宋史卷十 本紀第十 仁宗二

明道元年(1032年)

  • 二月癸卯、呂夷簡が三朝宝訓を上呈、丙午、広南に仕える者は両任を過ぎぬよう詔し貪瀆を防いだ。庚戌、張士遜を同中書門下平章事集賢殿大学士とし、戊午、故宰臣孫某(原文欠)の子を録し将作監主簿を試させた。甲子、員外郎以上の致仕者はその子を校書郎に、三丞以上は斎郎に録すことを詔した。丁卯、眞宗順容李氏を宸妃としたが、この日妃は薨じた。
  • 三月戊子、天聖編勅を頒し、戊戌、江淮の旱により使を遣わし長吏とともに繋囚を録し流罪以下を一等減じ杖笞は釈放、己亥、婺・秀州の丁身銭を除いた。夏四月丙午、繋囚を録し、戊午、知棣州王渉が官地を冒請し職田とした罪で広南牢城に配された。五月癸酉、使を遣わし河北の城池・器甲を点検し、官吏の能否を密訪させた。壬午、杭・秀二州の塩場を廃した。秋七月丙申、諸路転運使に国子監講官を挙げさせることを詔し、丁酉、王曙が罷め、太白が昼見し彌月にして滅した。
  • 八月辛丑、晏殊を樞密副使とし、丙午、晏殊が参知政事、甲寅、楊崇勲を樞密副使とし、辛酉、唃厮囉に寧遠大将軍愛州団練使を授けた。壬戌、大内が火災し八殿に延焼、癸亥、延福宮に移御、甲子、呂夷簡を修内使とした。乙丑、羣臣に闕失を直言させ、丁卯、天下大赦。九月庚寅、受命宝を重ねて作り、丙申、皇太后が金銀器を出して左藏の緡銭二十万に易え修内を助けた。冬十月庚子、黄白気が紫微垣を貫き、丁巳、漢陽軍に廩粟を発して饑民を振済することを詔した。十一月甲戌、修内成るをもって大安殿で天地に恭謝し太廟に謁し天下大赦・改元・百官進秩・諸軍優賞、この日宮に還った。己卯、冬至に百官を率いて文徳殿で皇太后に賀し大安殿に御して朝を受けた。壬辰、延州が夏王趙徳明の卒を言上、癸巳、徳明の子元昊を定難軍節度使西平王とした。十二月壬寅、楊崇勲を樞密使とし、戊午、刦盜を獲えた者は奏裁を経て擅殺せぬことを詔した。壬戌、西北に蒼白気が天を亘った。この歳、京東・淮南・江東で饑饉があった。

明道二年(1033年)

