元豊三年(1080年)
- 春正月乙丑朔、大行太皇太后がまだ殯にあることにより視朝せず。癸酉、許州を潁昌府に昇格。丙子、潁昌の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。戊寅、太皇太后に諡「慈聖光献」を上げた。戊子、審刑院・刑部の断議官で失入した者は毎年数を具して罰する詔。己丑、高麗国が使を遣わし朝貢。白虹が日を貫いた。辛卯、于闐国の大首領阿令顚顙温らが朝貢。癸巳、白虹が日を貫いた。
- 2月丙午、翰林学士章惇を参知政事とした。丙辰、初めて崇政殿に御して視朝。丁巳、輔臣に雨を祈らせた。
- 3月乙丑、工部侍郎同平章事呉充は罷め観文殿大学士・西太一宮使へ。癸酉、慈聖光献皇后を永昭陵に葬った。丙子、南丹州が入貢し刺史印を賜った。乙酉、慈聖光献皇后の神主を太廟に祔した。戊子、両京・河陽の囚罪を1等降し、山陵の役に緣る民の賦を蠲免。己丑、慈聖光献皇后の弟昭徳軍節度使曹佾を司徒兼中書令とし護国軍節度使に改め、他の親属もそれぞれ加恩。
- 夏4月乙未、観文殿大学士呉充が薨じた。丁酉、宗暉を濮陽郡王に封じ、濮安懿王の子孫はみな官を1等進めた。己亥、遼が耶律永芳らを遣わし同天節を賀した。乙巳、瀘州夷乞弟の侵擾により辺将に討たせる詔。戊申、乞弟が戎州を寇し兵官王宣らが戦没。甲寅、群牧行司を罷め提挙買馬監牧司を復置。乙卯、御史に諸路監司を分案させた。庚申、御史台六察は糾劾の多寡で殿最を定め任満で取旨し昇黜する詔。辛酉、国子監の歳賜銭を6000緡増した。
- 5月乙丑、今後三伏の間は5日に1度前殿に御する詔。辛巳、潁昌の進士劉堂が「上制盗十策」を上呈し徐州蕭県の尉を授かった。甲申、韓存宝に再び瀘夷を経制させ、都大提挙導洛通汴司を都提挙汴河堤岸司と改める詔。この月、青州臨朐・益都で石が麺に化した(怪異)。
- 6月甲午、日に五色雲が現れた。戊戌、宗室教授を省き13員を残す詔。丙午、中書に官制を詳定させ、兵部の勾当公事官を罷め、河北・河東・陝西路にそれぞれ文武官1員を選び義勇保甲を提挙させる詔。壬子、中書門下省の主判官を罷め事を中書に帰す詔。この月、安州臨江軍で芝草と連理麦が生じた。
- 秋7月庚午、河が澶州で決壊。甲戌、今後大礼にあたっては上尊号を罷める詔。癸未、彗星が太微垣に出た。丙戌、避殿・減膳し直言を求める詔。丁亥、群神の明堂従祀を罷めた。戊子、太白が昼に見えた。
- 8月乙巳、空名を領する省寺監官を罷めた。癸丑、王存らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。戊午、彗星が見えなくなった。
- 9月壬戌、宣祖の定州東安の墳地を20頃増し守園戸を置いた。丙寅、御殿し膳を復した。乙亥、官名を正し、開府儀同三司をもって中書令に易え、侍中・同平章事は特進に易え、これより下承務郎に至るまで秘書省校書郎・正字・将作監主簿をそれぞれ易えた(元豊官制改革)。検校僕射以下および階散憲銜はみな罷めた(詳しくは職官志にある)。辛巳、明堂で大饗し英宗を配し天下に大赦。癸未、薛向・孫固をともに枢密副使とした。乙酉、景霊宮に11殿を作り時ごとに王礼で祖宗を祀る詔。王安石を特進とし荊国公に改封。丙戌、岐王顥を雍王に、嘉王頵を曹王に進封しともに司空とした。文彦博を太尉、曹佾を済陽郡王、宗旦を華陰郡王、馮京を枢密使とし、薛向は罷め潁州知事へ。丁亥、呂公著を枢密副使とした。
