宋名臣言行錄外集卷六十六 楊時
楊時(字は中立、南劍州将楽県の人、?–紹興五年、享年八十三)。程顥・程頤に師事した高弟の一人で、「吾道南せり」と評された二程の学の南方への伝承者。靖康年間には金への対応や王安石の追奪配享を求める上疏など、国事に関わる直言を重ねた。
出自と経歴
- 字は中立。先世は〓農の出で、五世祖は唐末に難を避けて閩中に至り、南劍州将楽県に寓居し、そこに家を構えた。熙寧九年、進士に登第したが、汀州の戸曹には赴任しなかった。しばらくして丁憂の服が明け、䖍州司法に改められ、瀏陽の県宰に改められ、荆州教授に除せられ、餘杭の県宰に遷り、南京の宗子博士に除せられた。後に蕭山の宰となり祠官を主り、常州の市易務を監した。宣和四年、秘書郎として召され、邇英殿説書に除せられた。靖康の初め、右諫議大夫兼祭酒に抜擢されたが閑職を請い、徽猷閣直学士主祠に改められ、待制に改められた。今上(欽宗)の即位後、工部侍郎兼侍講に除せられ、二年(靖康二年)には龍図閣直学士主祠に除せられ、紹興五年に没した。享年八十三。
二程の学の南方における伝承
- 嘉祐年間、二程(程顥・程頤)は孟子が伝えなかった学を遺経のうちに得て天下に唱え、その堂に昇り奥を覗いた高弟と称される者として、南方では游定夫(游酢)・謝顯道(謝良佐)と楊時(公)の三人がいた。
汀州・䖍州での明察
- 初め汀州の戸曹に任じられたが赴任せず、門を閉ざして学問を蓄え、その学識の深さは人に測り知れないほどであった。それがほぼ十年に及んだ。理を燭すること精深で、律令にも通暁し、䖍州には人々が決着できずにいた疑獄があったが、公はみな即座に断じた。
宣和年間の上奏――内憂外患への警鐘
- 宣和年間、公は時勢が変わることを察して十余の政事を陳べたが、執政はこれを用いなかった。金人がすでに侵入した際にも、「今日最も急ぐべきは民心を収攬することであり、辺事の興り、免夫の役、民に毒された海内、誤国の罪の所在を明らかにすべきである。西城による搾取、東南の花石の害はとりわけ甚だしく、宿姦巨猾が応奉の名を借りて民財を強奪することは数え切れない。天下の積怨は鬱積して発散されないままほぼ二十年に及んでいる。人心の和を得るには、この三つを除くべきである」と述べた。
欽宗即位後の直言――童貫の処罰を求める
- 淵聖(欽宗)が即位した際、公は対を乞い、「上皇(徽宗)は過ちを引き受け倦勤を理由に位を避けたが、宰執がこれに合わせて栄転するとはどういう理か。城下の盟は恥辱も甚だしい。主君が辱められれば臣は死すべきであるのに、大臣は真っ先に逃げ隠れる計を立てた、陛下は何を頼みとするのか。刑を正すべきである。童貫は三路の総帥でありながら、敵が疆を侵すや軍を棄てて帰り、放置して問わなかった。大河の天険を棄てて守らず、敵が城下に迫ってなお朝廷はこれを知らなかった。帥臣の職務怠慢としてこれ以上のものはなく、軍法によって処すべきである。防城の任にはなお宦官を用いて覆車の轍を踏んでいるが、これも改めるべきである」と述べた。淵聖は大いに喜んだ。
上疏――三鎮割譲の危険性
- また上疏して「河朔は朝廷の要地であり、三鎮はまた河朔の要藩である。今これを棄てて敵に与えれば、二十州の地を失い、京城には藩籬の固めがなくなり、戎馬は数日で至るであろう、これは長久の計ではない。四方の勤王の師は一月余りかけて集まったが、功もなく帰らせては無駄になり、厚く賜せば名分が立たず、与えなければ怨みを生む。再び急に召せば命に応じない者が出るかもしれず、これを慮らねばならない。伝え聞くところでは三鎮は死を賭してこれを拒もうとしているという。今もし兵をもってその後を追い、敵に腹背から受けさせれば、これはなし得よう。朝廷は専ら和議を守り契丹百年の好にならおうとしているが、それでも保てなかったのに、まして今のこの強敵をや。要盟は神も信じないというから、これを慎重に処さねば、後で臍を噬むことになろう」と述べた。
金の背盟と肅王の処遇
