置に責められその盗用した庫錢を徴した。乙已、群臣を率いて徳壽宮に天申節を賀し初めて楽を用いた。丁未、蝗。内外の贓私不法の官吏を尚書省に籍を置いて検勘する詔。庚戌、招神勁効用軍を罷めた。辛亥、両淮で招いた戸馬を鬻いた。
- 6月甲寅朔、日食。辛酉、滛雨により州縣に滞囚を理させる詔。戊辰、太白が昼に見えた。壬申、虞允文に唐鄧を棄てるよう命じたが允文は詔を奉じなかった。丁丑、江東・両淮の被水貧民を賑わせた。
- 秋7月乙酉、虞允文を召し戸部尚書韓仲通を湖北京西制置使とした。丁亥、洪遵が罷めた。已丑、周葵に権知樞密院事を兼ねさせた。主管馬軍司公事張守忠を遣わし兵を淮西に率いさせ辺備を措置。庚子、太白が経天。内外の文武官で70歳になっても致仕を請わない者は郊に遇うも蔭補を得させない詔。已已、海泗州の徹戌を命じた。丁未、雨雹。戊申、淮東の内庫坊塲銭を1年蠲した。庚戌、洪遵は端明殿學士を落とされた。癸丑、江東・浙西の大水により侍従台諫卿監郎官館職に闕失及び当今の急務を陳べさせる詔。
- 8月甲寅朔、災異により避殿減膳。戊午、南丹州の莫延廩は諸蛮に逐われ帰順、補修武郎とした。江東・浙西の守臣に開決囲田を措置させる命。甲子、秦国大長公主が薨じた。久雨により囚を決繫。庚辰、資政殿大學士賀允中を知樞密院事兼參知政事とした。辛已、淮東の被水州縣を振わせる詔。張浚が薨じた。壬午、魏𣏌らを金国通問使として遣わした。
- 9月甲申、内侍李珂を罷め諡を賜った。甲午、江東・浙西の監司守臣に田事措置を講明させる詔。乙未、交阯が入貢。丁酉、贓吏の法を厳しくした。辛丑、王之望を參知政事、権刑部侍郎呉芾を給事中兼淮西宣諭使とした。金人が辺を犯し、久雨により内庫の白金40万両を出して米を糴い貧民を賑わせた。壬寅、王彦は師を率いて江を渡り昭闗に赴いた。癸夘、湯思退に江淮東西路軍馬を都督させたが辞して行かず、乙已に楊存中を同都督に再任、錢端禮・呉芾をともに都督府參賛軍事とし宣諭司を罷め国書を易えて魏𣏌に付し、少保崇信軍節度使趙密は致仕を落とし殿前司職事を権領した。
- 冬10月甲寅、魏杞は盱眙に至ったが金帥はその国書が式に叶わないとして受けず、商秦の地と俘獲人を得たいとし歳幣30万を邀めたので杞は進むことができなかった。丁夘、賀允中が罷め資政殿大學士致仕。已已、周葵に権知樞密院事を兼ねさせ、王之望に同知樞密院事を兼ねさせた。庚午、輔臣に夕対便殿を詔した。丙子、大風。庚辰、京西湖北の運糧の経る州縣の秋税の半分を蠲した。靖海軍節度使李寳を沿海駐劄御前水軍都統制とした。辛已、金人は淮を分道して渡り劉寳は楚州を棄て遁走。
- 11月乙酉、知楚州魏勝は金人と戦い死し州は陥ち濠州も陥ちた。王彦は昭闗を棄てて逃げ滁州もまた陥ちた。丙戌、沿邊将士を詔諭。丁亥、魏杞らに賫った禮幣で軍を犒わせる詔だが杞は従わず鎮江に留まり命を待った。復命として王之望に江淮軍馬を督視させた。戊子、金人の侵擾により郊祀を改めて明年とする詔。また帰正官民軍士を諭す詔。王之望に江淮軍馬の都督を同じくさせ、湯思退の都督を罷め陳康伯を召した。已丑、王之望は同都督を罷め、庚寅に楊存中に江淮軍馬を都督させた。辛夘、湯思退が罷め、まもなく尹穡・晁公武がこれを論じたので観文殿大學士を落とし永州に居住させたが至らずに卒した。