宋名臣言行錄別集下卷四十七 呂頤浩

呂頤浩(成国忠穆公)、字は元直。斉州の人。苗劉の変の鎮圧に功を挙げ、南宋初期に二度宰相を務めた重臣。三省制度の改革や北伐策・攻守十事などを上奏し、秦檜と対立してこれを一時排除した。享年69で薨去し、のち高宗の廟に配享された。

年表(6件)

出自と経歴

  • 呂頤浩(成国忠穆公)、字は元直。斉州の人。元祐9年(1094年)進士に及第。宣和末年、河北の漕運を司り、靖康年間には祠禄の職で揚州に居住した。建炎初年、徽猷閣直学士を加えられ淮東安撫使・揚州知事となった。皇帝が揚州に行幸すると戸部侍郎を兼ね、翌年戸部尚書に転じ、まもなく僉書枢密院事を兼ね江淮両浙経置使として江寧を治めた。のち右僕射・御営使を拝したがまもなく罷免され観文殿学士・崇福宮提挙となり、まもなく江東安撫使兼池州知事に除せられた。紹興初年、少保・左僕射を拝したが力めて辞退し、少保を退き特進を加えられた。紹興3年(1133年)罷免され観文殿大学士・洞霄宮提挙として台州に居住した。5年潭州知事兼帥を兼ね、8年少傅を加えられ鎮定江軍節度使・建康知事兼江東安撫制置大使・行営留守を兼ねたが力めて辞退し罷免されて醴泉観使となった。まもなく西京留守に除せられたが病により辞任した。薨じた時の享年は69。太保を追贈された。淳熙14年(1187年)高廟(高宗)に配享された。

河北漕運での献策

  • 呂頤浩が河北の漕運を司っていたとき、燕山の開辺(新たな領土獲得)はその地が守りにくいと上奏したところ、皇帝は怒り、王安中に詔して「呂頤浩が疆土の事を妨げ守りにくいとの説を唱えて衆心を惑わせている、直接呂頤浩を問い詰めよ」と命じ、「以後、対応に欠けたり国事に支障をきたす者は軍法で処す」と警告した。

対金戦略の献策

  • 呂頤浩は「今、敵の騎兵が次第に東京に迫っている。もし人心が一度でも動揺すれば淮南は風を望んで下るだろう。今こそ河北・京東両路の税を二割免除し、公私の積欠を蠲除して民心を収めるべきだ。今、百官はみな強弱不敵と言うが、私は密かに渡江の備えを講じつつも表向きは拒敵の準備を大いに進め、諸将を戒め強弩の訓練を積ませて淮水を挟んでの一戦に備えることが不易の策と考える。彼の長所は騎兵にあり、我が歩兵でこれに対抗するのは平原曠野では不利である。ただ険を扼え奇を用いてこそ攻撃できる。また水戦の備えも今のうちに講じておくべきだ。淮水を防ぐのは難しいが江を防ぐのは易しい。近ごろ鎮江の岸に海船を配置しているが、上流の諸郡、荊南から儀真まで渡れる場所は多い。使を二員置き、一人を鎮江から池陽まで、一人を池陽から荊南まで専ら造船を提挙させ、水戦の利害を調べさせるべきだ。また皇帝が維揚(揚州)に駐まる以上、一軍を盱眙に、一軍を寿春に屯し衝突に備えるべきだ」と述べた。