  • 正月己卯、発運使以上の供米百万斛を発して江淮の饑民を振済し使を遣わし督視させた。二月戊戌、含誉星が東北方に現れ、庚子、江淮の民で饑死した者は官がこれを葬祭することを詔した。乙巳、皇太后が衮衣・儀天冠を服し太廟に饗し皇太妃が亜献、皇后が終献、この日、皇太后に「応元斉聖顕功崇徳慈仁保寿皇太后」の尊号を上げた。丁未、先農を東郊に祀り耤田を躬耕、天下大赦、百官が「睿聖文武体天法道仁明孝徳皇帝」の尊号を上げた。三月庚午、百官に加恩し、丁亥、会霊観・上清宮・景徳開宝寺で雨を祈った。庚寅、皇太后の不予により天下大赦、乾興以来の貶死者を復官、謫者は内徙とした。甲午、皇太后(劉太后)が崩じ、遺詔で皇太妃を皇太后とし、呂夷簡を山陵使とした。
  • 夏四月丙申朔、大行皇太后の遺留物を出して近臣に賜い、壬寅、宸妃李氏を追尊し皇太后としたが、この時に至って帝は初めて自らが宸妃の生んだ子であったことを知った。甲辰、大行皇太后の五使をすべて追尊皇太后園陵使に兼ねさせ、戊申、崇政殿西廂で聴政、己酉、乾元節の上寿を罷め、壬子、臣僚・宗戚・命婦に進献による恩沢祈願・親戚を通じた表章の通交を禁じ、創修の寺観を罷めた。帝は初めて親政し僥倖を裁抑したので中外は大いに悦んだ。癸丑、宋綬・范仲淹を召還し、丙辰、内侍江徳明らがともに交通請謁の罪で黜けられ、己未、呂夷簡・張耆・夏竦・陳堯佐・范雍・趙稹・晏殊がすべて罷め、張士遜を昭文館大学士、李迪を同中書門下平章事集賢殿大学士、王随を参知政事、李諮を樞密副使、王徳用を僉書樞密院事とした。壬戌、紫宸殿に御し張士遜を山陵使兼園陵使とし、癸亥、太行太后(劉太后)に「荘献明粛」の諡を上げ、宸妃李氏を追尊し皇太后とし諡を「荘懿」とした。
  • 五月戊辰、礼部貢挙を詔し、癸酉、中外に皇太后垂簾の日の事を輙く言わぬことを詔し、乙亥、羣牧制置使を罷め、丙子、宰臣張士遜に謝太廟及び躬耕耤田の記を撰させたが、検討宋祁が皇太后の謁廟は後世の法にあらずと言い、耤田記のみ撰することとした。戊寅、繋囚を録した。六月甲午朔日食があり、壬寅、周世宗及び高季興・李煜・孟昶・劉継元・劉鋹の後を録した。癸卯、審刑・大理に配隷刑名を詳定させ、戊午、天下の歳貢物を減じた。
  • 秋七月丁丑、知耀州富平県事張亀年に治行が優れているとして増秩再任を詔し天下に告げた。戊子、蝗旱により尊号の「睿聖文武」四字を去ることを詔し天地宗廟に告げ、中外に闕政を直言させた。八月甲午朔、契丹使が来て弔慰祭奠、壬寅、奉慈廟を作り、甲辰、中外に荘献明粛太后の父の諱を避けぬことを詔し、丁巳、端明殿学士を置いた。九月甲戌、法福院に幸し荘懿太后の梓宮に臨み、丙子・壬午にも同様にした。冬十月癸巳朔、太白が南斗を犯し、甲午、登州の民の採金を禁じ、丁酉、荘粛明献皇太后・荘懿皇太后を永定陵に祔葬した。甲辰、両川の歳貢綾錦羅綺紗の三分の二を紬絹に易えて軍需に供することを詔し、己酉、荘献明粛太后・荘懿太后の神主を奉慈廟に祔した。癸丑、徳音を下し東西京の囚罪を一等降し徒罪以下を釈放、二太后の陵に応奉する民戸は租賦科役を差等をもって免じた。丙辰、周王祐(早世した皇子)に皇太子を贈った。戊午、張士遜・楊崇勲が罷め、呂夷簡を門下侍郎同中書門下平章事昭文館大学士、王曙を樞密使、王徳用を樞密副使、宋綬を参知政事、蔡齊を樞密副使とした。十一月癸亥朔、薛奎が罷め、宗室の奉を増すことを詔し、太白が南斗を犯した。乙丑、美人張氏を追冊し皇后とし、甲戌、寇凖に中書令を贈った。十二月丙申、提点刑獄を復置し、丁酉、諸路転運使副に歳ごと管轄州軍を遍歴させ州軍にその至った月日を具して聞かせることを詔した。甲辰、京東の饑に内蔵絹二十万を出して民の歳輸に代え、乙巳、周廟を修めることを詔し、丁未、台官は中丞・知雑の保薦者でなければ任せぬことを詔した。戊申、宮人二百を出し、乙卯、皇后郭氏を廃して淨妃・玉京沖妙仙師とし長寧宮に居させた。御史中丞孔道輔が諫官・御史を率いて殿門で大呼し請対、宰相に皇后が廃されるべき状を告げさせた。丙辰、道輔と諫官范仲淹を出し、台諫は自今相率いて請対せぬことを詔した。丁巳、翌年の改元と辺臣の堡砦増置の禁を詔した。この歳、畿内・京東西・河北・河東・陜西で蝗、淮南・江東・両川で饑饉があり、使を遣わし安撫し民租を除いた。注輦国が来貢した。

景祐元年(1034年)

