宋史巻三十二 本紀第三十二 髙宗九

紹興三十一年(1161年)

  • 春正月、日食のため朝を受けず。雷。湖州の増丁が輸す絹を免除、夜は風雷雨雪が交わり作す。江浙の官民戸に和市絁帛を均輸させる詔。劉寳は節鉞を落とされ福建路に居住。大雨雪、三衙衞士と行在の貧民に錢・薪炭を給し、常平が輔郡の細民を振給する監司決獄の詔。張浚・胡銓の自便を放った。淮南で戸馬を拘籍することを禁止。
  • 二月、卭州恵民監を再置。趙密を殿前都指揮使に領させた。楊存中の殿前都指揮使を罷め太傅に進め醴泉觀使とし同安郡王に封じた。行在に会子務を置いた。僧道度牒の鬻を復し、経義詩賦を二科に分ける詔。通進司の承受内降文字は嚢封して三省樞密院に送る詔。秦熺が卒し太傅を贈った。破敵軍統制陳敏に兵を部して太平州に屯させる命。
  • 三月、勲臣魏仁浦・馬知節・余靖・寇瑊の諸孫各1人に官を与え、文臣宗室を選び西南外両宗司を主管させた。両淮で民が附種を抑えることを禁止。利州西路御前諸軍都統制呉拱を知㐮陽府とし兵3000を部して戍らせた。兵部尚書楊椿を參知政事とした。秦熺の贈官及び遺表恩賞を奪った。陳康伯を尚書左僕射、朱倬を右僕射とし同中書門下平章事とした。李光の左中大夫官とその子孫2人の官を復した。地震。前徽猷閣待制張宇發の死節を贈四官しその子孫を録した。
  • 夏四月、久雨による蚕麦の傷みと盗賊の間発を受け、侍従台諫に弭災除盗の策を条上させる詔。天申節の銀10万両を戸部糴本に充てた。周麟之を金に遣わして遷都を賀させた。荆南上供の銭銀絹絲米の半分を減じて禁軍を招填に充てさせた。この月、金主完顔亮は文武群臣を率いて汝洛に赴いた。
  • 五月、両淮の民兵に荒田を給した。禁城を増築。呉拱に緩急なれば荆南に退守するよう詔。沿淮州郡に北人を納めさせないよう命じた。金は髙景山・王全らを遣わして天申節を賀したが、王全は無礼にも金主亮の言として淮漢の地を求め将相近臣を指取して事を計らせよと述べ、なお欽宗皇帝の訃を告げた。両浙・江東・福建諸州の禁軍弓弩手の半分を選び樞密院で按試させた。宰執が同安郡王楊存中及び三衙帥の趙密らを都堂に召し挙兵を議し、王全の語を諸路の統制帥守監司に諭し随宜応変し機会を失わないよう詔した。この日、欽宗皇帝のため発喪し特に斬衰3年を詔した。呉璘を四川宣撫使とし制置使王剛中に軍事を同処置させた。主管馬軍司成閔に兵3万を部して鄂州を戍らせる命。両浙・江湖・福建諸州に禁軍弓弩手を興させ明州・平江府・江池・太平三州・荆南府の軍前に部送する命。殿中侍御史陳俊卿は内侍張去為が権を竊み政を撓わしたので斬るべきと言上した。
  • 六月、群臣が3度上表したことでようやく聴政。劉錡が即日軍を渡江させるよう請い、錡に騎兵を発して揚州に屯させる詔。宮女390人を出し、臨安府の禁軍闕額錢を5年蠲した。御史中丞汪澈を湖北京西宣諭使とした。金主亮は大懐正を遣わして盱眙に至り送伴使呂広に六月に汴京へ還ると告げさせた。教坊を罷めて敇令所を刑部に帰した。劉錡を淮南江東西浙西制置使とした。帯御器械劉炎に沿淮の盗賊措置を提挙させる命。彗星が角に出た。歩軍司都統制戚方を遣わして江上諸軍を提総し策応させ、劉錡の節制を聴かせた。呉拱に㐮陽の厳備を諭し、緩急あれば田師中・成閔の兵を合わせて援けさせた。正殿に始めて御した。女楽200餘人を放った。淮南諸州の移治清野を聴す。周麟之は北使を辞し樞密都承旨徐嚞に代行させた。淮北の民兵崔唯夫・董臻らが衆1万餘を率いて帰順した。