苗劉の変への対応

  • 呂頤浩は僉書枢密院事として江東制置使兼江寧府知事であった。当時、子の呂摭が両浙運判官として蝋書(密書)を送り、苗傅らの叛逆の詳細を知らせてきた。呂頤浩は直ちに使者を杭州へ遣って賊の状況を探らせ、あわせて張浚・劉光世に書を送り、浚には別に片紙で「時事はこの通りだ、我らはただ手をこまねいていてよいものか」と伝え、挙兵の策を決めた。呂頤浩が丹陽に至ると張浚らが会し、浚は大計を頤浩に諮った。頤浩は「事が成らねば一族滅亡に過ぎない」と述べ、浚はその言葉を壮とし進兵を議し、中外に檄を伝えた。苗傅・劉正彦の反乱には王世修が謀に加わっており、この時すでに呂頤浩の軍は呉江に進んでいた。世修はこれを聞き軍中に赴き「陛下はすでに処分された」と告げると、頤浩は単騎で入朝すると偽り「私の統率する将士は忠義に激しており、団結してこそ力を発揮できる。願わくば軍を率いて拝謁したい」と上奏した。苗傅らは策が尽き恐れを深めた。呂頤浩の軍が臨平に至ると、苗翊らが出て戦い、頤浩は甲冑を着けて水辺に立ち、行伍を出入りして督戦し、苗翊らは敗走した。二凶(苗傅・劉正彦)は兵を率いて開門し逃走した。呂頤浩は勤王の兵を率いて都城に入ると、人々は道の両側で見上げ、みな額に手を当てて喜んだ。

宰相就任の経緯

  • 当初、朱勝非が辞職を求めた際、皇帝が「誰が後任にふさわしいか」と問うと、勝非は「時事から言えば呂頤浩・張浚が必要です」と答えた。皇帝が「二人のどちらが優れているか」と問うと、勝非は「頤浩は事に練達しているが粗野であり、浚は事を好むが浅慮です」と答えた。皇帝は「どちらも軽率だが浚は若すぎる」と述べ、頤浩を右僕射とした。

三省制度の改革

  • 呂頤浩は「尚書左右僕射をともに同中書門下平章事とし、門下・中書侍郎をともに参知政事に改め、尚書左右丞を減らし廃止すべきだ」と請うた。元豊の官制改革以来、三省が建てられ、軍国の事は中書がこれを議し、門下がこれを審査し、尚書がこれを執行することとされ、三省には官の長を置かず、左右僕射が両省の侍郎を兼ねてきた。しかし二相がそれぞれ班を分けて上奏するため、首相が朝廷の議論に参与しない事態が生じ、宣仁太后(哲宗の摂政)の垂簾の際、大臣がこの不便を察して三省の合班奏事を請うたが、紹聖から崇寧に至るまで改められなかった。議論する者は「門下の相が同じく上奏する以上、自ら発した命令に異議を挟むべきでない、これでは東省の職は無用になる」と述べていた。ここに至り皇帝は呂頤浩らの意見を採り入れ、祖宗の故事にならい三省を一つにまとめた。議論する者はこれを是とし、呂頤浩は同平章事となった。

天文・災異への対応

  • 皇帝が輔臣に「国用が乏しいのは費用が多いからだ」と述べると、呂頤浩は「用兵は最も財を費やすものです。漢の文帝は兵を語らず天下を富ませました」と答え、皇帝は「用兵と営造は最も国用を費やす、深く戒めるべきだ」と述べた。
  • 民間の天文家・耿静が「太微垣に正午の位置を推歩すると、今年の熒惑(火星)はその運行がまさに巳未にあり、太微垣に至るはずだ」と言うと、皇帝は「この者は深く知らない。朕は夜に星図を見ながら殿中に四更まで起きてこれを見たが、昨夜すでに2度半退いていた」と述べた。呂頤浩は「殷の宋景公が善言三つを発すると熒惑が退舎したという故事があり、疑う者もいましたが、陛下の慎み深さが天の応答をこれほど速やかに得られたのは、記録が虚言でないことを示すものです」と述べた。
  • 日食がわずか四分で間もなく戻った際、皇帝が宰執に「太史は初め日食が早くかつ深いと奏したが、朕が見たところ食は浅く戻りも早かった、なぜか」と問うと、呂頤浩は「陛下の敬虔な誠が天の鑑にかなったからこそこのようになるのです」と答えた。呂頤浩が奏事を終えると「近ごろ聖容がやつれておいでですが、艱難の憂いで聖慮が焦っておられるためではないでしょうか」と述べ、皇帝は「朕は常に夜、天象を観て熒惑の運行に差があるのに気づき、食を控えて20余日になる。軌道が常に復せばまた常膳に戻すつもりだ」と述べた。