甲午、黄榜をもって太学生の伏闕を禁じたが、この日太学生張観ら72人が上書し湯思退・王之望・尹穡を斬るよう請いその党の洪适・晁公武を竄し、陳康伯・胡銓らを用いて大計を済すよう求めた。丙申、国信所大通事王抃を遣わし周葵の書を持たせ金帥府に赴かせ皇帝号を正し叔姪の国となし歳貢を歳幣に易えて10万を減じ商秦の地を割いて還し被俘人を帰らせるが叛亡者は与らない誓目を大略紹興と同じくするよう請わせた。金人が淮南を犯したので避殿減膳を詔した。丁酉、視師の日を択ぶ詔。戊戌、少保観文殿大學士陳康伯を尚書左僕射同中書門下平章事兼樞密使とした。庚子、兵部侍郎胡銓・右諫議大夫尹穡をそれぞれ両浙に遣わし海道措置に赴かせ、魏勝に寧國軍節度使を贈り忠壮と諡した。辛丑、兵部尚書錢端禮に出身を賜い簽書樞密院事兼提領徳壽宮とした。壬寅、侍従両省官に日ごとに1度都堂に至り事を議させ台諫に関わる事は会議に聴かせる詔。顯謨閣學士虞允文を同簽書樞密院事とした。癸夘、王之望を遣わし江上の師を労わせた。甲辰、金人は六合縣を犯すも歩軍司統制崔臯がこれを撃退。乙已、錢端禮に兼権參知政事。丁未、顯謨閣直學士沈介を沿江制置使とし沿江諸州に保甲を調え渡口を分守させた。已酉、劉寳は節鉞を落とし武泰軍承宣使、王彦は龍神衞四廂都指揮使を落とされた。閏月甲寅、陳康伯が入見、康伯に間日1朝、肩輿で殿門に至り扶けを給し升殿することを詔した。丙辰、周葵が罷め、王忭が金の二帥に会い報書を得て帰った。戊午、蕭琦が卒した。壬戌、金人がまさに退くにより督府に利をみて撃たせる詔だが王之望はいけないと固執。乙亥、之望が罷めた。丙子、王忭を奉使金国通問国信所参議官とし陳康伯の報書を持たせて行かせた。丁丑、金は張恭愈を遣わし使者を迎えさせた。台諫侍従両省官に楚廬滁濠四州の守臣を挙げさせる詔。
- 12月甲申、陜西路転運司を罷めた。戊子、魏杞が始めて淮を渡った。郊祀大礼は至道の典故に遵い来年正月一日上辛に改める詔。辛夘、錢端禮を參知政事兼知樞密院事、虞允文を同知樞密院事兼権參知政事、禮部尚書王剛中を簽書樞密院事とした。丙申、制していう、比ごろ王抃を遠く潁濱に遣わし要約を得て澶淵盟誓の信を尋ね大遼書題の儀に倣い皇帝の称を正して叔姪の国となし歳幣を10万減じ地界は紹興の時の如くし彼此の無辜を憐れみ叛亡を遣わさない約とすれば帰正の士は寧居の心を起こせよう、なお数州の民がこの一時の難に罹り老稚は蕩析の災いに丁壮は係累の苦しみを受けたことを思えば蕩滌の宥を推し彫残の情を少し慰めるべきだと。沿邊の被兵州軍で逃遁官吏を除いて赦さない外、雑犯死罪の情軽い者は一等を減じ残りはみな放遣する。洪适らを遣わして金主の生辰を賀し、呉挺に市馬を行在に赴かせる詔。已亥、雨雹。壬寅、三衙江上荆㐮諸軍の招軍を罷めた。甲辰、沿海水軍を還屯させた。已酉、景霊宮に朝献。庚戌、太廟に朝饗した。
乾道元年(1165年)