  • 秋七月、両浙・江東の濵海諸州に敵兵に予め備えさせる命。諸路帥臣に土兵弓手を教閲させる詔。雷州守臣に髙・容・廉・化四州の軍馬を節制させる命(雷州の軍賊凌鐵が乱を起こし、東南第十二將髙居弁が5州の巡尉官兵を集め討平)。周麟之は筠州に分司居住。淮南の歸正人を振給。徐嚞らは盱眙に至ったが金主亮は指取した人でないとして遣り還した。四川の財賦は当に総領所の専任にすべきで急に及ばぬ調発は宣制司が随宜措置し先に挙げて後に聞くよう詔した。新会子を淮浙湖北京西諸州に行うことを許した。この月、金主亮は都を汴京に遷し、その臣劉蕚に唐鄧より荆㐮を瞰わせ、張中彦・王彦章に秦鳳に拠って巴蜀を窺わせ、蘇保衡・完顔鄭家奴に海道より両浙に趣かせた。忠義人魏勝が海州を復し、李寳が制を承けて勝を知州事とした。
  • 八月、諸路の逋欠経総制錢、江浙等路の上供米を蠲した。婉容劉氏は妄りに国政に預ったとして家に廃され、淮南・京西・湖北の秋税の半分を蠲した。劉婉容の事に連坐し昭慶軍承宣使王継先は福州に居住させられ子孫の官を停め貲を籍没した。李寳は舟師3000を発し江陰から大風で明州闗澳に退泊するが聚兵して再び進んだ。劉錡は兵を引いて揚州に屯し、統制王剛に兵5000を屯させ寳応を守らせた。田師中を行在に召し呉拱を鄂州諸軍都統制とした。資政殿學士張燾は致仕を落とし知建康府とされた。歸正人を淮南諸州で自存できる者は分処させ、兵となりたい者は籍にした。
  • 九月、戦功人の後を減らさない詔。内帑錢7万緡を出して戍兵の家を犒い軍債を全て除いた。成閔を起復し湖北京西制置使とし両路軍馬を節制させた。太廟で朝饗する命。徽宗を明堂で宗祀し上帝に配して大赦。金人が黄牛堡を犯し守将李彦堅がこれを拒いだが、金兵は大散闗を扼し呉璘は青野原に駐屯、髙松らを援に遣わした。給事中黄祖舜を同知樞密院事とした。流星が昼に隕ちた。劉錡・王権・李顯忠・戚方に清河・潁河・渦河口を厳備させる詔。成閔は江を渡り応城県に屯し呉拱を郢州に戍らせた。愽州民王友直が大名で兵を聚め自ら河北安撫制置使と称し、その徒王任を副とし軍師馮穀を遣わして入朝奏事させた。呉璘は将彭青を遣わし寳雞渭河で夜襲し金人の橋頭砦を破った。成閔は統制趙撙に兵5000を部して徳安に駐屯させた。金国は使臣を趣し楚州にその書が至ったが辞が悖慢であった。監盱眙軍淮河渡の夏俊が泗州を復した。金人は通化軍を犯すも守将張超が拒退した。大行皇帝を恭文順徳仁孝皇帝と謚し廟号は欽宗とした。呉璘は将劉海を遣わし秦州を復し金守将蕭済が降った。金人は信陽軍を犯し、呉璘は将曹㳜を遣わし洮州を復した。劉錡は揚州を発ち金人背盟の敕榜で中原軍民を招諭した。蘭州漢軍千戸王宏はその刺史温敦烏乜を殺し来降。呉璘は将潘青を遣わし隴州を復した。この月、金主亮は尚書右丞李通を大都督とし浮梁を淮水に造り自ら100万と号する軍を率いて来攻し、遠近が大いに震えた。
