宋名臣言行錄續集卷二十五 豐稷

出自と経歴

豐稷、諡は清敏公。字は相之。明州鄞県の人。進士に挙げられ、蒙城の主簿となり、しだいに監察御史裏行に抜擢された。著作佐郎に任じられ、吏部員外郎・利路の憲(提点刑獄)に遷った。哲宗が即位すると成都に転じ、召されて工部員外郎となり、殿中侍御史に遷り、右司諫に遷り、国子司業に改められ、起居舎人・太常少卿・祭酒兼侍講を経て、刑部侍郎を拝した。集賢院学士として潁州知事となり、江寧府に移り、召されて吏部侍郎となった。出て河南知事となり、真定・潁昌・応天府・湖州・杭州を歴任した。徽宗が即位すると左諫議大夫として召され、道半ばで御史中丞に除された。左遷されて工部侍郎となり、礼部に移り、枢密直学士として蘇州知事となり、越州に改められた。蔡京が宰相となると宝文閣待制に降格され、まもなく職を奪われ常州知事となり、海州団練副使に貶され睦州に安置された。道州別駕に移り台州に居住させられ、さらに除名されて越州に移り、婺州に移された。明道宮の提挙となり、七十五歳で没した。

洪範・祖訓を規範とすべしとの上疏

上疏して「陛下の明知はあらゆる事の統一を照らすに十分ですが、その明を用いて(恣意的に判断する)べきではありません。智はあらゆる変化に応じて曲当を得るに十分ですが、その智を用いる(にまかせる)べきではありません。古の道を順って考えれば、二帝(堯・舜)が聖であったのはこれによって法を定めたゆえであり、文王の典を模範としたことで成王は賢明でした。偏った聴聞は姦を生み、独断は乱を成す、これが古今の大患であり、帝王が深く戒めるべきところです。どうか陛下には『洪範』を元亀(鏡)とし、祖訓を宝鑑となさってください。深宮の中での一挙一動を、四海の則たらしめようと考え、簾の内での一言を、千載の後の法たらしめようと考えられれば、教化は行われ風俗は美しくなり、中国は安んじ遠人は服するでしょう」と述べた。

中丞としての弾劾

中丞に遷ると真っ先に蔡京の罪を論じ、蔡京は貶謫された。さらに章惇の誤国を論じ、章惇は黜けられた。さらに「宣仁太后は哲宗を輔佐して小人を退けましたが、小人が復用されるに及んで誣謗を捏造しました。今こそこれを弁明すべきです」と述べた。さらに「史官が神宗実録を修めるにあたって、王安石の日録によってこれを乱しています。どうか史臣を選んで戒め、正しい実録を完成させてください」と述べた。しばしば近習の非を論じたが、たまたま曾布が内侍を通じて宰相になろうとしていた際、豐稷は台の属官に「これを共に論じないわけにはいかない」と言った。しかし豐稷は工部侍郎に遷され、曾布はついに宰相となった。

朱熹による遺事序

朱晦庵(朱熹)は豐稷の遺事の序に「仲尼(孔子)はしばしば水を称えて『水なるかな、水なるかな』と言ったが、その言葉は簡にしてその趣旨は微妙である。孟子はその意を論じて『源泉混混として昼夜を舎かず、科(くぼみ)を盈たして後に進み、四海に放(いた)る』と述べた。これは深く体得し黙って理解したのでなければ、聖人の心を得ることはできない。誰がその言葉の意味をこれほど理解できるだろうか。志を持って世に何かを為そうとする士は、これを察して自らの本を先に立てなければならない。しかし聖賢の世からすでに久しく、道学は明らかでなく、士大夫は内に心を用いて自らの本を立てることを知らず、ただその意気と才力の盛んさに頼って世に何事かを成そうとする者が多かった。彼らの見聞は博く、詞気は美しく、議論は偉大で、節概は高く、一時的にこれを外から見れば、確かに人に優れているように見える。しかしその内実を探り、実質を問い、長期にわたる帰結を求め、人心を十分に満足させ一点の瑕疵も指摘されないような者を求めれば、十人中一人二人も見出せないだろう。ああ、豐稷公こそまさに真に『本のある』人物であったのではないか。その日頃の閑暇に心を治め気を養い自らを修めた様子を見れば、天下の物事はどれもその志を煩わせるに足りなかった。それゆえ子としては孝であり、吏としては廉であった。朝廷に立てば、上は宗廟から人主の身に至るまで、内は禁掖近幸の私事から外は朝廷卿相の用に至るまで、知って言わないことはなく、言って尽くさないことはなかった。当時の法家拂士(賢臣)が低回して事を先延ばしにし詭弁を用いて事を成功させようとする中で、豐稷公だけは正色を保ち直言し、少しも顧み避けることがなかった。退いてもこれを家族に語ることはなかった。その計慮の明察と諫説の功は、当時にはそぐわなかったが後になって的中し、深文巧詆の筆によってかえって明らかになった。彼が地方に出て政を行い、また郷里に退き、ついには荒寒寂寞の地に流謫転徙して世を去るまで、その巨細顕微の間における対処は、いずれも清明純潔で一分の欠けたところも無かった。これはまさにいわゆる『源泉混混として四海に放る』というものではないだろうか」と記した。