  • 正月甲子、江淮の漕米を発して京東の饑民を振済し、丙寅、開封府界諸県に糜粥を作り饑民を済うことを詔し、諸災傷州軍もこれに倣った。戊辰、三司に景祐元宝銭を鋳させ、甲戌、執政大臣に兵農の更制すべき策を議させ聞かせることを詔し、民を募って蝗種を掘らせ菽米を給することを詔した。癸未、礼部の試す挙人は十分の二を取り、進士三挙・諸科五挙で嘗て殿試を経た者、進士五挙年五十・諸科六挙年六十及び曾て先朝御試を経た者はみな名を聞かせることを詔した。甲申、淮南の饑に内蔵絹二十万を出して民の歳輸に代え、丁亥、崇政殿説書を置き、庚寅、淮南上供を一年停めることを詔した。二月乙未、書判抜萃科を罷め、辛丑、礼部貢院の諸科挙人で七挙の者は年を限らず特奏名を許すことを詔した。甲辰、江淮の漕米二百万石を権に減じ、戊申、麟府州に蕃漢の饑民を振済することを詔した。三月壬午、諸路災傷州軍の今年の夏税を免じ、癸未、觧州畦戸の逋塩の半を蠲じた。この月、礼部奏名進士諸科及第出身七百八十三人を賜った。夏四月丁酉、開封府判官龎籍が尚美人が内侍を遣わし教旨と称して工人の市租を免じさせたと言上、帝は内侍を杖し宮中の伝命は自今輙く受けぬことを有司に詔した。癸丑、殿中侍御史・監察御史裏行を置くことを詔した。五月辛酉、布十万端を出して銭に易え河北の軍儲を糴わせ、丁卯、民間で錦を織り刺繍を服飾とするのを禁じ、西川の歳織錦上供も罷めた。癸酉、台諫でまだ郡守を歴任していない者に郡を与えることを詔し、壬午、繋囚を録した。この月、契丹主宗真の母が子に政を還し慶陵に出居した。六月壬辰、交州の民六百余人が内附し、庚子、畿内の被災民税を半減した。己酉、制挙・武挙人を策問し、乙卯、州県官が理科(本来の官の職分)によらず罪人を死に決した場合は奏聴裁を経るよう詔した。閏月甲子、泗州で淮汴が溢れ、己巳、常州無錫県で大風により屋が壊れ、乙亥、天下の無額寺院を毀し、壬午、玳瑁・亀筒の器の製造を罷めた。
  • 秋七月丙申、寿州下蔡県の被溺の家に銭を賜い、己亥、樞密使王曙に同平章事を加え、辛丑、文武提刑は互いに薦論せぬことを詔し、壬子、転運使と長吏に管轄官で常平倉の粟を専領する者を挙げさせることを詔した。甲寅、河が澶州横隴埽で決壊した。八月庚申、薛奎が卒し、壬戌、星孛が張・翼に現れ、癸亥、王曙が卒し、甲子、月が南斗を犯し、戊辰、帝が不予、庚子、王曾を樞密使とした。辛未、星変により天下大赦、正殿を避け常膳を減じ、輔臣は延和殿閣で奏事した。壬辰、淨妃郭氏を外に出居させ、美人尚氏を入道させ、楊氏を別宅に安置することを詔した。九月壬辰、百官が隻日は先帝の故事のように前殿に御することを請い許された。丁酉、帝が康復し正殿に御して常膳を復し、甲辰、皇后曹氏を立てることを詔し、丙午、熒惑が南斗を犯した。冬十月庚申、淮南・江浙・荆湖制置発運使を罷め、淮南転運に発運事を兼ねさせることを詔し、乙亥、郊廟の景安・興安・祐安の曲を作らせた。十一月己丑、曹氏を冊立し皇后とし、癸丑、大安の曲を作らせ聖祖に饗した。十二月癸酉、西平王趙元昊に仏経を賜った。この歳、南平王李徳政が馴象二頭を献じたが返還を詔し、開封府・淄州で蝗害があった。

景祐二年(1035年)