武昌計画の変転

  • 張浚が武昌(湖北)に拠点を移す計画を建てた際、呂頤浩はこれを是とし成説となっていた。しかし浚が川陝宣撫使として赴任すると、まもなく江浙の士大夫が動揺し、呂頤浩は当初の議を変えた。その日、随駕の百官と諸統制を都堂に召集し、夕方には25通の封事が提出された。大方は「岳州・鄂州は道が遠く食糧の輸送が続かない、皇帝の車駕が動けば江北の群盗が乗じて江を渡り東南はわが所有でなくなる恐れがある」というものであった。翌日、輔臣が参内した際、皇帝はまだそれを見ていなかったが呂頤浩に「封事の中で人々の意見が一致していないことを恐れる。臣が私の考えでなく専ら国のために計るのでなければ不安は絶えない」と述べた。呂頤浩は「金の策は陛下の所在を辺境と見なすことにあります。今は戦いつつ避けるのがよく、ただ陛下を万全の地に置き、私は常州・潤州で死守したい」と述べた。皇帝は「朕の左右に宰相がいなくてよいものか」と述べ、さらに「張守は建康に留まるのはよくない、渡江すべきでないと言う」と述べると、呂頤浩は「私は韓世忠と協議した通りです」と答えた。皇帝は「よし」と述べ、呉越(浙江方面)への行幸を決めた。

平江防衛

  • 皇帝が平江に駐まると、金が海路から江浙を窺うとの間諜情報が入り、劉光世に圌山などの節制を命じた。呂頤浩は自ら平江から諸将を督して防戦したいと請うたが、皇帝は呂頤浩を行在から離せないとし、周望を両浙宣撫使として平江を守らせた。

遷都に関する議論

  • 宰執が駐蹕(皇帝の滞在先)を上奏した際、皇帝は「会稽は暫くの滞在にとどめるべきだ。長くいれば人々は安住を望み動きたがらなくなる、しばしば移すべきだ」と述べた。呂頤浩は「将来は浙右に駐まり、徐に蜀への進入を謀るべきです」と述べたが、皇帝は「朕は雍(陝西)の強さと蜀の富に頼るのは良いことだが、張浚の上奏によれば漢中には1万人分の食糧しか備蓄できないという、少なすぎる。両浙で人材を得られれば銭帛は水運できるが、食糧はどうして運べようか」と述べた。呂頤浩は「もし1万の兵だけを蜀に入れれば、淮浙・江湖から閩・広に至るまで盗賊の巣窟となり、いずれも国家の所有ではなくなるでしょう」と答えた。

親征の献策

  • 呂頤浩は金が窮迫していると聞き、皇帝に浙西へ行幸し親征の詔を出して先声を上げ、あわせて鋭兵を出して韓世忠を策応させ、完顔宗弼(兀朮)を必ず捕らえるよう提案した。皇帝はこれを納れ親征の詔を下した。

用人論

  • 呂頤浩が建康大元帥に任じられた際、皇帝は「議論する者は頤浩が山東の人を多く引用し、宰相として天下の人材を集めるべきなのに自らの郷里ばかりを私するのは公道ではないと言う」と述べた。呂頤浩は参内して「私は国を離れて以来、金の実情を知らないが、聞くところではすでに淮水を渡り北へ去ったという。しかし金は多く詐略に長け測り難い。避冦の備えは当然すべきだが、防禦の計はなおさら緩めるべきではない。昨年の敵騎追撃の失敗を鑑み、兵2万を選んで2隊に分け、一隊を浙西、一隊を江東に置き、水郷や険山に拠って迎撃すべきです。万一今冬金が渡江しなければ、宰執はあらかじめ策を講じ、来夏には兵を北へ遣り、2万を海路から文登へ趣かせ青斉を揺さぶり、2万を淮陽から鄆州・濮州を揺さぶるべきです。金の用兵は夏を最も忌むため、その忌みに乗じて攻めるべきです。得やすく失いやすいのが天の時、成りやすく敗れやすいのが人の功です。陛下には時を惜しみ急ぎこれを図られるよう願います」と述べた。