  • 冬十月、詔して親征を将せんとした。魏勝は沂州を攻めるも敗れて海州に還り、金人に囲まれたが、李寳が舟師で東海縣に至り金人は囲みを解いて去り、寳はついに海州に入った。金人は渦口から淮を渡った。呉璘に陜西河東招討使、劉錡に京東河北東路招討使、成閔に京西河北西路招討使を兼ねさせた。金人は蔣州を陥し、李顯忠は統制孔福を遣わし金人と大人洲で戦い破った。金人は再び海州を犯すも魏勝・李寳がこれを撃退。劉錡は淮陰に次し、金人が清河口から淮に入ろうとしたので運河岸に列兵しこれを扼した。宣撫制置司に契丹・西夏・髙麗・渤海諸国及び河北・河東・陜西・京東・河南諸路に檄を伝え出師して共に金人を討つよう諭す命。この日金人はその東京留守葛王褒を皇帝に立て大定と改元した。王権は金兵の大挙来襲を聞き廬州から引兵し昭闗に退屯。知筠州武鉅は北界の杜海ら2万人の来帰を招納した。機速房を再置。知廬州龔濤は金兵の将来を聞き城を棄てて逃走。金将蕭琦は滁州を陥し守臣陸廉は城を棄てて逃走。建王瑋を鎮南軍節度使に改めた。劉錡は統制王剛らを遣わし金人を清河口で撃破するも金人は再び来戦し剛は失利、呉拱は将侯俊・郝敦書を遣わし唐州を復した。江浙荆湖等路の坊塲浄利錢380万緡を借りて賞軍に備えた。金人は廬州を囲むが都監権州事楊椿は兵を率い突陣して水砦を守った。金人は再び海州を攻めるも李寳が力戦して破りこれを解囲。金人は樊城を攻め、呉拱は将翟貴・王進を遣わし戦ったが貴・進とも戦死、金兵もまた退いた。劉錡は兵を遣わし淮を渡って金人と戦い死者は十に七・八。金主亮は大軍とともに廬州の北5里に至り土城を築いて居し、戚方は将張寳を遣わし蔣州を復した。金人の渝盟を天地宗廟社稷に告げ、州縣に富民に資を損じて国を助けさせるよう命じた。劉錡は王権が淮陰から遁走したのを聞き揚州に兵を引き還した。金主亮が廬州に入り、王権は昭闗から遁走、金人は追って尉子橋に至り破敵軍統制姚興が戦死、権は和州に退保。金州都統制王彦は統制任天錫を遣わし洵陽から出て豐陽縣を復した。帝は王権敗を聞き楊存中と宰執を内殿に召して議し、陳康伯が帝の親征の議を賛けた。武鉅は将荀琛を遣わし鄧州を復した。任天錫は商洛縣を復し、呉璘に漢中への出兵を促した。葉義問が江淮軍馬を督視し中書舎人虞允文が参謀軍事となった。金人は真州を犯し、歩軍司統制邵宏淵は胥浦橋で迎え戦うが敗れ真州は陥ちたものの金人は入城せず揚州を犯した。任天錫は商州を復しその守完顔守能を執えた。趙撙は兵を率いて淮を渡り、楊存中を御營宿衞使とし、趙撙は襃信縣を復した。王権は和州から遁れ東采石に屯した。湯思退を観文殿大學士・醴泉觀使兼侍讀に復し、行在官吏の3分の1を分けて扈従させ、残りは常事を留遣した。金人は和州を陥した。将士の征討の労を以て避殿減膳。劉錡は瓜州鎮に退軍し、金人は揚州を陥し淮東安撫使劉澤は城を棄て泰州に奔った。