宋名臣言行錄別集上卷三十七 陳公輔

陳公輔、字は國佐。台州臨海県の人(?–1141年、享年六十六)。朱勔・王黼への迎合を拒み、靖康年間には忠憤に駆られて封事を上奏して皇帝の信任を得た。兵政・屯田・京師防衛など多くの上奏を行い、王安石の学の弊や程頤学の俗流化を批判したことでも知られる。

年表(3件)

出自と経歴

陳公輔、字は國佐。台州臨海県の人。政和二年(1112年)、上舎試第一で登第し承事郎に任じられ、九たび遷って左朝請大夫に至った。初め平江の教官となり、越州に移って博士・校書郎を経て喪に服し、喪明けて応天府少尹・右司諫となったが合州へ左遷され税を監督した。召されて尚書吏部左司員外郎、南剣州の知事、洞霄宮を主管、太平・湖広の宣撫を歴任し、参として吏部郎・左司諫・礼部侍郎・集英殿修撰・処州知事・提挙太平を経て、敷文閣待制となり再任、家にて卒去した。紹興十一年(1141年)、享年六十六。

童貫への迎合拒否

初め仕官し呉中の教官であったとき、朱勔がまさに権勢に取り入り、当官の者は皆奴のように仕えていたが、陳公輔だけは交わらなかった。朱勔の兄が喪に服したとき諸生は皆弔問に赴いたが、陳公輔は慣例に従わず弔わなかった。朱勔はますます不快に思い、権要に託して娘婿の周審言に陳公輔を代えさせ、会稽へ移らせた。

靖康の直言

初めて館閣に入ったとき、王黼が国政を執っており、陳公輔は一度もその門に近づかなかった。靖康初年、国家の存亡が危ぶまれる中、二府にはなお宣和の旧人が残り、議論は新執政と協調しないことが多かった。陳公輔は忠憤に駆られて封事を上奏し対を求め、朝に奏して夕に召されるほど、その言は皆皇帝の意にかなった。

皇帝からの信任

皇帝は靖康年間の陳公輔の章疏を聞き、その人物を見出すのが遅かったことを恨んだ。陳公輔は「中興の治は、天に対しては孝を、民に対しては誠を得ることより大きなものはありません」と進言すると、皇帝は大いに感動し、「陳某の言うところは深く諫臣の体を得ている」と詔して、尚書省にその疏を図にまとめさせ進上させ朝夕観覧した。陳公輔は皇帝のこの知遇に感じ、いっそう忠を尽くし、建康に駐蹕して興復を図ることを切に請い、王安石の学問の弊が後進を誤らせていることを論じ、また世が程頤の学を尊ぶあまり、卑俗怪異な言葉を伊川の文とし、高慢な態度を伊川の行いとし、この文を誦しこの行いをすれば賢士大夫とされる風潮を論じた。皇帝はその上奏の末尾に「卿の奏するところを見て憮然たる思いである。中外の学者には孔孟を師とするよう命じよ」と批した。

人柄

胸中は坦夷で城府(隔たり)がなく、人や物に対して至誠をもって接した。布人(庶民)の頃から風節に見るべきものがあり、二度諫官の地位にあって事を論じること闓切、人主に信頼された。邪佞の士を仇のように見たため、これを忌む者が多かった。

交友と清廉

朋友と交わるに初めは淡薄でも久しくして親密になった。日頃の奉養・服飾・肴醳に華美を好まず、家を倹素に訓え、家産に頓着しなかった。臨終の日には後事を整えるものさえほとんどなかったが、後にその清徳がますます知られた。

金への対応についての上奏

「金人の要求はやみません。陛下は寛大な度量でこれを尽くしていますが、金銀が少なくなり官庫にも無ければ民から取り立てざるを得ません。民は金帛を惜しむこと生命より重んじます。京師の財が空になるだけでなく民の怨みも招きましょう。物が足りなければ金は去らず、必ず用兵に至ることを恐れます。早くこれに備えるべきです」と述べた。

兵政三策の上奏

兵政について三説を述べた。第一に保甲の訓練、第二に選兵して京畿を実にすること、第三に東南の鎗仗手・弓手の勇強な者を起こすこと。保甲とは、近京諸郡や河北州軍で金の劫掠を受けた民の怨みを利用し百倍の勇を得るもので、統率者を得られれば必ず用いられる。京畿を実にするとは、汴京を都としていた頃は甲兵を険とし今は京師・諸邑の兵が極めて少ないため、江淮・京東西路の近地州軍から選抜した勇兵を京師諸邑に分布させることを言う。東南の鎗仗手とは、東南の兵は弱くとも鎗仗手・弓手の勇なる者は鎗牌を用いるのに巧みで歩戦に利あるため、東南諸州の鎗仗手等を選抜し防秋に備え、各州に一面から募集させるほうが、招降した賊よりも優れているというものである。