  • 正月癸丑、邇英・延義二閣を置き尚書無逸篇を屏に写させた。二月戊午、延福宮に御して大楽を観、癸亥、旧に資善堂に給仕した者にみな恩を推し、戊辰、李迪が罷め、王曾を門下侍郎同中書門下平章事集賢殿大学士、王随・李諮を知樞密院事、蔡齊・盛度を参知政事、王徳用・韓億を同知樞密院事とした。三月戊申、内庫の珠を出し三司に賜い経費を助けた。夏四月庚午、天下の楽を知る者を所在から薦聞させることを詔した。五月甲午、猺獠が雷・化州を寇し、桂広の会兵で討たせることを詔した。丙申、繋囚を録し、庚子、太祖・太宗・眞宗の廟をすべて万世不遷とし南郊で上帝に升侑する際は太祖を定配、二宗(太宗・眞宗)を迭配することを議した。丙午、天下の繋囚罪を一等降し杖以下を釈放、丁未、広西が鎮寧州蛮の入寇を言上した。六月丁巳、職官の初任で未成考の者は薦挙せぬことを詔し、乙亥、一司一務及び在京の勅を頒し、鎮寧蛮が降を請うた。秋七月戊申、西京採柴務を廃し山林を民に賦しその十分の一を官が取ることとした。八月壬子朔、強盗法を軽くすることを詔し、甲寅、紫宸殿で宴し初めて楽を用い、甲戌、安粛門砲場に幸して習戦を閲し、己卯、提点刑獄・鋳銭官を置いた。九月壬寅、新楽を按じ、己酉、睦親宅を作り中丞杜衍らに三司の胥吏を汰させ、宋綬が中書総例を上呈した。冬十月辛亥朔、朝集院を復置し、癸亥、羣牧制置使を復し、丁卯、諸路の歳輸緡銭を福建・二広は銀に、江東は帛に易えることを詔した。庚午、熒惑が左執法を犯した。十一月戊子、廃后郭氏が薨じ、癸巳、景霊宮に朝饗、甲午、太廟・奉慈廟に饗し、乙未、圜丘で天地を祀り天下大赦、五代及び諸国の後・宗室で諸司使以下から殿直までの者は西班官に換えることを録し、百官が「景祐体天法道欽文聡武聖神孝徳皇帝」の尊号を上げた。丁未、百官に加恩した。十二月壬子、唃厮囉に保順軍留後を加え、丙子、水利を修め荒田を開くことができる長吏を賞することを詔した。この歳、鎮戎軍の荐饑(頻年の饑饉)に弓箭手へ粟麦六万石を貸した。

景祐三年(1036年)

  • 正月壬辰、郭氏を追復し皇后とし、丁酉、皇后郭氏を葬った。二月丙辰、官に太常の鐘律を較べさせ、壬戌、両制礼官に京師士民の服用居室の制を詳定させることを詔した。甲子、広南の兵民が瘴毒に苦しむため医薬を置くことを詔し、丁卯、陜西三白渠を修めた。三月癸巳、商賈が見銭を以て請官茶法を算じることを復した。乙未、新定鐘律を観、戊戌、両省卿監・刺史・閤門以上の致仕者に分司官のように奉を給し、長吏が歳時に労賜することを詔し、維州を威州と改めた。夏五月庚辰、館閣の逸書を購求し、丙申、繋囚を録し、丙戌、天章閣待制范仲淹が大臣を譏刺した罪で落職・知饒州、集賢校理余靖・館閣校勘尹洙・欧陽脩がともに落職・補外され、百官が越職言事するのを戒めることを詔した。六月壬申、虔・吉州で水が溢れ城郭廬舎を壊し、被溺の家に銭を差等をもって賜った。秋七月丁亥、民間で編勅刑書を私写するのを禁じ、乙未、大宗正司を置いた。庚子、大雨震電で太平興国寺が火災、辛丑、三京の罪囚を一等降し徒罪以下を釈放。八月己酉、民間の冠服・居室・車馬・器用の犯制の禁を頒し、乙卯、月が南斗を犯した。九月庚辰、睦親宅に幸して宗室を宴し、癸巳、熒惑が南斗を犯した。この月、心喪を申し観官する法を定めた。冬十月丁未、章得象らに諸路提刑の考課を命じ、甲寅、朝集院を作った。十一月戊寅、保慶皇太后楊氏が崩じ、辛卯、保慶太后に「荘恵」の諡を上げた。十二月丙寅、李諮が卒し、丁卯、王徳用を知樞密院事、章得象を同知樞密院事とした。この歳、南平王李徳政・西南蕃が来貢し、南丹州の莫淮戟が内附した。

景祐四年(1037年)