戸部侍郎劉岑を御營随軍都転運使、李顯忠を御營先鋒都統制とし蕪湖に屯させ、主管歩軍司李捧を前軍都統制とした。趙撙は新蔡縣を復した。諸州の豪民に槍仗弓箭手を招いて行在に赴かせた。金人が揚州に入ると王権は采石から夜に建康へ還ったが、まもなく再び采石へ赴いた。張浚に観文殿大學士・判潭州を復した。呉璘は統制呉挺・向起らを遣わし金人と徳順軍治平砦で戦い破り、趙撙は平興縣を復した。金人が瓜州に趨くと、劉錡は統領員琦を遣わして皁角林で拒みこれを大破し統軍髙景山を斬った。李寳は金の舟師と膠西縣陳家島で遇い大破し完顔鄭家奴ら5人を斬った。劉錡は鎮江府に還り、趙撙は蔡州を復しその総管揚寓を斬った。御營宿衞を5軍に分けた。金人は秦州を攻めるも向起・呉挺がこれを撃退。葉義問は鎮江に至り、江浙福建諸州の彊丁を興して江上諸軍に赴かせる詔。武鉅は虢州盧氏縣を復し任天錫は朱陽縣を復した。殿中侍御史杜莘老は内侍張去為を弾劾したが帝は悦ばず、去為は致仕、莘老は知遂寧府に出された。邵宏淵は統領崔臯を遣わし定山で金人と戦い破り、任天錫は虢州を復しその守将蕭信は逃走。通州の守将蕭邦弼は城を棄てて去った。成閔は応城県から兵を発し淮西を援け、権吏部侍郎汪応辰は浙東に赴き海道措置を行わせた。張浚を判建康府とし王権を行在に召還、李顯忠に代わって将とし邵宏淵は池州都統制とした。金人は瓜州を犯し鎮江中軍統制劉汜は戦敗して走り、権都統制李横も遁走、金人の鉄騎が江上に奄至し統制魏俊・王方が死し、葉義問は惶怖して退走しようとするも建康に趣いた。金人の遊騎が無為軍に至り守臣韓髦は城を棄てて逃走。淮寧府民陳亨祖は同知完顔耶魯を執えその城を挙げて帰順、趙撙が引兵して去った蔡州は再び陥ちた。池州統制官崔定らは再び無為軍に入った。金主亮は江に臨んで壇を築き馬を刑して天を祭り翌日南渡を期した。虞允文は建康諸軍統制官張振・王琪・時俊・戴臯らを督し舟師で金主亮を東采石で拒み戦勝、崔定は巣縣を復し任天錫は上津・商洛の2縣を復した。虞允文は水軍統制盛新を遣わし舟師で金人を楊林河口で撃ちまた敗った。金主亮はその舟を焼いて去った。王彦は将楊堅を遣わし欒川縣を復した。湯思退を行宮留守とし、虚恨蛮が嘉州籠蓬堡を犯し官軍は大敗し副将鄭祥らが殺された。金主亮は軍を引いて淮東に趣いた。呉璘は病んで仙人原から興州に還り姚仲を留めて軍事を節制させた。虞允文は采石から李捧の一軍及び戈船を率いて鎮江に赴き敵に備えた。姚興・魏俊・王方に官を贈り、金主亮は揚州に至った。劉汜は死を貸されて英州に編管、江州統制李貴・忠義首領孟俊は順昌府を復し、金州将邢進は華州を復した。戦士に帛を賜い薪炭をその家に給した。任天錫は陜州を復した。劉錡は疾のため罷め、御營宿衞中軍統制劉鋭が権に鎮江都統制となり、成閔は京西から建康へ還り鎮江に赴いた。呉璘は再び仙人原に力疾上った。王権は死を貸されて瓊州に編管、李寳は海を泛って南帰した。金人は再び陜州を攻めるも任天錫が破走させ、㐮陽を犯すも統制官李滕らが拒退させ通化軍を復した。王彦は将楊堅・党清を遣わし西京長水縣で金人と戦い破り、長水縣を復した。成閔を鎮江都統制・淮東制置使・京東西路河北東路淮北泗宿州招討使、李顯忠を淮西制置使・京畿河北西路淮北壽亳州招討使、呉拱を湖北京西制置使・京西北路招討使とした。武鉅は郷兵総轄杜隠らを遣わし嵩州を復した。金人は泰州を陥し、この日金人はその主亮を揚州の亀山寺で弑した。金の都督府は人を遣わし檄を持って鎮江の軍中に和議を議した。