- ほどなく「金人は磁・相に駐兵し略奪すること限りなく、誓書の墨も乾かぬうちに背盟して間を置かない。肅王は初め河に至れば帰るとの約束であったのに、今これを挟んで去ろうとしている。これは背盟の最たるものである。肅王を問責し、その敗盟の責任を必ず肅王をもって果たすべきだ。三鎮の民が死を賭して敵を拒んでいる間に、我らが重兵をもってその後を擁すれば、必ず所望のものを得られる。それでもなお従わなければ、その罪を声高に責めて討つべきである。師直(大義名分をもつ軍)は強い、この機を逃してはならない」と述べたが、議論はまとまらず、ついにこの機会を失い、太原諸郡はみな急を告げるに至った。
太学生の伏闕運動――李綱・种師道の留任を求める
- 太学生が闕下に伏し、李綱・种師道の軍を留めるよう乞い、これに従う民衆が数万人に及んだ。執事者はこれが乱を生むことを慮り、髙歓の故事を引いて衢に榜を掲げ、李邦彦を礼をもって迎えるよう請うた。公は「士民が忠憤から出た行動であり、乱を起こす心があったわけではない、深く罪すべきではない」と述べた。李邦彦は真っ先に逃亡の策を画策し、金を捐て地を割き親王を人質にして和議を主張し、李綱を罷免して誓書を納めた。李鄴は使いに奉じて言辞を失し、ひたすら金人の言いなりであった。この二人は国人がひとしく棄てた者であり、中外に敷告してこの二人を平難和議の功があるとするのは、先王が天に憲り民を自らのものとする意ではない、榜を収めて示し、人心を慰めるべきだと述べ、上(欽宗)はこれに従った。
太学生の再度の動きへの対応
- 太学生が再び伏闕して騒乱を起こすことを懸念する声があったが、公は「諸生は朝廷に忠を尽くそうとしているだけで他意はない、ただ老成で行儀のある者を長と副に選べば事は定まる」と述べた。上は喜んで「これに勝る者はない」と言い、祭酒を兼ねるよう命じた。
王安石の追奪配享を求める上疏
- 蔡京が神宗の政を継述すると称しながら実は王安石の権威を借りて自らの利を図ったため、安石を尊んで王爵を加え、孔子廟庭に配享させたが、今日の弊害は実に安石が招いたものであると述べた。安石の邪説の例として、神宗がかつて漢文帝の露台の費用を止めたことを称美した際、安石は「陛下がもし堯舜の道をもって天下を治められるなら、天下を尽くして自ら奉じても過ぎたるとはいえない」と言った。しかし堯舜は茅茨土階(質素な宮殿)に住み、禹を称えるにも「家を倹する」ことをもってしたのだから、天下を尽くして奉じることは堯舜の道ではない。後に王黼が三公として応奉司を領し「享上」と号したのも、実は安石の自奉の説がこれを先導したものである。また詩経・鳧鷖の末章の解釈で「道をもって成を守る者は、衆を役使しても泰にして驕らず、費やしても侈ではない」と説いたが、この章は本来「盈を持すれば神祇祖考が安楽である」ことを言うのであって後難はない、それを安石独自にこの説を為したために、後に蔡京らは争って奢侈僭越を高しとし、財を軽んじ妄りに用い窮極の淫侈に至った。実に安石のこの説が先導したものであり、その害は甚だしい。安石の学術の誤りを正し、王爵を追奪し、中外に明詔して配享の像を毀ち、安石を従祀の列から降ろすよう乞うた。以上、胡文定(胡安国)が撰した誌による。五峰(胡宏)がこの章はいかにも迂闊に見えるがなぜ載せるのかと問うと、文定は「これは王氏の肝心を取る刀を用いた手段であり、書かずにいられようか。これを書けば王氏の心肝が肉案の上に懸けられ、人々に見え、邪淫を蔽い遁れる言葉もみな破られる」と答えた。
王珪の名誉回復を求める上疏
- また「昔、神宗が不豫(病気)となり哲宗は幼冲であった時、宣仁聖烈皇后は『二王(諸王)は宣召なくして内に入ってはならない』との旨を下した。当時、王珪は真っ先に延安郡王(哲宗)を皇太子に立てることを請い、他に発言する者はなかった。退いて聖語を批し、中書に留め実録院にも関わらせ、群臣がみなこれに署名し、本末は詳らかに具わっており、否定できない事実である。元祐年間、蔡確がその党を去らせ姦謀を作り始め、後日の福を徼めようとした。紹聖の初め、章惇・蔡卞が政を用いて私怨を報復しようとし、この説を実として聖母(宣仁太后)を誣い、大逆の名を王珪に加え、定策の功を蔡確に帰し、自分たちもこれに関わったとした。これは確に対する私怨からではなく、実は自分たち自身のためであり、元祐の人々を中傷することを目的としていた。今、陛下に紹聖年間に修めた元祐時政記を索めて一覧いただき、事実を究明され、王珪の不忠の名を洗い雪ぎ、蔡確が濫りに受けた封贈の恩典を追奪し、濫恩をことごとく改正して、天下の憤鬱の気を解いていただきたい」と述べた。上はこれを聞いて宣仁聖烈皇后の謗史を改めるよう詔した。