- 閏9月乙卯、文彦博に河東・永興軍節度使を加え、富弼を司徒とした。11月己丑朔、日食にあたったが雲陰で見えず。12月甲辰、遼が蕭偉らを遣わし正旦を賀した。
元豊四年(1081年)
- 春正月乙未、歩軍都虞候林広に韓存宝に代わり瀘夷を経制させた。庚子、進士を試すのに律義を加える詔。辛亥、于闐が朝貢。馮京は罷め河陽知事へ。孫固が枢密院を知り、龍図閣直学士韓縝が同知枢密院事。
- 2月辛未、秦州鋳銭監を置いた。己卯、東南団結の諸軍を13将に分けた。3月乙未、在京官は執政の服親を挙辟しない詔。癸卯、章惇は罷め蔡州知事へ。甲辰、翰林学士張璪を参知政事とした。乙巳、官に命じ京城の南で九軍の営陣法を閲した。戊申、大閲。丙辰、董氊が使を遣わし朝貢。
- 夏4月癸亥、遼が耶律祐らを遣わし同天節を賀した。延和殿に御して保甲を閲試。己巳、南郊の合祭天地を罷め、今後は親祀・北郊は南郊の儀に倣い、故障あれば上公が摂事する詔。壬申、囚を慮った。山陰県主簿余行之が謀反したため伏誅。乙酉、河が澶州小呉埽で決壊。
- 5月丁酉、河東路提点刑獄劉定に被水民の振恤を専らにさせる詔。戊申、晋の程嬰を成信侯、公孫杵臼を忠智侯に封じ絳州に廟を立てた。6月戊午、河北諸郡で蝗が生じた。癸未、開封府界諸県公事を提点する楊景略に開封府界常平等事を提挙させ、王得臣に諸県の捕蝗を督させた。
- 秋7月己丑、太白が昼に見えた。庚寅、西辺の守臣が夏人がその主秉常を囚えたと言上、陝西・河東路に討たせる詔。甲午、鄜延・涇原・環慶・熙河・麟府路にそれぞれ金銀帯・綿襖・銀器・鞍轡・象笏を賜った。甲辰、韓存宝は逗留無功の罪により伏誅。丁未、大軍が米脂砦を進攻。己酉、曾鞏に史館修撰として史事を専典させる詔。内外官司の挙官はすべて罷め、大理卿崔台符に尚書吏部・審官東西・三班院と選格を議させる詔。
- 8月乙卯朔、中書堂選を罷めすべて有司に帰す。丙辰、河北東路の災傷州軍の今年夏料役銭を蠲免する詔。辛酉、夏人が臨州堡を寇し董氊に会兵して討たせる詔。金州刺史燕達を武康軍節度使とした。己巳、滑州を復置。丁丑、熙河経制李憲が夏人を西市新城で破り酋首3人・首領20余人を獲た。庚辰、また女遮谷で襲破し斬獲甚だ衆かった。辛巳、司馬光・趙彦若が編修した「百官公卿年表」10巻、「宗室世表」3巻を上呈。
- 9月乙酉、董氊が使を遣わし朝貢し、首領洛施軍篤喬阿公らに兵3万を将いて夏国を会撃させたと言上。李憲が蘭州古城を復した。戊子、蘭州の新順首領巴令謁ら3族がその部の兵を率い夏人を撒捕宗城で攻めこれを破った。己亥、王珪が「国朝会要」を上呈。壬寅、河北の保甲を崇政殿で閲し優れた者36人に官を授けた。甲辰、郊廟奉祀の礼儀を詳定。丙午、夏主の左右および嵬名部族諸郡の首領に自帰を許す詔。戊申、太白が斗を犯した。庚戌、夏兵が米脂砦を救援したが鄜延経略副使种諤がこれを撃破した。辛亥、种諤はまた無定川で夏人を破った。
- 冬10月丁巳、米脂砦が降った。己未、払菻国が朝貢。庚申、熙河の兵が女遮谷に至り夏人と遇い戦ってこれを破った。乙丑、涇原の兵が磨哆隘に至り夏人とその統軍梁大玉と戦ってこれを破り、20里追奔し大首領没囉臥沙・監軍使梁格鬼ら15級を斬り、首領統軍の姪訖多埋ら22人を獲た。己巳、銀州に入った。庚午、環慶行営経略使高遵裕が通遠軍を復し、种諤は曲珍らを遣わし黒水安定堡路を通す途中夏人と遇い戦ってこれを破り斬獲甚だ衆かった。癸酉、韋州を復した。乙亥、李憲が屈吳山で夏人を破った。丁丑、曲珍が蒲桃山で夏人と戦いこれを破った。戊寅、种諤が入貢州に入り、諸将に降人を存撫させる詔。辛巳、史館修撰曾鞏が名臣・高士の事迹・遺文の収採を願い出て許された。涇原節制王中正が宥州に入った。