内賊平定の優先論

  • 呂頤浩は再び宰相となると、まず「内の賊を平定してこそ外の侮りを禦げる」と述べ「今、李成は摧破され、李允文は面目を革め張用を招安し、李敦仁はすでに敗れ、江淮はただ張琪・邵清の二冦のみで久しからず平定できよう。しかし閩中の冦は一様でなく、また孔彦舟は鄂州に拠り、馬友は潭州に拠り、曹成・李宏は湖南・江西の間にあり、鄧慶は富州を襲い南雄・英州・韶州諸郡を掠奪している。賊兵の多寡は様々だが、閩中の冦が最も急を要し、広東の冦がこれに次ぐ。閩中は行在から遠くなく、両広はまだ荒廃していないため、速やかに討伐しなければ患いは大きくなる」と述べ、詔により枢密院に措置させた。

遷都臨安

  • 呂頤浩は「今、国運は多難で中原とは隔絶し、江淮の地にはなお巨賊がいる。まず駐蹕の地を定め、号令が川陝に通じやすくし、将兵を順流して下し漕運が阻まれないようにすべきだ」と述べ、これにより会稽の漕運が続かないことを理由に臨安への遷都が詔された。

人材登用と朋党の戒め

  • 呂頤浩は政において有能な官吏を好んで用いたが、その多くが蔡京・王黼の門下出身であったため、弾劾を恐れて皇帝に朋党を戒める詔を出すよう願い出た。蔡京・王黼の門人でも有能な者は挙用を許すという内容であった。

劉光世との旧怨

  • 皇帝は呂頤浩に「劉光世はそなたと旧怨があるが、諸事はおおよそ融通しなければならない」と述べ、藺相如と廉頗の故事を戒めとした。また「君臣は本来一体であり、避け隔てる必要はない」と述べると、呂頤浩は怨みの経緯を具に奏上した。

為政の心得

  • 皇帝は宰執に「君主が臣下を待つには至誠をもってすべきだ。用いられない者と分かれば罷免すればよく、疑いながら留めても益はない」と諭し、また「君主の徳で仁より大きいものはない。仁の一字は堯舜でなければ体現できない」と述べた。呂頤浩らはこの聖学の明徳を仰ぎ「誠と仁の二つで心を治め身を修め家を正し天下を治めれば、なお余裕がある」と述べ、退いてこれを記録すべきと考えた。

荊湖経略の議

  • 呂頤浩は秦檜と共に天下の大計を論じ、「二広(広東・広西)の財力を用い、荊湖両路を整備し京西と陝右を通わせるべきだ。これは天下の左腕にあたる。京東諸州は叛臣に占拠されているが、これはちょうど国初の河東のようなもので、しばらく敵の防波堤として残しておき、諸路が先に定まってから力を併せて図るのがよく、遅くはない」と述べた。秦檜は「自ら一方面を担当したい」と求めたが、皇帝は「卿らは中枢を運営すべきで、他人に権を授けてはならない」と述べ、頤浩らは感嘆し詔書を受けて退いた。

秦檜との確執

  • 呂頤浩と秦檜が共に政を執っていた頃、秦檜は呂頤浩が世論に支持されていないことを知り、多くの知名の士を引き入れて助力させ、呂頤浩を排除して朝権を専らにしようとした。皇帝もこれに気づき、詔を下して朋党を戒めた。