人柄と学問の姿勢
- 公は天資夷曠(穏やかで広い)で、これに学問を加え、充養に道があり、徳器は早くから成った。中に積むところは純粋にして宏深、外に見えるところは簡易にして平淡、閑居しては和楽で色笑も親しみやすかった。事に臨んで裁処する際も声気を動かさず、これと遊ぶ者は終日群居していてもひっそりと語らず、人に接して和やかで、鄙薄な態度を自ずと表さなかった。孟子の性善説を推し広め、中庸・大学の道を発明し、方法を知りたいと望む者にはその赴く所を指し示し、何も隠すことがなかった。
仁厚寛大な人柄と師事の経緯
- 公は仁厚寛大で人を容れ、その涯涘(限界)を見せず、崖異絶俗の行いをもって世俗の名誉を求めることをしなかった。進士に及第し官を得ると、二程の道を聞いて即座にこれに従って学んだ。当時、従学する者は甚だ多かったが、先生(楊時)は独り閑居すること累年、経書に沈潜し、師説を推し広め、その趣を窮め尽くし、涵蓄広大にしてみだりに自らを放縦にしなかった。
明道への師事――「吾道南せり」
- 明道(程顥)が潁昌にいた時、公は医を尋ね官を求めて京師に赴く途中、潁昌を経て明道に従学した。明道は大いに喜び「楊君は最も容易に会得する」とつねに言い、帰るにあたって送り出し、座客に「わが道は南せり」と語った。これに先立ち、建州の林志寧が潞公(文彦博)の門下に出入りして教えを求めたところ、潞公は「ここには益するものはない、二程先生がおられるからそこに行くべきだ」と言い、人に明道の所へ送らせた。志寧はそこで定夫(游酢)と公に語り、公は「一度会わないわけにはいかない」と考え、同行した。この時、謝顯道(謝良佐)も同座していたが、謝は人柄が誠実であったものの、聡悟の点では公に及ばなかった。
伊川の評――「楊謝は流に堕ちず」
- 伊川は涪州から帰った際、学者の多くが仏学に流れているのを見て、独り楊時・謝良佐だけが変わっていないことを歎じ、「学者はみな夷狄に流れてしまった、ただ楊謝だけが長進している」と語った。
新学(王安石学)批判の力
- 楊時は新学(王安石の学)に極めて精しく、明道が問いを立てると、その短所を尽く知りこれを持して論じることができた。おおむね新学は支離であるとし、伯淳(明道)はかつて楊時と数篇を共に読み、後にはすべて推し広めて通じさせることができた。
楊時の聡明さ
- 胡文定は「楊先生は聡明が人に過ぎている。伊川がひとたび新説の道を害するところを挙げると、楊時は次々にそれを推し出した。伊川は『楊はまことに聡明だ』と言った」と語った。
明道の温良さ、楊時への評
- 呂本中は「かつて前輩から、明道は温然として純粋、終身疾言遽色(急な言葉や慌てた顔色)がなかったと聞いたが、先生(楊時)は実にこれに似ている」と語った。
- 上蔡は「かつて二程の門下で、伯淳(明道)は最も中立(楊時)を愛し、正叔(伊川)は最も定夫(游酢)を愛した。二人の気象もまた似ていた」と語った。
南軒による功績の総評
- 南軒(張栻)は言う。宋の興隆から百有余年、四方に憂いなく、儒生が高く詩書を語り自ら伊尹・傅説になぞらえながら、実は仏老の似姿を窃み、商鞅の術を助けるような者があり、世を挙げてこれに靡いた。巨徳の故老でさえその奸を見通せない者があり、その説が一たび行われると天下は紛紛と多事となり、理に反する評、道を詭る論が日に日に盛んになった。邪悪が相乗じ、ついに夷狄の禍を招いた、その原因を考えれば由来があるという。先生はその学の誤りを奏し、王爵の追奪、配享の廃止を請うた。公の説がすべて実現したわけではないが、大統中興の議論は正され、今日に至るまで学者は荆舒(王安石)の禍の根本を知り、これを恥じるようになった。公が邪説を止め詖行を退け淫辞を放って孟子の道を継いだ功はまことに大きい。公は二程に師事して中庸の「鳶飛び魚躍る」の伝を言葉の外に得、践履は純固卓然として一世の儒宗となった、それゆえその行事に見えるところがこれほど深切著明である。以上、瀏陽画像記による。