- 11月癸未朔、日食があった。丁亥、諸軍が合して霊州を攻め、种諤が黒水で夏人を破った。己丑、李憲が囉逋川で夏人を破った。辛卯、种諤が横河の平人戸を降し石堡城を破り斬獲甚だ衆かった。辛丑、師を還した。癸卯、种諤が夏州索家平に至ったが兵衆3万人が食糧が尽きて潰えた。丙午、高遵裕が師を還すと夏人がこれを追い遂に潰えた。
- 12月辛未、林広が乞弟を納江で破った。乙亥、慈聖光献皇后の禫祭にあたり宰臣王珪らが上表し聴楽を請うたが許されず、これより5度上表してようやく従われた。戊寅、遼が蕭福全らを遣わし正旦を賀した。
元豊五年(1082年)
- 春正月癸未朔、朝を受けず。丙申、宣徳門に御して観灯。己亥、白虹が日を貫いた。庚子、高遵裕を郢州団練副使に責め本州安置とした。
- 乙巳、新しい渾儀浮漏を作った。辛亥、西討をまた議し熙河経制李憲を涇原熙河蘭会安撫制置使、李浩を権安撫副使とする詔。2月癸丑朔、三省・枢密・六曹の条制を頒布。鄜延の病んで帰れない軍士にその家に絹10匹を賜う詔。丙辰、乞弟平定により班師。辛酉、董氊の首領結隣の死者の朝辞物をその子董訥支・藺氊に給し、絹100匹を増賜する詔。癸亥、華陰郡王宗旦が薨じた。丁卯、武昌軍節度観察留後宗恵を江夏郡王に封じた。癸酉、出師により梓州路を赦し囚罪を1等減じ、軍事役に緣る民の賦を蠲免。董氊を武威郡王に封じた。丙子、渤泥が朝貢。
- 3月壬辰、進士を親策。甲午、武挙を策した。己亥、日食にあたり避殿・減膳し天下に大赦、死罪を1等降し流以下は原した。杭州に毎年呉越王の墳廟を修めさせる詔。壬寅、鄜延路副総管曲珍が金湯で夏人を破った。乙巳、進士・諸科出身1428人に賜物。丙午、土が雨のように降った。
- 夏4月壬子朔、日食があったが見えなかった。甲寅、御殿し膳を復した。丁巳、遼が耶律永端らを遣わし同天節を賀した。己未、沈括が曲珍を遣わし兵を綏徳城に将いて葭蘆塞を討ち左右の羌落を聚めさせることを奏し許された。乙丑、直龍図閣徐禧に知制誥・権御史中丞を兼ねさせた。癸酉、官制が成り、王珪を尚書左僕射兼門下侍郎、蔡確を尚書右僕射兼中書侍郎とした。甲戌、太中大夫章惇を門下侍郎、張璪を中書侍郎、翰林学士蒲宗孟を尚書左丞、翰林学士王安礼を尚書右丞とした。唐の段秀実の後を録しその家を復した。丁丑、同知枢密院呂公著は罷め定州知事へ。
- 5月辛巳朔、官制を行った。丁亥、平蛮の将士にそれぞれ賞。癸巳、豊州卒張世矩らが作乱したため伏誅、その党王安は母が老いていることにより特に原された。尚書省を作った。戊戌、両省の官人に御史たり得る者をそれぞれ2人挙げさせる詔。甲辰、給事中徐禧を遣わし鄜延の辺事を治めさせた。
- 6月辛亥朔、環慶経略司が将を遣わし夏人と戦いこれを破り、その統軍嵬名姝精・副統軍訛勃遇を斬った。甲寅、王珪が「両朝史」を上呈。戊午、両朝の宝訓を修める詔。成都路の供給を瀘州の辺事とし曲赦して二税を免じる詔。甲子、翰林医官院を医官局と改めた。壬申、交阯が馴犀2頭を献じた。癸酉、予章郡王宗諤が薨じた。戊寅、曲珍らが明堂川で夏人を破り天源河を作った。
