宋名臣言行錄別集上卷三十七 胡舜陟
出自と経歴
胡舜陟、字は汝明。績溪の人。監察御史から侍御史に遷り、建炎三年(1129年)、秘閣修撰を除せられ廬州の知事となった。まもなく徽猷閣待制、淮西制置使を経て沿江制置使に改まり、建康の知事となり、まもなく徽猷閣学士として静江府の知事となった。しかし役人の誣告と時の宰相の介入により静江府で取り調べを受け、獄中で最期を迎えた。
監察御史増員の建議
監察御史であったとき「御史は耳目の官であり、言をもって職とします。今の多事の時にあたり、言路を開くことが急務です。伏して睿旨を願い、御史台において監察御史で言事する者を増員し、祖宗の制を復されますように」と上言し、詔によりこれに従うこととなった。
高麗使節についての進言
靖康丁未年(1127年)、高麗が来貢した。胡舜陟は「政和以来、高麗の使者は毎年淮浙の地に来て絶えず擾害を及ぼしています。今、高麗は金国の事情に通じ、必ずわが国の虚実を窺って金に報告するでしょう。使者の来訪を止め、表のみを送らせて還らせるべきです」と述べた。
人材登用の急務についての進言
「今日、金の侵略により国勢は危急にあります。かつて湯・武・高祖・光武は賢を得て輔佐とし帝業を成しました。しかし今、陛下が用いている者は適材ではありません。唐恪は俗吏、耿南仲は腐儒、何㮚は狂生、聶昌は凶人、李回はやや優れているとはいえ迂闊、陳過庭・孫傳は忠直であっても経国済民の手腕はありません。今、敗勢を転じて功とするには、まず人材登用を先にすべきです」と述べた。
辺境防備の急務についての上奏
「河北の冦は既に遁走したと聞きますが、防備の計はなお講じねばなりません。時を惜しんで図るべきです。願わくは陛下、三省・枢密院に詔して実務に努めさせ、寸陰を惜しんでこれを先とし、辺防の大事の要点、用いうる人材の数を条陳し、日々怠らず策を進めさせ、辺備に励むよう督責してください」と上奏した。
将帥の選抜についての上奏
「今日、辺境防備の計は、兵は練り粟は積むことができても、良将を得ることが最も難しいのです。今、用兵にあたっては将帥選びが第一ですが、これが至難です。国家は童貫が兵権を握って以来、将を選ぶには必ずその家奴を先とし、他はみな賄賂で進み、その門は市のようでした。譚稹が軍を主るに及んでも童貫のやり方を踏襲し、二十年の間、この方法で将を選んでは天下の逸材を得られましょうか。願わくは宰執・侍従から省台寺監・監司・郡守・将帥の臣まで、文武を問わず才が将帥に堪える者を推挙させ、人数を限らず上聞させてください」と上奏した。
孟子の学の重視についての上奏
「晁説之が皇太子に孝経を講じさせ論語を読ませ間日で爾雅を読ませ孟子を廃するよう上奏したと聞きました。私が思うに、孔子の後、深く聖道を得たのは孟子のみです。蘇洵は『孟子の文は語が簡約でありながら意は深い』と言いました。神宗の聖学は高明であり、特にこの書を好み、科挙にこれを採用しました。晁説之はもとより州県の俗吏であり、学術を知らず、孟子を諸子百家の一つとして退けようとしています。これは聖聴を欺くのみならず、皇子に七篇の意義を聞かせず智慧を開発させないことになります。この説が一たび伝われば天下の学者がこれに倣い、経を詆り史を誹る風潮が広まるのを恐れます。願わくは東宮の官に旧例どおり論語を先に、孟子を次に読ませるよう詔してください」と上奏した。
辺境防衛策についての上奏
「今日、中原に対処するには、太祖が郭進・李漢超・董遵誨らに辺境を守らせた方策に倣うべきです。三京・関陝を分けて四鎮とし、人を選んで節帥とし、それぞれ土地の産物の賦をもって兵を養い自衛させ、隣の鎮を援けること犬牙の相錯するがごとくにすべきです。また国庫には千余万緡の銭があり、これを四鎮に給して糴本とすべきです。四帥に人を得れば、隠然として国の長城となり、江左を保つことができるでしょう」と上奏し、詔により三省に付された。
廬州守備の策についての上奏
廬州の知事となり、身をもって江北の地を守り行在を護ることを請い、「淮南の群盗は大なる者は数万、小なる者は数千あります。本州の郷兵・将兵と降将劉文舜の衆、合わせて二万人をもって、さらに群盗を招き恩をもって結び威をもって御すれば、敵を防ぐに足ります。兵を養う物資、屯泊・訓練・戦陣の方法については、面談して奏上いたします」と述べ、皇帝はその言を壮とし淮西制置使に任じた。
呂源との対立と獄死
広西を統べていたとき呂源と不和になった。呂源は胡舜陟が□汙僣擬(不正な蓄財と身分を超えた振る舞い)をしていると訴え、また秦檜への書で胡舜陟が朝政を非笑していると訴えた。秦檜はもとより胡舜陟を憎んでいたためこの説を採り、大理丞の袁柟と燕仰之を遣わして取り調べさせた。二十日ほどで、罪を認めないまま獄中で死んだ。胡舜陟は再び静江に守ったとき恵愛があり、その死を聞いた人々は皆嘆き哭き、乞食の者すら数十銭を集めて祭を行った。まもなくその家族が冤罪を訴え、再び官が事実を究明したところ、胡舜陟が金を受け取った疑いは曖昧であり、その人心を得たことは古の循吏にも劣らないと判明した。これにより袁柟らは皆吏部に送られ処分された。