  • 十二月、趙撙は夜に蔡州を襲い再びその城に入り、王彦は兵を遣わし福昌縣を復した。楊存中及び虞允文は江を渡って瓜州に至り金兵を察し、金人が漢南の茨湖を犯すも鄂州軍士史俊がその舟に登り一将を獲て諸軍が続いて進み撃退した。楊椿は夜に金人を攻め帥髙定山を殺し廬州を復した。李寳を靖海軍節度使・浙西通泰海州沿海制置使・京東東路招討使とした。金統軍劉蕚は茨湖の敗を聞きまた師を退いた。王彦は将閻玘を遣わし澠池縣を復した。天に白気があった。趙密を行宮在城都総管とし、成閔は江を渡って揚州に赴いた。諸路招討司に兵を率いて進討させ互いに応援させる命。沿江の諸大帥に恢復事宜を条陳させ、岳州の旧名を復した。右軍統領沙世堅は泰州に入り、虞允文は鎮江から入見した。均州統領昝朝は鄧州を復し、張浚は慈湖に至り李顯忠に引兵渡江を命じた。淮東統制王選は楚州を復し、杜隠らは河南府に入り、呉拱は統領牛宏を遣わし汝州に入らせた。帝は臨安を発ち建王が従行、金人は淮を渡り北へ去り、次いで平江に至り督視府を罷めた。虞允文は還って鎮江に至った。淮東統制劉鋭・陳敏は兵を率いて泗州に入り、鄂州統制楊欽は舟師で金人を洪澤鎮で追撃して破った。江北の金兵は尽く去り、李顯忠は再び和州に入り、呉璘は将を遣わし水洛城を復した。金人は再び汝州を破り牛宏は敗走。鎮江府に次し、呉璘は将を遣わし金人の治平砦を抜いた。曲赦した新復州軍で甲子に淮南京西湖北の雑犯死罪以下の囚を降し、采石の功を賞し統制張振・時俊らの官を進めた。金の潁壽二州の巡検髙顕は寿春府を挙げて降った。諸道に鄉兵を籍させる命を初めて出した(初め王友直・王任は兵を聚め、友直に天雄軍節度使、任に天平軍節度使を命じていたが、金主褒はすでに立って衆を散らせる令を出したので、友直らは壽春から帰順した)。この月、金主は完顔亮がすでに死んだと知り燕京に趣いた。

紹興三十二年(1162年)

  • 春正月、日食。帝は鎮江にあり、金人は寿春府を犯し忠義将劉泰が戦死したが金兵は引き去った。鎮江府を発し建康府に至った。張浚が入見。翼祖の主を夾室に祧した。李顯忠は兵を率いて建康へ還り、郡守の年70の者を罷める令。金人は再び蔡州を犯し趙撙が力戦して撃退した。権知東平府耿京はその将賈瑞・掌書記辛棄疾を遣わし奏事に来させた。金主はその臣髙忠建らを遣わし嗣位を告げ、耿京を天平軍節度使・知東平府とした。新復州縣に仗節死義の士を捜訪させる詔。楊存中を江淮荆㐮路宣撫使とし虞允文を副とした(給事金安節・中書舎人劉珙が繰り返し奏を上げて反対したため両淮の措置に改めて命じた)。