桑仲との連携と北伐計画

  • 先に桑仲が人を遣って朝廷に「協力して京師を回復する」と告げていた。呂頤浩はこれを信じ、しばしば夏に兵を挙げ北伐して中原を回復するよう請い「人事も天の時も今は行うべき時である。維揚の変以来、武具は十のうち八、九まで失われたが、金が三路に分かれて江浙を侵すと兵はみな散って盗賊となった。陛下が軍政に専念して冗兵を淘汰し武具を修めたことで、今、張浚の軍は3万で全装の甲1万副、刀槍弓箭も揃っている。韓世忠の軍は4万、岳飛の軍は2万3千、王〓の軍は1万3千で、浚の軍ほどではないが精鋭である。劉光世の軍は4万で老弱が多いが、選りすぐれば半分は使える。神武中軍・楊沂中、後軍・陳思恭(一に巨思古とも)はいずれも1万を下らず、御前忠統の崔増・姚端・張守忠らの軍もまた2万に及ぶ。私が太祖の天下取りを考えるに、正兵はわずか10万に過ぎなかった。今は16、7万の兵がある、何をためらう必要があろうか。陛下の英断を早く定め、韓世忠・張浚と共に議して策を決し北を向くべきです。世忠は宿州・泗州から、光世は徐州・曹州から進むべきです。また明州に海船300隻を留め、範温・閻皋に4月の南風に乗じて北へ向かわせ、直ちに登州・莱州を取らせるべきです。この数路はいずれも糧が現地調達できるため民から調達運搬させる必要はありません。大兵が集まれば劉豫は必ず北へ逃げ、得た諸郡には土豪を選んで守らせればよいのです。金が兵を挙げてこの地を争おうとすれば、彼が出れば我が入り、彼が入れば我が出て、数年これを撹乱すれば中原は回復できましょう。今の戦兵の精鋭は皆中原の人であり、久しく用いなければ消耗してしまうことを深く惜しむべきです」と述べた。桑仲が進軍したと聞くと、呂頤浩は大出師を議し自ら軍を率いて北を向く決意をし、「近ごろ金が偽斉と兵を合わせ川陝を窺っているというが、もし今兵を挙げれば必ず陝西の急を牽制できる。万一王師が劉豫を追えば、金は必ず震え恐れるだろう」と述べ、韓世忠に京師から関へ入らせることも一つの奇策とした。

内外分担の職分

  • 皇帝は二相に「頤浩は軍旅を専管し、秦檜は庶務を専管せよ、周の召公・召虎のように分職せよ」と諭した。檜党もまた「昔、周の宣王は内政を修め外を攘ったからこそ中興を成し得た。今、二相は内外の事を分担すべきだ」と建言した。皇帝は呂頤浩に総師として鎮江に開府させ、頤浩は参謀官以下文武77員を辟召することを請い、都督府の印を鋳造し、激賞の銀帛2万匹両、上供経制銭30万緡、米6万斛、度牒800道、月給の公帑銭2000緡を賜り、諸州の守臣を臨時に軍前に召集し議事することも許された。皇帝は「卿は年高くして功労がある、今、総督の任を大事として卿に委ねる以上、細務に関わるべきではない」と諭し、呂頤浩は畏まって詔を奉じた。

常州駐屯と部将の叛乱

  • 呂頤浩はまもなく常州に至った。部将の趙延寿が叛くと、劉光世がこれを討伐し平定した。呂頤浩は病と称して進軍せず、まもなく召還された。

戦車の推挙

  • 呂頤浩は王大智が製造した戦車を進呈した際「大智は兵法を知り用いるに値します」と上奏した。皇帝は呂頤浩に「卿が宰相として人物を見抜くべきは大智のような者だ。今、水戦の道具を造る才を捨ててはならない」と語った。

官制と選任の建言

  • 呂頤浩は「祖宗の官制では内外の差遣はすべて審官院に委ねられ、士大夫は自ら官を求める道があった。だからこそ奔競(猟官運動)の風を戒め得た。近世は堂除(宰相による直接任用)の欠員が多く、皇帝の任用意向を犯し、士人は職を失い廉恥の道が失われている。監司・郡守・旧格の堂除通判は外に、察官・省郎以上及び館職・書局・編修官は内に、それぞれ吏部の格式に従い注擬(任命手続き)させるべきである」と述べ、これに従われた。

沿海制置使の設置

  • 沿海制置使を新設し仇悆をこれに任じ、浙西に司を建てた際、呂頤浩は「近ごろこの司を創設したのは最も得策であるが、金の船は海から来る道が二つある。一つは海北岸から明州の定海に至る道、もう一つは南岸から秀州の海塩に至る道である。万一警戒事態があれば遠く及ばない恐れがあるので、仇悆に浙西を専管させ、別に人を選んで浙東を管させるべきだ」と述べ、これに従われた。