  • 正月壬午、諸州の解額を均すことを詔した。二月己酉、荘恵皇后(楊太后)を永定陵に葬り、己未、神主を奉慈廟に祔した。庚申、徳音を下し東西京及び霊駕の経る州県の囚罪を一等降し徒罪以下を釈放し、乙丑、赤帝像を宮中に置いて嗣を祈った。三月甲戌、天章閣侍講を置き、戊寅、礼部貢挙を詔した。夏四月乙巳、呂夷簡が景祐法宝新録を上呈、甲子、呂夷簡・王曾・宋綬・蔡齊が罷め、王随を門下侍郎同中書門下平章事昭文館大学士、陳堯佐を同中書門下平章事集賢殿大学士、盛度を知樞密院事、韓億・程琳・石中立を参知政事、王鬷を同知樞密院事とした。五月庚戌、皇子が生まれ繋囚を録し死罪を一等降し流罪以下を釈放したが、この日皇子は薨じた。乙卯、旱により使を遣わし三京の繋囚を決し、丙寅、芝草が化成殿の楹に生じた。六月乙亥、杭州で江潮が隄を壊し使を遣わし致祭、戊子、神武秘略を出して辺臣に賜い、己丑、太祖御容を揚州建隆寺に安んじた。秋七月丁未、河東・河北の州郡に辺備を厳にすることを密かに詔し、戊申、星数百が西南に流れ壁の東に至り大なるものは光が地を照らし黒気は長さ丈余、畢宿の下に出たという。八月甲戌、越州で水害があり被溺民の家に銭を差等をもって賜い、甲午、三司転運司は常平の銭穀を借りぬことを詔した。冬十一月癸亥、登莱の買金場を罷め、十二月甲申、并・代・忻州がともに地震を言上、吏民の圧死者三万二千三百六人、傷者五千六百人、畜が擾動して死んだ者五万余に及び、使を遣わし民を撫存しその死傷の家に銭を差等をもって賜った。この歳、滑州の民の蚕が成した繭は長さ二丈五尺に及んだといい、唃厮囉・龜兹・沙州が来貢した。

宝元元年(1038年)

  • 正月甲辰、雷が鳴り、丙辰、地震及び雷が時ならず発したため転運使・提挙刑獄に管轄官吏を按察させ、并・代・忻州の圧死民家の去年の秋糧を除いた。二月壬申、隻日に前殿に御することを復すことを詔し、甲午、安化蛮が宜・融州を寇した。三月戊戌朔、王随・陳堯佐・韓億・石中立が罷め、張士遜を門下侍郎同中書門下平章事昭文館大学士、章得象を同中書門下平章事集賢殿大学士、王鬷・李若谷をともに参知政事、王博文・陳執中を同知樞密院事とした。己亥、邵・澧・潭三州の駐泊兵を発して安化州蛮を討たせた。この月、礼部奏名進士諸科及第出身七百二十四人を賜った。
  • 夏四月癸酉、王博文が卒し、乙亥、張観を同知樞密院事とし、壬辰、宜・融州の夏税を除いた。五月乙巳、繋囚を録し、六月戊寅、童子の挙を罷め、己卯、建州で大水があり民の廬舎を壊し死傷の家に銭を差等をもって賜い、無主の者は官が葬祭した。甲申、天下諸州が毎月雨雪の状を上げることを詔した。秋七月壬戌、制挙人を策問し、癸亥、武挙人を策問した。八月丁卯、淮南・江浙・荆湖制置発運使を復し、庚辰、熒惑が南斗を犯した。九月戊申、祀事に既に誓戒を受けながら虔恭を失した者は赦により原されぬことを詔し、宜・融州の討蛮兵に緡銭を賜った。冬十月丙寅、百官の朋党を戒めることを詔した。十一月甲辰、広西鈐轄に進兵させ安化蛮を討たせることを詔し、乙巳、宜・融州の民で嘗て軍役に従った者は今年の夏税を、運糧した者はその半を免じることを詔した。戊申、景霊宮に朝饗、己酉、太廟及び奉慈廟に饗し、庚戌、圜丘で天地を祀り天下大赦・改元、百官が「宝元体天法道欽文聡武聖神孝徳皇帝」の尊号を上げた。乙卯、県令の奏挙法を復し、王曾が薨じた。十二月癸亥朔、百官に加恩し、甲子、京師で地震があり、丙寅、鄜延路が趙元昊の反を言上、甲戌、辺人が元昊と互市するのを禁じ、己卯、奉寧軍節度使知永興軍夏竦に涇原秦鳳路安撫使を、振武軍節度使知延州范雍に鄜延環慶路安撫使を兼ねさせた。この歳、達州で大水があり、黎州蛮が来貢した。