- 秋7月辛巳、広西経略司が宜州知事王竒が賊と戦い敗績したと言上。壬午、大理寺官を罷め中書省に赴き案を讞せしめる詔。戊子、御史中丞舒亶に言事任に堪える者あるいは察官10人を挙げさせる詔。辛卯、尚書考功員外郎蔡京に手詔を編ませる詔。庚子、蔡京を起居郎とし官制の詳定を兼ねさせた。丁未、垂拱殿で修史官に宴した。己酉、初めて雩壇を建て上帝を祀り太宗を配した。
- 8月庚戌朔、御侍武氏を才人に封じた。壬子、均国公傭を延安郡王に進封し、昭容朱氏を賢妃とした。庚申、帝に疾があり毎年孟月に景霊宮に朝献する詔。辛未、韓忠彦らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。鳳州団練使种諤は行軍が迂道であったため文州刺史に降授。壬申、幕職州県官の俸の増減を罷める詔。甲戌、永楽城を築いた。戊寅、河が原武で決壊。
- 9月丁亥、夏人30万衆が永楽を寇し曲珍が戦いに利あらず、裨将寇偉らが死んだ。夏人はついに城を囲んだ。己丑、帝は疾が愈えたことにより京畿の囚罪を1等減じ徒以下は釈放。壬辰、使を遣わし畿県で水害を被った民を視察させた。乙未、張世矩らに兵を将いて永楽砦を救援させる詔。戊戌、永楽が陥ち、給事中徐禧・内侍李舜挙・陝西転運判官李稷が死んだ。己亥、客省・引進・四方館・東西上閤門にそれぞれ使副等の職を置く詔。庚子、安化蛮が宜州を寇し知州王竒が死んだため忠州防禦使を贈った。辛丑、董氊の将士にそれぞれ賞。癸卯、滑州で河水が溢れた。
- 冬10月辛亥、洛口・広武で大河が溢れた。甲寅、延州知事沈括は措置が乖方であったため均州団練副使・隨州安置に責授。鄜延路副都総管曲珍は城陥落による敗走により皇城使に降授。丙辰、景霊宮の儀を修定。乙丑、永楽で死事した臣、徐禧に金紫光禄大夫吏部尚書、李舜挙に昭化軍節度使を贈り「忠愍」と諡した。李稷は朝奉大夫工部侍郎、入内高品張禹勤は皇城使をそれぞれ贈り推恩・賜贈した。癸酉、太原府知事に貶められていた資政殿大学士呂恵卿は単州知事へ。
- 11月戊寅朔、御史が諸路を察するのを罷めた。壬午、景霊宮が成り祖宗の神御を告遷。癸未、初めて酌献礼を行った。乙酉、神御を奉安したことにより天下に大赦、享に与った大臣の子か孫1人に官を賜う詔。庚寅、紫宸殿で侍祠官に宴した。
- 12月丁巳、新楽が成り、賢妃周氏を徳妃とした。辛酉、原武の決河を塞いだ。丙寅、休日に延和殿に御して引進対官10人。辛未、西南龍蕃が朝貢。壬申、遼が耶律儀らを遣わし正旦を賀した。丙子、永楽で死事した将、皇城使寇偉ら13人および東上閤門副使景思誼ら90人を録しそれぞれ贈賜した。
元豊六年(1083年)
- 春正月丁丑朔、大慶殿に御して朝を受け初めて新楽を用いた。儀鸞司が幕屋を徹する際玉輅を壊した。甲申、白虹が日を貫いた。丁亥、景霊宮に朝献。己丑、層檀が入貢。庚寅、宣徳門に御して観灯。癸巳、御史六察の上下半年更易法を罷める詔。乙未、周・漢以来の陵廟を修める詔。乙巳、崇政殿に御して武士を閲した。丙午、楚の三閭大夫屈平を忠潔侯に封じた。
- 2月丁未、夏人数十万衆が蘭州を攻めたが鈐轄王文郁が死士700余人を率いこれを撃退。丙辰、夏人の蘭州侵犯により熙河経略使李憲を経略安撫都総管に貶め、王文郁を西上閤門使・知蘭州、副使李浩を四方館使とした。甲子、供備庫使高遵治・西京左藏庫副使張寿をそれぞれ1官降す詔。