衆議の弊害と防衛論

  • 皇帝が宰執に「朕が見るに、衆に諮り集議すれば議論が二転三転し、事態がますます決しない」と述べると、呂頤浩は「まことにその通りです」と答えた。皇帝は「朕は即位以来6年、艱難を嘗め尽くした。天の助けがなければどうして難を脱せたであろうか。今、盗賊は平定され穀物は実った、天意は明らかである。仮に敵が南下してきたら、避けるべきかどうか」と問うと、呂頤浩は「もしすべての将を江に配して敵を防げば容易に渡らせません。まず策を定めて備えるべきです」と答えた。皇帝は「千里を隔てて人を畏れるという話は聞いたことがない」と述べると、呂頤浩は「聖意がそこにある以上、諸将の誰が前進を厭いましょうか」と答えた。

御史の巡察

  • 諸路の盗賊がやや落ち着くと、呂頤浩は守令が慎まないことを恐れ、御史を諸路に分遣して巡行させることを請うた。皇帝は三省に強明廉謹な人物を選ばせ、台察が足りなければ郎官に代行させ、いずれも対面させ親筆・御璽の書付を与え、帰任の日にその成果を査定し賞罰を明らかにするよう詔した。

秦檜排除

  • 呂頤浩は江上から戻ると秦檜を排除しようとしたが機会がなかった。平江を過ぎた折、守臣の席益が「自ら党を為すのはよいが、党の首魁が要職(瑣闥=門下省)にある以上、まずそれを取り除くべきだ」と述べた。呂頤浩は大いに喜び、朱勝非を引いて朝廷に戻した。勝非は紹興知事に任じられていたが、呂頤浩は同都督への推挙という形で復帰させ、祠禄を奉じつつ侍読を兼ねさせ、さらに内批により日々都堂での議事に加わらせ、枢密院事に準じる地位を与えた。皇帝はこれにより秦檜を圧迫しようとしていた。折しも辺境の報で王倫が帰還すると、侍御史の黄龜年が「秦檜は専ら和議を主張し国家の恢復の遠図を妨げ、また党を植えて権を専らにしており、これを放置すれば禍根が育つ」と述べ、秦檜は上章して辞職を求め、罷免された。以後、朝堂に榜文を掲げ二度と秦檜を用いないこととした。

兵糧備蓄

  • 呂頤浩は「今年は必ず豊作となる。鎮江の上下に粟30万石を蓄えて軍用に備えたい」と述べると、皇帝は「もし精兵15万を選んで3軍に分ければ、何事もなせぬことはあるまい。祖宗が天下を取った際の兵数もこれを超えなかった」と述べた。

館職試験の厳正化

  • 館職の試験に虞澐・沈長卿・石公揆の三人が召試された際、皇帝は宰執に「館職の試人は実学を取るべきだ。朕自らその答案を精読したところ、沈長卿はなお朋党への傾倒が見える」と述べた。呂頤浩は「虞澐だけが問いに正しく答え、石公揆の文辞は粗略です」と述べ、虞澐だけを校書郎に任じ、他は選に漏れた。

外戚への恩数論

  • 宰執が戚里の高士曈(宣仁太后の近親)の階官落籍を上奏した際、詔により権四方客省・四方館公事に任じ官を一階転じることとされた。皇帝は「士曈は宣仁の近親で最も年長のため優遇するが、等級を飛び越えてはならない。高い爵位と厚い禄は、功を立てた将士のために取っておくべきだ。朕は外戚にみだりに恩沢を施したことはなく、今後も後宮の家で保義郎を超える官を与えることはない」と述べた。呂頤浩は「漢には恩沢侯の制度がありましたが、本朝にはもとよりそのようなものはございません」と答えた。

金との使節往来

  • 宇文虚中が金へ使者として赴いて以来、小臣や布衣(無官)の者を借官として遣わすことが多く、王倫・洪皓・朱弁らはいずれも金に抑留された。まもなく尼瑪哈(ニマハ)が澐中にあって烏凌阿思謀を館に遣り、息兵議和の意を伝え、王倫を南に帰した。ここに至り朝議は再び使者を遣ってこれをさらに促すべきと決し、潘致堯を奉表通問使に、高公繪を副使に任じ、香薬・果茗・縑帛・金銀を添えて両宮(徽宗・欽宗)と二后に献上させた。道が東京を経由するため、呂頤浩に書を作らせ果茗・幣帛を劉麟に贈らせた。

