宋名臣言行錄外集卷六十四 呂大鈞

出自と生い立ち

  • 呂大鈞、字は和叔、先祖は汲郡の人で今は京兆の人。嘉祐二年進士乙科に及第し、秦州司理・監延州折博務を経て耀州三原縣知事に改まった。諌議大夫の推薦で果州に赴くはずが代わりを乞い、蜀に移り綿州巴西縣知事となるも赴任前に諫議大夫が没し行かなかった。韓絳が河東陜西を宣撫する際に機宜に辟され転運官に転じ、宰相曾公亮の推薦で涇陽知事となったがいずれも赴かなかった。父の喪に服した後、閑居していたところ大臣の推薦で宮教となり、仲兄呂大防が紹興を知る際に鳳翔府造船務の監を乞い、宣義郎に改まって元豊五年に五十二歳で没した。

人柄と関学への傾倒

  • 質厚剛正な人柄で聖門の事業を己が任とし、知って信ずるところ力の及ぶ限り自ら実行し疑い畏れることがなかったため、識者は季路(子路)に比した。
  • 大学の道が久しく廃れる中、張横渠先生(載)がこれを唱え、大鈞は先生と同年の友でありながらその学を聞いて心服し、子弟の礼をもって倦まず教えを請い、以後学者は先生の道に靡然と向かうようになった。
  • 張先生の学は誠明を本とし礼楽を行とするもので、大鈞は日夜これに従事し、身から家、家から郷人・親戚朋友にまで及ぼし、行いと事績を記録した。

礼の実践

  • 諌議大夫(父)の喪に際し、喪から葬祭に至るまで古礼に倣い、居喪の節を細部まで礼に則り、さらに祭祀・冠婚・飲酒・相見・慶弔の事にも及ぼし、俗習に混じらぬ整然たる儀礼を実践し、人々はこれに安んじ大鈞を敬愛した。

学問と最期

  • 若い頃から博学であったが、張先生の教えを聞いて素志を改め、それまでの博学が約(簡明)となり氷解するように理解できたため、他者より効率よく多くを得た。井田制・兵制の講明を好み、治道は必ずこれによるべしとして図籍を撰し、実行可能な形に整えた。
  • 病を得たある日、内外を洒掃させ斎居し冥然として思いに沈み、久しくして客が来て安否を問うと、語り終わらぬうちに没した。徳性の涵養の深さが窺えるという。

史論

  • 范育は墓表で「君は明善至学、性の得るところを尽くし、心の知るところを身に践んだ、至誠敏徳の人と謂うべし」「その学は孔子の下学上達の心をもって志を立て、孟子の集義の功をもって徳を養い、顔子の克己復礼の用をもってその行いを励ました」と称えた。伊川は「和叔は相見えれば疑いなく、別れれば疑いなきを得ず」と評し、明道は「なぜ問い詰めて議論を尽くさぬのか」と応じた逸話も伝わる。