士大夫の節義についての上奏

「天下国家を維持する所以は公卿士大夫にあり、公卿士大夫が天下国家を維持できる所以は節気忠義にあります。本朝が二百年近く太平を保ち、海内が安富であったのに、一旦戎馬が長駆し中原が乱れて今なお興復できないのはなぜでしょうか。すべて公卿士大夫に節義がなく維持する力がなかったからです。崇観宣和の間、人材は最も多かったのですが、大抵畏懦軟熟卑汚茍賤であり、その中でわずかに硬骨の士がいても、しばしば仇のように憎まれ挫かれ辱められ、恥を知らず富貴を貪る徒が得意になり、風俗は日々萎靡に沈み振るいませんでした。王黼が国政を執って姦欺を恣にしても、公卿士大夫に一言でもその非を議す者はなく、平時に忠言直道の臣がいなければ、緩急の際に節義を守り死をも辞さぬ士がいるはずもありません。末年に禍難が起こると大臣は解体し、使者は命を辱め、省官は天子を棄てて逃げ、卿監は官物を盗んで逃亡する者すらいました。幸いに賊兵が退き京師が復し安んじると、人々は各々己の心のみを持ち、公道は行われず、金の再来に及んでは将相に謀なく、ついに大禍に至りました。張邦昌は重臣の身でありながら僭って偽位に即き、廷臣は勧進し祝賀し、北面に甘んじて恥じませんでした。これをもって当時の公卿士大夫の気節忠義がどこにあったのか分かります」と述べた。

京師防衛についての上奏

「今は無事のときこそ京師の防衛を重んじねばならず、しかも今は敵賊が近くにいます。聞くところによれば、大将と精兵はみな江北に渡り、江南の州軍は兵馬が極めて少なく、駐蹕の地の禁衛も単薄であるといいます。もしこの言葉が事実なら憂慮すべきです。陛下は大臣とともに江北の兵をよく考え、進退を敵の強弱に応じて決めるべきです。江南でも兵将を選び重ねて守衛の計を立て、陛下の警蹕の地の禁旅の備えも厳重にすべきです」と述べた。

皇帝の巡幸についての上奏

「陛下は九廟がいまだ還らず両宮が遠く隔たっていることを痛み、中原を恢復し仇を雪ぎ大業を成そうと孜孜として勤倹に励んでおられます。将士を淮甸に分屯させ、その暴露の労苦を思いやり、六飛(天子の車駕)を親ら御して江上を巡り、九重の至尊をもって千里の遠道を昼夜兼行し、風雨も避けず、その勤めはまことに至れりというべきです。御舟が通る州県では饗応の煩わしさもなく飲食の供給もなく、詔令は謹厳に行き渡り、少しも百姓を侵擾せず、その倹はまことに至れりというべきです。一路の田夫漁夫は歓喜して踊躍しました。陛下のこの盛徳をもって、後日大功を成し遂げた後もこの時のことを忘れず、崇高に驕らず富貴に恃まなければ、廟社は長く延び休光盛烈は無窮に伝わり億万年も泯びぬでしょう」と述べた。

攻守二策についての上奏

「今日の恢復の策は攻・守の二事に出ません。攻とは我が彼を攻めることであり、守とは彼が我を攻めるのを防ぐことです。攻は我にその勢があり、守は彼にその勢があります。攻は難しくとも急ぐべきであり、守はさらに難しくさらに急務です。見るところ、淮東の州県は連接し楚州・泗州の二城は堅牢で大軍が分屯し烽堠は相望み、容易に犯せません。淮西路は分散して遠く一軍しかありません。今、車駕を建康に移すとなれば、その地は淮東にも増して重要になります。愚考するに淮西の地に大臣を選んで臨ませ、さらに兵将を増して実を固め、諸大将に緩急相援じ首尾相応じさせれば、敵騎が来ても恐れるに足りません」と述べた。

屯田策についての上奏

「趙充国が屯田し兵を留めたことに倣い、今日も屯田をもって兵とすべきです。愚考するに淮東西・京西の諸大帥の屯田では近くの閑廃の田をすべて割き、諸帥に出戦の者を除き営田官を差し出させ、子種を収成の際に優厚に分給させ、戦時には担擎の人に充てさせ、帥幕中に専任の官を置いて営田司を管理させるべきです。その他、大屯でない近裏の州軍では官が庄を設ける必要はなく、州県に多方から百姓に帰業を勧誘させ、租賦を寛くし年限を定めれば田地の主のいるものは自然に耕作に帰るでしょう。もし逃亡絶戸の田が期限を過ぎても帰らなければ租を免じ佃作させ、その租も少なく寛くすべきです。そうでなければ絶戸の田として売り出す、これならば官も本を廃さず民もその業に安んじられ、何の不都合もありません」と述べた。

務学と用人の本末についての進言

「天下のための術に二つあります。内には正心、外には治国です。正心は学に務めることにあり、治国は人を用いることにあります。しかし本末を知ってこそ善く学に務め、忠邪を弁じてこそ善く人を用いることができます。聖人の経により聖人の心を求め聖人の道を得る、これが本です。もし陳言を採り義理に根ざさなければ、どうして務めるに足りましょうか。君を愛し国を憂い義を先とし利を後とし、平生には顔を犯し耳に逆らう言をも一身の利害を計らず、緩急には節を守り死難を厭わず一家の存亡を顧みない、これが忠です。もし公に背き私を営み禄を保ち交わりを養うだけならば、どうして用いるに足りましょうか」と述べた。