  • 二月、両浙江淮の坊場浄利銭の借用を罷めた。虞允文を兵部尚書・川陜宣諭使とし招軍市馬及び呉璘との議事を措置させた。興州統領惠逄らは河州を復し両淮の饑民を振わせた。金人は汝州を犯し守将王宣が逆戦して破った。帝は建康を発ち、惠逄は積石軍を復し来羗城を克した。劉錡が薨じた。王宣は金人と汝州で再戦、金人は全師で攻め宣は敗績して棄却したが、まもなく金もまた去った。金人は再び順昌府を犯すも孟新が拒退、まもなく金も去った。蔡州の功を賞し趙撙らの官を進めた。臨安府に至った。興元都統制姚仲は鞏州を攻めるも下せず甘谷城に退保し、兵を引いて徳順軍を囲んだ。金人が蔡州を犯すと趙撙が撃退し、再び攻めるも撙がまた破った。金兵は遁走。王彦は将馬貴を遣わし河中の南橋を断ち、金兵が来攻するも貴がこれを敗った。戦死した軍士の家には1年、営中で傷重く死んだ者には半年その禄を与える詔。王宣及び右軍副将汲靖は蔡州確山縣で金人を破り、趙撙は蔡州を棄てたが金人がこれを取り戻した。姚仲は副将趙銓を遣わし鎮戎軍を攻め下し、金の同知渭州秦弼とその子嵩が来帰。王彦は兵を遣わし陜州を救い虢州の東で金人と遇い破って金兵を退けた。呉珙は将を遣わし永安・永寧・福昌・長水の3縣を復した。閏月、金人は河州を破りその城を屠った。楊存中・李顯忠に新復州軍を固守させ進討を量度させる命。姚仲は将を遣わし原州を復し、欽宗の主を太廟に祔した。淮南の帰正人を振わせた。金人は虢州を犯し、呉璘は楊従儀らを遣わし大散闗を攻拔、分兵して和尚原に拠り金人は寳雞に走った。張浚に銭19萬緡を給し沿江諸軍の戦艦を造らせた。王剛は金人を海州で破り、楊椿が罷めた。姚仲は順徳軍を攻め金人を瓦亭砦・新店で破った。この月、張安国らは耿京を攻殺し、李寳の将王世隆が安国を破り執えて献じた。
  • 三月、金使の入境接伴館伴の旧儀を更定した。成閔は統制杜彦を遣わし淮寧を救い金人を項城縣で撃破した。扈従官吏の賞典を罷めた。商・虢の功を録し呉璘に少傅、王彦に保平軍節度使を加えた。呉璘は徳順軍を復し、また将嚴忠を遣わし環州を取った。兵部侍郎陳俊卿・工部侍郎許尹に両淮堡砦屯田を経画させた。金人は淮寧府を囲み守臣陳亨祖がこれに死んだ。呉璘は徳順軍から河池に還り、金人は鎮戎軍を犯した。洪邁らを遣わして金主の即位を賀した。忠義軍統制知蘭州王宏は会州を拔き、金人は淮寧府を陥し統領戴規は戦死。成閔は淮東より帰り、金人は原州を攻め、賢良を挙げよと詔した。
  • 夏四月、姚仲は兵を遣わし原州を救った。侍従台諫に防秋の足食足民策を条上させる命を出し、左武大夫都飛虎を遣わし河東と結約させた。御營宿衞の将士4萬餘人の労を賞し官を進めた。淮東の残破州軍の上供銀絹米麦及び経総制銭を1年蠲した。䝉縣の民倪震は丁口数千を率いて帰順した。淮東の荒田を民に耕させ徭役及び租税を7年蠲した。御史中丞汪澈を參知政事とした。金人は海州を囲み、洪邁らは行の報聘の書を辞し敵国の礼を用いた。この月、大雨で淮水が数百里に暴溢し廬舎・人畜が漂没し死者が甚だ多かった。