財政確保と月樁銭

  • 呂頤浩は朱勝非と共に宰相となった際、軍用が不足していたため、江浙・湖南諸路の大軍月樁銭を上供経制の係省封樁などの名目に組み入れ、その額に充てることとしたが、茶塩銭はこれに用いてはならなかった。集められた額は十分の一、二にしか満たなかったため、多くの郡邑が民に過剰な賦課をかけ、東南の大きな弊害となった。江浙の月樁銭は紹興2年(1132年)から始まった。

酒専売への言及

  • 当初、李綱が湖広宣撫使となった際、所在の州軍で酒造を許可するよう請い許された。ここに至り呂頤浩は「茶塩・酒酤は今日、養兵の財源として仰ぐところである。もし三代の井田制や唐の府兵制を復せればこれらは廃止できるが、そうでなければ財用はこれ以外にどこから出るというのか」と進言した。朱勝非は「酒酤は漢の武帝の時代、兵の興隆に伴い始まったものです」と述べ、皇帝は「千余年行われてきたのを改められないのは、これが長久の利であることを示している」と述べた。

攻守十事の上奏

  • 詔により前宰執が攻守の策を条上した際、呂頤浩は十事を上奏した。一に用兵しなければ中原は回復できないこと。二に金の将は驕り志が満ちており、これが滅びの兆しであること。三に用兵は夏季にすべきこと。四に分道進兵は、5万を泗州から汴京へ、2万を海路から沂州・密州へ、さらに2万を濠州に駐めて後援とし、深入りしてはならないこと、大将には殺掠を禁じ8月までに撤兵させ翌年再び出師させるべきこと。五に軍糧は海道の2万が1日400石の米を食べるため、明州で1ヶ月分の糧12000石を海船に積んで山東で糧を現地調達し、濠州の軍糧は淮水経由で運べば問題ないが、汴京へ向かう軍は10日分の糧を携行すれば南京で糧が得られること。六に発兵の日には皇帝が鎮江に駐蹕すべきこと。七に淮南の通泰の塩は年1400、1500万貫であるのに対し両浙はわずか700、800万貫にとどまり、通泰は両浙の倍あるため特に有能な吏を守に選ぶべきこと。八に機を逸してはならず、兵は勝ちを得ることを慮るべきこと、たとえば呉玠は和尚原で初めて敵を撃退し、饒風嶺で再び防ぎ、さらに金の関で大勝した例があること、昨年賊が淮甸を犯した際も得るところなく逃げたことを挙げ、もし出兵しなければ永遠に息をつけないこと。九に海船は閩を上とし広がこれに次ぎ、温州・明州がさらに次ぐこと、今、天がこの利をわれらに与えている以上、これを用いて登州・莱州を攪乱すべきこと、南風で往き北風で帰れば、金が鉄騎百万を擁しても防げないこと。十に今、前宰執6人の議論は必ずしも一致しないため、可否は陛下が独断されるべきこと。

湖南の旱害救済

  • 紹興5年(1135年)夏、旱害が湖南で特に深刻であった。呂頤浩は帥として荒政に心を尽くし、上供米3万石を截撥(流用)し、広西の帥・漕両司に5万石を備蓄させ水運で本路に運ばせ賑済に充てた。また助教勅・度僧牒の下賜を請い、富裕な戸に米の販売を勧め、耕作できない民には糧種を貸し与え、夏税も秋の収穫と併せて徴収するようにした。これにより多くの民が救われた。

子・呂摭の失脚

  • 子の呂摭は朝散郎・直祕閣であったが、秦檜は呂頤浩への恨みをやまず、台州の守臣・曾享に呂摭の家の内情を探らせた。折しも摭は罪を恐れて仮病を装い、これに対して衆証をもって罪が定められ、梧州に安置された。これにより呂頤浩の一族は破れた。

朱熹の人物評

  • ある人が朱文公(朱熹)に呂頤浩とはどのような人物かと問うと、朱熹は「この人は粗野で乱雑なところがあるが、一時はその働きを用いるべき人物であった。ただし道を体現した人物ではない」と答えた。