靖康・宣和の建言の意義
- 胡文定は陳幾叟への書に「私は龜山について、宣和・靖康年間の建白をすべて詳らかにその本末を載せている。これは他人が言えないことを龜山だけが言えたのであり、しかもその時に応じて発言したからこそ貴い」と述べた。世人はその用心の所在を察せず、赴召を知る者はただ「これは御筆による召命だ」と言うが、御筆に違えば大不恭とされるのであり、政和末年以来すでに海行の旨(全国に及ぶ命令)であった。これをもって賢者の出処を定めることはできない。違えないから就いたと言うなら、申屠蟠が笑って答えなかった故事を引いて反論すべきだが、それにはまた何の言葉で答えるのか。定夫(龜山)が赴召したのは海行の旨を畏れたのではなく、天下の民が塗炭にある中で惻然として忍びない心があったからで、去るのを潔しとしなかったのである。
宰相への書
- また宰相への書に「楊某の造詣は深遠であり、理を燭すこと甚だ明らかで、混迹同塵(世俗に混じり合う)しているため、知る者は少ない。知る者はその文学だけを知り、知らぬ者は蔡氏(蔡京)に引き立てられたと考える。この公は人に求めることがなく、蔡氏がどうして彼を汚すことができようか。上(皇帝)はまさに儒学に意を向けようとしており、これを経席に置いて朝夕諮問すれば、裨益は多いだろう」と述べた。
著書を戒める
- 程子(伊川)は先生に著書を好むことを戒め、「著書すれば多言になり、多言は道を害する、学者はこれを察すべきである」と語った。
疑いを持って進む学問論
- 「学者はまさに疑うところを持ってこそ徳が進む。今の士は書を読み学をするに、自らを無疑(疑いなし)と思うため、その学は互いに及ばない」と語った。
読書の法――以身体之
- 仲素(李侗の門人か)に「私はかつて数句をもって学者に読書の法を教えた、身をもってこれを体し、心をもってこれを験し、燕閑静一(静かに落ち着いた時間)の中で従容として黙会し、書の言・象・意の表に超然として自得する」と語った。
六経の意
- 「六経の意は、心に験してしかる後に然り、事に行ってしかる後に順う、そうして初めて得られる。今、経を治める者は無用の文をこしらえ、科第を僥倖しようとするだけであり、何の益があろうか」と語った。
読書における立意
- 「読書はまず古人が立意し発明したところが何かを見るべきであり、言葉の上だけで求めてはならない。例えば万章が『象が日々舜を殺すことを事としていた』ことを問うた際、孟子はそれに舜が対処した道を答え、その意は聖人に偽りがないことを説くにある。これを知らねばならない。もし枝葉の議論に走り、象が『二嫂に自分の寝床を治めさせよう』と言ったような言葉を信じるようなら、堯が上にいてこのようなことを許すはずがないのだから、それは信じられない」と語った。
経を解く簡潔さ
- 「経を解くには理が通じ言葉が簡であるべきだ。かつて『易』を解いて『簡にして天下の理を得る』と言い、『行其の無事なる、また易ならずや』『一以て之を貫く、また簡ならずや』と言った。このようであれば天下の理は得られる」とも語り、「其の無事なるを行い一以て之を貫くのは、まさに一個の自然の理である」と語った。
官による酒の専売と教化の矛盾
- 「官司が法を設けて酒を売る所では、音楽を奏し妓女を集めて小民を誘い寄せる、これは最も害となる。それを教として『民と楽しみを同じくする』というのは誣いではないか。無知な民を引き誘ってその財を漁ることは、百姓が行えば理として当然禁じられるべきなのに、官吏がこれを行い、上下ともに怪しまない、これは為政の過ちを知らぬということである」と語った。
出処の是非をめぐる朱子の評