  • 五月、呉璘は河池から鳳翔に赴き巡邊した。姚仲は兵を遣わし原州を救い数度金人を破った。提挙秦州買馬監を復置し四川総領官に権職を兼ねさせた。姚仲は原州の北嶺で金人と戦い敗績。楊存中を再び醴泉觀使・奉朝請とし御營宿衞司を罷めた。鎮江都統制張子蓋は海州を救い金人と石湫堰で遇い大破し金人は去った。張浚に両淮事務の専一措置を命じ淮東西沿江州郡の軍馬を節制させた。知順昌軍孟昭は部曲を率いて帰順した。呉璘は将を遣わし熙州を復した。諸軍が互いに逃亡を招くことを禁じ、鄭藻に太尉を加えた。東北の流民を振わせた。張浚に御前萬弩営を置かせ淮民を募った。建王瑋を皇太子に立て名を眘と改める詔。成閔に太尉を加え殿前司を主管させ、李顯忠に太尉を加え軍馬司を主管させた。諸州の帰正人で農になりたい者には官田を給し租を10年復し、兵になりたい者は軍中に赴かせた。
  • 六月、呉璘は大幽嶺に次し姚仲を軍前に召し河池の獄に下し、䕫路安撫使李師顔にその兵を代将させた。新宮を徳壽と名づけた。呉珙を主管歩軍司とし三招討司を罷めた。兄の子偁に太師・中書令を追贈し秀王に追封し、諡は安僖、妻の張氏を王夫人に封じた。朱倬が罷めた。皇太子を即皇帝位とし、帝は太上皇帝と称して徳壽宮に退処、皇后は太上皇后と称する詔。孝宗が即位し、累ねて尊号を上げて光堯壽聖憲天體道性仁誠徳経武緯文紹業興統明謨盛烈太上皇帝とした。太上皇帝は淳熙14年(1187年)10月乙亥に徳壽殿で崩じ、年81。聖神武文憲孝皇帝と諡し廟号は髙宗。16年3月丙寅、会稽の永思陵に攢する。光宗紹熙2年(1191年)、受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝と加謚。

史論

贊にいう。昔、夏后氏は5世を伝えて后羿が簒い、少康が復立して夏の祀を継いだ。周は9世を伝えて厲王が彘に死し、宣王が復立して周を継いだ。漢は11世を伝えて新莽が位を竊み、光武が復立して漢を興した。晋は4世で懐帝・愍帝の禍いがあり、元帝が建鄴で正位した。唐は6世を伝え安史の難があり、粛宗が霊武で即位した。宋は9世を伝え徽宗・欽宗が金に陥ち、髙宗は南京(応天府)で図を纉いだ。この6君は史がみな中興と称するが異同がある。夏の羿・浞、周の共和、漢の新室・更始、晋・唐・宋は歳月が相続いたものであり、蕭王(光武)・琅琊(元帝)はみな疎属から出たが、少康・宣王・粛宗・髙宗は父子が相承した。旧物を克復するという点では晋の元帝と宋の髙宗はこの4君より劣る責めを負う。髙宗は恭儉仁厚をもって継体守文するには余りあったが、乱を撥めて正に反すには才が足りなかった。ましてや時は危うく勢いは逼り兵は弱く財は匱しく、事の処しがたさは数君より甚だしかった。君子はこれに憫みの心を抱きつつも、その遭う不幸を重ねて傷んだ。しかしその初立の時、四方勤王の師があり内は李綱、外は宗澤に任せ天下の事はなし得ないものはなかったはずが、播遷し窮僻に至り、さらに苗劉群盗の乱があり、権宜して国を立てるのは困難であった。その始めは汪黄に惑い、その終わりは姦臣秦檜に制せられ、恬堕猥懦にして事機を失い、甚だしくは趙鼎・張浚が相継いで竄斥され、岳飛父子は大功垂成の秋についに死し、当時の志ある士はこれに扼腕切歯した。帝は偸安忍耻して怨みを匿し親を忘れ、ついに後世の誹りを免れなかった。悲しいかな。

宋史卷三十二