- 春正月辛亥朔、天地を圜丘で合祀し大赦し改元。丁已、淮西安撫韓璡は勒停・賀州編管。庚申、錢端禮に徳壽宮使を兼ねさせた。辛酉、楊存中を召した。通問使魏杞が燕山に至った。丁夘、王抃は使金の労により五官を進めた。庚午、西北方に白気があった。館職に更に外に補せる詔。辛未、両淮の守令に民に桑を種えさせる賞を立てた。壬申、両浙の流民を賑わせる詔(紹興の流民の多くが死んだため)。守臣徐嚞及び両縣令を罷めた。癸酉、沿邊の残破州軍の官賦を1年蠲した。甲戌、劉寳は果州團練副使・瓊州安置に責められた。乙亥、両淮招撫司及び陜西河東宣撫招討司を罷めた。丙子、淮西守将孔福は敵に遇い城を棄てた罪で伏誅、頓遇は奪官・刺面し吉陽軍牢城に配された。
- 2月庚辰朔、徳壽宮に朝し太上皇太上皇后に従い四聖観に幸した。乙酉、江淮都督府を罷め、官を遣わし両淮州縣を検察し饑民を振済させた。庚寅、雨雹。癸已、濠州の戍兵を藕塘に移した。庚子、楊存中を寧逺昭慶軍節度使とした。甲辰、久雨により避殿減膳、両淮災傷州縣の身丁銭絹を蠲し繋囚を決した。丁未、陳康伯が薨じ文恭と諡した。
- 3月甲寅、太白が昼に見えた。已未、御殿を復膳。庚申、虞允文を參知政事兼同知樞密院事、王剛中を同知樞密院事とし淮西湖北荆㐮帥臣に屯田措置及び榷場再置を命じた。癸亥、黄祖舜が薨じた。戊辰、白気が天に亘った。已已、諸軍額外制領将佐を罷めた。乙亥、太白が経天。この春、湖南で盗が起こり広東に入って州縣を焚掠したが官軍が討平。
- 夏4月庚子、金の報問使完顔仲らが入見。乙已、呉璘が入見。
- 5月庚戌、璘を太傅に封じ新安郡王とした。丙辰、皇后家廟を治めさせる詔。壬戌、監司帥守に弊事を講究し聞かせる詔。合廣南東西路監事を1司とした。癸亥、総領帥漕臣・諸軍都統制にみな提領措置屯田を兼ねさせ沿邊守臣に屯田事を兼管させる詔。丁夘、呉璘に馬綱水路を措置させる詔。壬申、四川州縣の虚額銭を蠲し呉璘を判興元府に改めた。乙亥、未銓試の人は堂除を得ない詔。丙子、李若川らを遣わし金に尊号増加を賀させ諸路の鈐轄都監を増置。郴州の盗李金らが再び乱を起こし兵を遣わし討捕。
- 6月癸未、王剛中が薨じた。乙酉、恭王府直講王淮が傾邪不正で礼経に違うため外任とする詔。丙戌、翰林學士洪适を簽書樞密院事とした。戊子、歩軍司統制官崔臯は奏功冒濫により遷る所の観察使を奪われ横行三官を進めるに止め本軍に自効させた。辛夘、武経郎令徳を安定郡王とした。壬辰、淮南転運判官姚岳が境内の飛蝗の自死を言上したので一官を奪い罷めた。丙申、両淮守令の労徠安集無効を戒める詔で守令の治所を定めさせた。壬寅、廣東の残破郡縣の税賦を蠲した。甲辰、湖北京西制置司を罷めた。
- 秋7月辛亥、知州で70歳以上の者に宮観を与える詔。癸丑、輔臣の晩対で選徳殿の御坐の後に大屏があり諸道監司郡守の姓名を記注していたので都堂にこれを視させる命を出した。甲寅、職田租を2年借りて経費を裨する。已未、当二銭を鑄した。已已、闗外四州の民の今年租税及び湖南の賊が郡縣を蹂んだ夏税を蠲した。
- 8月已夘、永豐圩田を建康都統司に賜った。癸未、李金を獲た。乙酉、子愭を皇太子に立てる詔。丁亥、虞允文が罷めた。戊子、大赦。已丑、洪适を參知政事兼権知樞密院事、吏部侍郎葉顒を簽書樞密院事兼権參知政事とした。庚寅、知州軍諸路総管鈐轄都監の辞見法を立てた。癸已、錢端禮は東宮親嫌を避けて罷め資政殿大學士・提挙萬壽觀とした。戊戌、吏部侍郎章服は虞允文への阿附を論ぜられ罷め汀州に謫居。