- 龜山(楊時)はなぜ出仕したのかと問われ、朱子は「彼の為人は多少苟且(安易)なところがあった。当時未だ禄仕を免れず、それでいい加減に就いてしまった。少しでも道を行えれば、というのが龜山の心であった。しかしそもそも出仕したこと自体がよくない上、至って何もできなかった。ただ『重要なことは何もない』と言うばかりで、この時にあたって大力量があり、たちどころに天下の事を転移させられるならまだしも、来仕したこと自体が無駄ではなかった、しかしそうできず、ただ衆に随ってはっきりしない態度をとった。欽宗の即位に及び諫議大夫となったが、配享の事を争ったために孫仲益に攻撃された。孫は『楊某はかつて蔡京の子らと交わっていたのに、今、衆議が蔡京を攻めると、楊某は「居安(蔡攸か)を攻めるな」と言った』と論じ、龜山は罷免された」と語った。以上、朱子の語による。
龜山の出処への弁護――胡文定の言
- 龜山の出処には人が多く議したが、文定(胡安国)だけは「当時、もし彼(龜山)の言を聴用していれば、必ず半ばは救われただろう、この言は最も当を得ている」と語った。文定は「先生の誌銘には当時論じた政事十余条が詳細に載っている。当時、宰執の中でもしこれを聴用し、直院らの起草した一条の詔を南郊の赦文によって施行していれば、必ず半ばは救われ、後のような大いに狼狽するには至らなかっただろう。龜山はこの時、重い名声を負っていたとはいえ、殺活の手段(決定的な権限)を持っていたわけではない。もし彼が蔡氏の引き立ての恩を懐き、その子を力で庇い『居安を攻めるな』というような言を発したというなら、それは誣いである。幸いこの言は孫覿から出たものであり、人もこれを信じない」と語った。
伊川門人の後継についての朱子の見解
- 伊川の門人はかくも多かったのに、なぜ後に一人として親切な体得者が現れなかったのかと問われ、あるいは「游楊(游酢・楊時)もまた長く親炙しなかったからではないか」と言われた。朱子は「それは、諸人がみな首があって尾がなく、この道理に尽心せず、各々仕官に奔走したために、深く理会し得なかったのだ。康節(邵雍)は終始その力を極め尽くしてようやく得たので、偏りはあってもそれは安んじて成ったものである。濂溪(周敦頤)のような資稟の高さでも、仕官に赴きながら、その学ぶところは自らもとの筋から後まで一貫していたからこそ成った。この道理は、生涯かけて理会しなければ会得できないだろう」と語った。
三君子(游・楊・謝)と禅の流弊
- 游・楊・謝の三君子はみな初めは禅を学び、後にもなお禅の名残があったため、これを学ぶ者の多くが禅に流れた。游先生(游酢)は特に禅学が強く、これはきっと程先生(明道)が当初あまりに高く説きすぎたためで、彼らはただ上一截(高遠な部分)だけを見て、下の着実な工夫を欠いたために、この弊が生じたのだろう。龜山はそうではないだろうと言う者もいるが、その論語序を見ればそれと分かる。
龜山の資質と少年期の傾倒
- 龜山は天資が高く朴実簡易だが、その見識はさらに窮め究めるということがなかった。少年の頃、伊川を見る前に、まず荘子・列子などの文章を見ており、後にこの傾向が身についてしまい、知らぬ間に発出してしまう。游先生はその傾向がさらに甚だしかった。
胡文定による墓誌の評
- 胡文定が撰した龜山の墓誌に「その人柄は柳下惠に似ている」とあるが、まさにその通りである。また「龜山の文字はやや弱い、おそらく初めから容易に会得したためであろう」ともいう。
立言の含蓄
- 龜山の立言はやや意図的に含蓄をもたせ、言い尽くさない。そのため仮借(比喩)や寄託の言が多く、人の意を快くさせないところがある。
立朝の議論
- 龜山が朝廷に立ってから多くの議論をしたことについて問われ、「龜山は雑博(広く諸学に通じる)で、多くの文字を読んでいたからだ」と答えられた。
王安石『字説』への反駁の是非
- 龜山には荆公(王安石)の『字説』を弁駁した三十余字があるが、荆公の『字説』はその説が非常に多いのに、なぜ三十字だけを弁駁したのか、それでは益がない。頂門から一転語を下さずに、その後を追ってこまごまと弁駁するようでは、荆公の説が伝われば自分の説が行われなくなる。