- 3月辛卯、夏人が蘭州を寇したが副総管李浩は衛城の功により隴州団練使に復した。乙未、休日に延和殿に御して引進対官8人。丙申、河東将薛義が葭蘆西嶺で夏人を破った。戊戌、検校太尉上柱国太原郡開国公王拱辰を武安軍節度使とした。麟府州の将郭忠詔らが乜離抑部で夏人を破ったことにより賞を行う詔。己亥、河東将高永翼が真卿流部で夏人を破った。
- 夏4月己酉、景霊宮に朝献。辛亥、遼が蕭固らを遣わし同天節を賀した。甲子、礼部郎中林希が「両朝宝訓」を上呈。李浩が巴義谿で夏人を破った。辛未、土が雨のように降った。壬申、邇英閣に御し蔡卞が周礼を進講。
- 5月丙子朔、于闐が入貢。甲申、暑いことにより開封・大理の獄を速決させた。庚寅、旱により囚を慮った。甲午、夏人が蘭州を寇し右侍禁韋定が死んだ。癸卯、資州の孝子支漸に粟帛を賜う詔。この月、夏人が麟州を寇したが知州訾虎がこれを破った。
- 6月乙巳朔、御史台六察にそれぞれ御史1員を置く詔。癸丑、御史中丞・両省官にそれぞれ言事任・監察御史に堪える者5人を挙げさせる詔。閏6月乙亥朔、夏主秉常が修貢を請い許された。戊寅、陝西・河東は輙に出兵させない詔。丙戌、内外の文武にそれぞれ武挙に応ずる者1人を挙げさせる詔。汴水が溢れた。丙申、太師守司徒鄭国公富弼が薨じ「文忠」と諡した。
- 秋7月乙卯、孝恵・孝章・淑徳・章懐皇后を廟に祔した。丙辰、4后を祔廟したことにより京畿の囚罪を1等減じ流以下は原した。孫固は罷め河陽知事へ、同知枢密院韓縝が枢密院を知り、戸部尚書安燾が同知枢密院。戊午、景霊宮に朝献。
- 8月丙子、升祔陪祠官に尚書省で宴を賜った。己卯、太白が昼に見えた。乙酉、蔡京らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。辛卯、蒲宗孟は罷め、王安礼を尚書左丞、吏部尚書李清臣を尚書右丞とした。
- 9月癸卯朔、日食があった。冬10月癸酉朔、秉常が使を遣わし表を上げ修職貢の復と旧疆の返還を請うた。戊子、孟軻を鄒国公に封じた。癸巳、会稽郡王世清が薨じた。庚子、尚書省が成った。辛丑、馬援を忠顕王に封じた。
- 12月癸卯、仁宗に「体天法道極功全徳神文聖武睿哲明孝皇帝」の諡を加え、英宗に「体乾応暦隆功盛徳憲文粛武睿神宣孝皇帝」の諡を加えた。甲辰、景霊宮に朝献。乙巳、太廟に朝饗。丙午、昊天上帝を圜丘に祀り天下に大赦。甲寅、文彦博は太師として致仕。乙卯、観文殿大学士韓絳を建雄軍節度使とした。庚申、尚書省に幸し、執政で五服内にまだ仕えない者1人に官を進め尚書以下の官はそれぞれ1等進めた。
元豊七年(1084年)
- 春正月丙午、洺州防禦使世凖を安定郡王に封じた。癸丑、夏人が蘭州を寇したが李憲らがこれを撃退。甲寅、賢妃朱氏を徳妃とした。2月甲戌、太師文彦博が入覲し垂拱殿に酒を置いた。癸未、濮陽郡王宗暉を嗣濮王に進封、宗晟を高密郡王、宗綽を建安郡王、宗隠を安康郡王、宗瑗を漢東郡王、宗愈を華原郡王に封じた。
- 3月辛丑、文彦博に瓊林苑で宴を賜い帝が詩を製して賜った。庚申、崇政殿に御して大閲。壬戌、鬼章に写経紙を賜いその献じた馬を還す詔。癸亥、白虹が日を貫いた。
- 夏4月辛未、大食国が朝貢。乙亥、遼が蕭浹らを遣わし同天節を賀した。丁丑、饒州の童子朱天錫に五経出身を賜った。丙戌、景霊宮天元殿の門で芝草6本が生じた。壬辰、景霊宮に朝献。癸巳、夏人が延州安塞堡を寇したが将官呂真がこれを破った。