- 9月乙夘、広国夫人錢氏を皇太子妃に立てた。丁已、百司官の出入局の制を厳しくした。丁夘、鼎州を常徳府に昇格。甲戌、端明殿學士汪澈を知樞密院事、洪适に同知樞密院事を兼ねさせた。乙亥、沿淮諸州の都巡検を置いた。
- 冬10月已夘、方慈らを金に遣わして正旦を賀した。戊子、頭子銭を増した。帰正人の右通直郎劉藴古は軍器法式を北境に送った罪で伏誅。壬辰、大慶殿に御して皇太子を冊立、癸已に徳壽宮に謝を詣でた。乙未、侍従に各々知る所の宗室1・2人を挙げさせる詔。丁酉、金は髙衎らを遣わし会慶節を賀した。乙已、淮北の紅巾賊が淮を踰えて刼掠し賞を立てて討捕させ、まもなく知楚州胡明が巡尉を遣わしその首の蕭榮を撃殺した。
- 11月辛亥、両淮の流散忠義人を招収した。丙寅、白気が天に亘った。辛未、龍大淵を遣わし両淮を撫諭し屯田を措置し盗賊を督捕させた。
- 12月戊寅、洪适を尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密使、汪澈を樞密使とし、廣東提刑司に李金の余党を招安させる命を出した。癸未、王曮らを遣わして金主の生辰を賀した。庚寅、葉顒を參知政事兼同知樞密院事とした。辛夘、侍従台諫両省に監司郡守に堪える者各1人を挙げさせ、三衙知閤に材武で辺を守れる者1人を挙げさせる詔。庚子、両淮諸州の権攝官を罷めた。壬寅、金は烏古論忠弼らを遣わして明年の正旦を賀した。癸夘、樞密院文書は三省の式に依って中書門下に経て畫黄書読させる詔。
乾道二年(1166年)
- 春正月辛酉、六合の戍兵を省き墾した田を復業の民に給還した。辛未、湖南監司に寇盗に破られた郡縣を存恤させる命。
- 2月丁丑、盱眙の屯田を罷め両浙江東の饑を振わせた。戊寅、玉津園に幸し宴射、遂に龍井に幸した。
- 3月乙已、京西・利州路の科役保勝義士を禁止。壬子、刑獄官を戒飭する詔。戊午、殿中侍御史王伯庠は奏薦の裁定を請い、三省台諫に条式を具さに集議させる詔。詔して縣令は両任を経ずして監察御史に除せず、任守臣を経ずして郎官に除せず、これを令とした。丁夘、禮部進士蕭國梁以下493人に及第出身を賜った。戊辰、諸州軍の離軍添差員闕を再び増した。辛未、洪适の右僕射を罷めた。癸酉、給事中権吏部尚書魏杞を同知樞密院事兼権參知政事とした。丁丑、和糴を罷めた。
- 夏4月戊寅、久雨により侍従台諫に刑政の宜しき所を議させて聞かせ、大理・三衙・臨安府及び浙西州縣の雑犯死罪以下の囚を一等減じ杖以下を釈す。庚辰、両浙漕臣王炎に平江・湖秀の囲田を開かせる詔。辛已、避殿減膳。甲申、太白が昼に見えた。癸已、御殿を復膳。乙未、汪澈が罷めた。丁酉、知荆南府李道は戚里に憑恃し妄作したので罷めた。
- 5月戊申、張燾が薨じた。已酉、権に借りた職田を罷めた。庚戌、葉顒が罷め、魏杞を參知政事、右諫議大夫林安宅を同知樞密院事兼権參知政事、中書舎人蔣芾を簽書樞密院事とした。癸丑、太白が昼に見え経天。浙西の圍田修築を禁じ建康行宮の修めを罷めた。丁夘、監司守臣に水旱への予備を命じた。
- 6月甲戌、両浙路提挙市舶司を罷め、諸路監司帥臣に守令の臧否を察させ聞かせる詔。丙子、刑部は乾道新編特旨断例を上呈。戊寅、制科は権に注疏出題を罷め守臣監司にも解送を許す詔。庚辰、孫挺を福州觀察使・榮國公、攄を左千牛衞大將軍に封じた。癸未、使相に文資7色補官人が奏補することを禁じ、任子堂吏の遷る朝議大夫は5員を額とする詔。乙酉、内外の牒式法とその額を厳しくした。丙戌、永豐圩を廃した。戊戌、改官人は実歴知縣一任を経てはじめて関升を許すことを定式とする詔。