宝元二年(1039年)

  • 正月己酉、王随が卒し、辛亥、安化蛮の乱が平定し、癸丑、趙元昊が表を上げ称帝・改元を請うた。三月丁未、皇宋通宝銭を鋳、乙卯、衛士を閲試し、戊午、陜西縁辺の軍士に緡銭を賜った。夏四月癸亥、唃厮囉の二子瞎氈・磨角氈に団練使を授け、乙丑、宮女二百七十人を放ち、壬申、昭州の運糧で蛮寇に死した者の家の徭を二年、賦租を一年免じ、丁亥、河東・陜西の民を募って粟を入れ辺を実たさせた。五月癸巳、近臣に方略材武の士各二人を挙げさせることを詔し、己亥、皇族及び諸命婦・女冠・尼らが非時に入内するのを禁じ、癸卯、近臣に三司とともに浮費の節省を議させ、丙午、使を遣わし陜西・河東を体量安撫、己酉、繋囚を録し、壬子、王徳用が罷め夏守贇を知樞密院事とした。六月壬戌、浮費を節すことを詔し、乗輿服御及び宮掖の所須は簡約に従うべきだが吏兵の禄賜は一概に裁減せぬことを詔し、戊辰、致仕官で嘗て贓に犯した者は子孫に恩を推さぬことを詔した。丁丑、益州で火災があり廬舎三十余区が焼け、壬午、趙元昊の官爵を削り属籍を除いた。秋七月丁巳、宗室が南郊及び乾元節に遇えば一子への官を許し余は五歳ごとに授官することを詔し、戊午、夏竦を知泾州兼泾原秦鳳路沿辺経略安撫使涇原路馬歩軍都総管、范雍を鄜延環慶路沿辺経略安撫使鄜延路馬歩軍都総管とした。八月丁卯、篳篥城の唃厮波を本族軍主に補し、甲戌、皇子が生まれ、丙子、三京の囚罪を一等降し徒罪以下を釈放、辛巳、輔臣に高禖を報祠させた。九月壬寅、河北転運使に都大制置営田屯田事を兼ねさせることを詔し、乙卯、内庫の銀四万両を出して粟に易え益・梓・利䕫路の饑民を賑した。十月庚午、麟府州及び川陜の軍士に緡銭を賜い、甲申、両川の饑民が剣門関を出るのを禁じぬことを詔した。十一月戊子朔、内庫の珠を出して緡銭三十万に易え辺儲を糴わせ、丁酉、盛度・程琳が罷め御史中丞孔道輔を出し、壬寅、王鬷を知樞密院事、宋庠を参知政事とした。十二月庚申、審刑院・大理寺・刑部は賓客を通じさせぬことを詔し、壬申、御史の欠員は朕自ら擇び挙げると詔した。この歳、曹・濮・単州で蝗害があった。

康定元年(1040年)