- 5月壬子、囚を慮り死罪を1等減じ杖以下は釈放。辛酉、白虹が日を貫いた。壬戌、孟軻を文宣王の従祀に配し荀況・楊雄・韓愈を伯に封じ従祀した。諸路の帥臣・監司らに将領たるに堪える大使臣を挙げさせる詔。6月丙子、夏人が徳順軍を寇し巡検王友が死んだ。辛卯、江夏郡王宗恵が薨じた。
- 秋7月甲辰、伊洛が溢れ河が元城で決壊。丙午、使を遣わし振恤し溺死者の家に銭を賜った。壬子、景霊宮に朝献。甲寅、王安礼が罷免。8月庚午、王光祖に人を遣わし乞弟を招諭させ出降を許せば罪を免じ官を補す詔。この年、乞弟が死んだ。辛巳、陳睦らを遣わし遼主の生辰・正旦を賀した。
- 9月壬寅、西南龍蕃が朝貢。乙巳、三仏斉が朝貢。乙丑、夏人が定西城を囲んだが熙河将秦貴がこれを破った。冬10月乙亥、夏人が熙河を寇した。庚辰、饒州の童子朱天申が睿思殿で対を受け五経出身を賜った。辛巳、景霊宮に朝献。戊子、交阯との境を分書し6県2峒をこれに賜う詔。乙未、夏人が静辺砦を寇したが涇原将彭孫がこれを破った。
- 11月丁酉朔、清辺砦を寇し隊将白玉・李貴が死んだ。甲辰、夏国主秉常が使を遣わし朝貢。乙卯、太白が昼に見えた。12月戊辰、端明殿学士司馬光が「資治通鑑」を上呈し光を資政殿学士とし詔で奨諭した。庚寅、門下・中書外省官にともに言事御史を挙げさせる詔。辛卯、遼が耶律襄らを遣わし正旦を賀した。この年、河東で飢え、河北で水害があり洺州の廬舎を壊したためその税を蠲免した。
元豊八年(1085年)
- 春正月戊戌、帝が病んだ。甲辰、天下に大赦。乙巳、輔臣に景霊宮で代禱させた。乙卯、群臣を天地宗廟社稷に分遣し祈らせた。2月辛巳、開宝寺貢院で火災。丁亥、礼部に別所で鎖試させた。癸巳、上(神宗)の疾が甚だしくなり福寧殿に遷った。三省・枢密院が入見し皇太子の立と皇太后権同聴政を請い許された。
- 3月甲午朔、延安郡王傭を皇太子に立て煦と名を賜い、皇太后に軍国事を権同処分させた。乙未、天下に大赦、官を遣わし天地宗廟社稷諸陵に告げた。丁酉、皇太后が吏部尚書曾孝寛を冊立皇太子礼儀使に命じた。戊戌、上(神宗)が福寧殿で崩じた。享年38。皇太子が皇帝に即位し、皇太后を尊んで太皇太后とし、皇后を皇太后、徳妃朱氏を皇太妃とし、太皇太后が軍国事を権同処分した。9月己亥、大行皇帝に「英文烈武聖孝皇帝」の諡を上げ、廟号を神宗とした。10月乙酉、永裕陵に葬った。
賛
- 帝(神宗)は天性孝友で、両宮(太皇太后・皇太后)に事える際は必ず終日侍立し、寒暑によっても変わらなかった。かつて岐王・嘉王の二王とともに東宮で読書し、侍講王陶が経史を講論するとその都度これを率いて拝したという。これにより中外はこぞって賢と称えた。
- 即位にあたっては小心謙抑、輔相を敬畏し直言を求め、民の隠を察し孤独を恤み耆老を養い匱乏を振わせ、宮室を治めず遊幸を事とせず、精を厲まし治を図って大いに為すあらんとした。しかし間もなく王安石が入相した。安石の為人は悻悻として自信深く、祖宗の志が幽薊・霊武を呑まんとしながら幾度も兵に敗れたことを知り、帝は奮然として数世の恥を雪ごうとしたが、いまだ当たる所を得ぬまま、偏った見識と曲学をもって起こりこれに乗じた。
- 青苗・保甲・均輸・市易・水利の法が既に立つと、天下は洶洶として騒動し、慟哭・流涕する者が相次いだが、帝は終に覚悟せず、断然として元老を廃逐し諫士を擯斥することを疑わずに行い、遂に祖宗の良法美意をほとんど変壊させるに至った。これより邪佞が日々進み人心は日々離れ、禍乱が日々起こった。惜しいことである。