- 秋7月已酉、泉州左翼軍2千人を調して許浦鎮に屯させた。甲寅、鎮江都統制戚方を武当軍節度使とした。
- 8月辛未朔、両淮に鐵銭銅銭を行い江北に過ぎさせない詔。癸酉、武鋒軍を歩軍司に隷せさせた。甲戌、任子で年30に免試参選を得る令を罷めた。丁丑、淮南の放帰した萬弩手の差役を2年蠲した。壬午、諸州守臣に禁軍の訓練を兼ねさせる詔。癸未、会子交子を鎮江・建康の務場に降し江淮の人に対換させた。丙戌、林安宅は葉顒の子が金を受けたと劾しこれを罷めた。丁亥、安宅は筠州に居住とする詔。温州で大水。戊子、魏杞に同知樞密院事を兼ねさせ蔣芾に権參知政事とし葉顒を召した。庚寅、少保新興郡王呉盖が薨じた。
- 9月甲午、中興以来の13処戦功格目を立てた。乙未、呉璘に興州を再判させる詔。丙申、宣州を寧國府に昇格。戸部の諸路歳糴1年分を罷めた。甲辰、知上元縣李允升は贓罪に連座し死を貸されて杖脊・刺面・惠州牢城に配され資を籍没された。丙午、建康守臣王佐は允升を去官させたことで三官を奪われ勒停・建昌軍に居住、他に失按の官吏及び薦挙官も各々官を奪われた。辛亥、官を遣わし温州の水災を按視し貧民を振わせ繋囚を決した。乙夘、大暦を改造する詔。辛酉、子恪を邵王に追封し悼肅と諡した。甲子、監司に部内の知縣・縣令2・3人を挙げさせ守臣に属縣1・2人を挙げさせる詔。已已、魏杞らが神宗・哲宗・徽宗の三朝帝紀・太上皇聖政を上呈。太白が昼に見えた。この月、将帥を挙げ章奏簿を置く詔。
- 冬10月癸酉、太上皇聖政を徳壽宮に上呈。乙亥、薛良朋らを遣わし金に正旦を賀した。已夘、饒州の歳貢の金の3分の1を減じ、諸路の酒坊逋賦を蠲した。戊子、知峽州呂令問は贓吏を縦した罪、知夷陵縣韓贄胄は去官の罪で二官を奪われ鄂州に居住。辛夘、雨雹、金は魏子平らを遣わして会慶節を賀した。
- 11月丙午、楊存中が薨じた。已酉、内藏及び南庫の銀を尽く出して会子と替えさせ、官司はみな銭銀をもって支遣し民間もこれに従って便とした。両淮総領所に自ら会子を造らせ諸路の営田を鬻いだ。壬子、祥曦殿の記注を修める詔。乙夘、密かに四川制置使汪応辰に、呉璘が起たなければその宣撫使牌印を収めて権に主管職事を行わせる詔。甲子、大閲。戊辰、郢州城を築いた。この月、冗兵を汰する詔。
- 12月庚午朔、白気が天に亘った。癸酉、三省侍従台諫両淮漕臣郡守に両淮の鐵銭交子の利害を条具させ聞かせる詔。乙亥、梁克家らを遣わして金主の生辰を賀した。已夘、資政殿學士葉顒を知樞密院事とした。辛已、欽宗の日暦を進呈することを免じ国史院に送って実録を修纂させる詔。壬午、楊存中を和王に追封。甲申、葉顒を尚書左僕射、魏杞を右僕射とし同中書門下平章事兼樞密使、蔣芾を參知政事、吏部尚書陳俊卿を同知樞密院事兼権參知政事とした。庚寅、宰相に兼制国用使を、參知政事に同知国用事を領させる詔。癸已、監司守臣に廉吏を挙げさせる詔。丙申、金は烏古論元忠らを遣わして明年の正旦を賀し、江東兵馬鈐轄王抃を帯御器械とした。この歳、内外の軍額を裁定した。
宋史卷三十三