  • 正月丙辰朔日食があり、壬戌、国子監に学田五十頃を賜った。この月、元昊が延州を寇し鄜延環慶両路副都総管劉平・鄜延副都総管石元孫を捕え、陜西運使明鎬に強壮を募り辺を備えさせることを詔した。二月丁亥、夏守贇を宣徽南院使陜西馬歩軍都総管経略安撫使とし、潼関に備を設けることを詔した。辛卯、月と太白がともに昴を犯し、壬辰、夏守贇に沿辺招討使を兼ねさせ、内蔵緡銭十万を出して戍辺禁兵の家に賜った。知制誥韓琦が陜西を安撫し、白気が縄のごとく日を貫いた。甲午、畿内・京東西・淮南・陜西の馬を括り、丙申、諸路転運使・提刑に辺事を知る者を訪ねさせ聞かせることを詔し、丁酉、樞密院に宰臣とともに辺事を議させた。辛丑、内蔵緡銭八十万を出して陜西の軍儲を市糴させ、丙午、徳音により延州・保安軍の流罪以下を釈放、寇に攻掠された地は今年の夏税を除き、戍兵及び戦死者にはその家に緡銭を賜った。この日、改元し尊号の「宝元」の字を去り、中外の臣庶に封章を上げ言事することを許した。丁未、陜西の民力を量り科した芻糧を蠲じることを詔し、癸丑、范雍を尚書吏部侍郎知安州に降し、甲寅、内庫の珠を出して民の馬直を償った。三月丙辰、大臣に陜西攻守の策を条陳させ、癸亥、韓琦に陜西の城池を治めさせ、乙丑、虎翼軍の習戦を閲し、辛未、延州の戦没軍士の子孫に月ごと糧を給することを詔した。丙子、大風で昼が暝み、この夜、黒気長さ数丈が東南に現れ、丁丑、大宴を罷め中外に闕政を言わせることを詔した。戊寅、王鬷・陳執中・張観が罷め、晏殊・宋綬を知樞密院事、王貽永を同知樞密院事とし、按察官に将帥に堪える者を挙げさせることを詔し、庚辰、参知政事に辺事を同議させることを詔した。辛巳、徳音を下し天下の囚罪を一等降し徒罪以下を釈放、京師・河北・陜西・河東の諸軍に緡銭を賜い、陜西の夏税十分の二を蠲じ河東の科した粟を減じた。
  • 夏四月丙戌、陜西沿辺の堡砦を省き、癸巳、諸戍辺軍に月ごと内侍を遣わしその家を存問し病あれば医薬を致し死せば歛葬させることを詔した。甲午、使を遣わし陜西の強壮軍を籍させ、乙未、契丹国母が再び使を遣わし乾元節を賀した。乙巳、河北の強壮軍を増補し、丙午、鄜延路兵馬都監黄徳和が棄軍の罪で腰斬に処され、丁未、劉平・石元孫に官を贈りその子孫を録し、辛亥、延州に金明・栲栳砦を築いた。五月甲寅朔、前殿の奏事は五班を過ぎず余は後殿で対し大官に食を賜うことを詔し、壬戌、張士遜が致仕、呂夷簡を門下侍郎同中書門下平章事昭文館大学士とし、癸酉、夏守贇に鄜州への進屯を詔し、戊寅、夏竦を陜西馬歩軍都総管兼招討使とした。この月、元昊が塞門砦を陥し兵馬監押王継元が死し、また安遠砦も陥した。六月丙戌、仮日は崇政殿に御して前殿のように視事することを詔し、丁亥、夏守贇を同知樞密院事とし、甲午、三京の囚罪を一等降し徒罪以下を釈放、乙未、南京鴻慶宮の神御殿が火災、壬寅、使を遣わし京東西を体量安撫、甲辰、陜西・河北・河東・京東西の弓手を増置した。
  • 秋七月乙丑、使を遣わし元昊討伐を契丹に告げ、庚午、諸軍の習戦を閲し、戊寅、皇子昕を忠正軍節度使壽国公に封じた。八月戊戌、金箔で仏像を飾ることを禁じ、癸卯、尚書屯田員外郎劉渙を邈川に使わし、戊申、夏守贇が罷め杜衍を同知樞密院事とし、辛亥、范仲淹・葛懐敏に兵を領し塞門等砦の蕃騎を境外に駆逐させ弓箭手を募り地を給して居させることを詔した。九月甲寅、滑州で河が溢れ、戊午、李若谷が罷め宋綬・晁宗慤を参知政事、鄭戩を同知樞密院事とし、戊辰、晏殊を樞密使、王貽永・杜衍・鄭戩をともに樞密副使とし、甲戌、使臣・諸班諸軍で武芸ある者は自ら陳ずることを詔し、辛巳、諸軍の習戦を閲した。この月、元昊が三川砦を寇し都巡検楊保吉が死し、また師子定川堡を囲み戦死者五千余人、乾溝・乾河・趙福三堡を陥した。環慶路兵馬副都総管任福が白豹城を破った。冬十月乙未、銅木の契傳信牌を製し、甲辰、方略の士六十一人を録し差等をもって授官した。十一月壬戌、大星が西南に流れ雷のような音が三度した。十二月癸未、内蔵庫の絹百万を出して軍儲の糴を助け、南京に大火を祠ることを詔し、丙戌、常平緡銭で軍儲の糴を助けることを詔した。癸卯、宋綬が卒し、戊申、当十銭を鋳て辺費を助けた。