宋名臣言行錄後集卷二十一 范純仁
范純仁、字は堯夫、諡は忠宣公。范仲淹(文正公)の次子。恩蔭ののち進士に及第し、哲宗に仕えて宰相となった。父の遺風を継ぎ、国を憂い君を愛して名節を重んじ、司馬光の差役法改革や太后への誣謗に対しても是々非々の姿勢を貫いた。のち眼疾で失明し、章惇の政のもとで永州に貶されて没した。
年表(2件)
- 元祐三年1088年蔡確の車蓋亭詩事件で蔡確の罪を軽くするよう乞うが聞かれず、政の辞任を願い出る
- 紹聖初め(頃)1094年哲宗親政下、李清臣と意見が合わず政の辞任を求め、判頴昌府に任じられる
出自と経歴
范純仁、諡は忠宣公。字は堯夫。文正公(范仲淹)の次子。恩により官に補せられ、のち進士第に及第。哲宗に仕えて宰相となった。
若き日の勤学
文正公の門下には胡瑗・孫復・石介・李覯といった賢士が多く招かれ、范純仁もこれに従って昼夜学業に励んだ。灯を帳の中に置いて夜半まで眠らず学んだという。のちに范純仁が貴顕となったとき、夫人はなおその帳の頂に残る墨のような煤の跡を大切に保存し、子孫に示して「お前の父が若い頃勤学した灯煙の跡だ」と語った。
襄城県知事としての孝行と辞退
襄城県の知事となったとき、長兄が久しく心の病にあり、范純仁は孝子のように付き添い世話をした。秘閣書籍の編校に召されたが、兄の病を理由に辞して赴かなかった。富弼(富公)はこれを責めて「台閣の清資は人が容易に得られるものではない。小さな官ですら常調から出ることは難事なのに、なぜそこまで固辞するのか」と言ったが、范純仁は「富貴には天命がある」と答えた。
桑樹の奨励による善政
襄城の民は元来養蚕織物を営まず、桑を植える者は稀であった。范純仁はこれを憂え、罪の軽い者に対して家に桑を植えさせ、罪の軽重に応じてその本数を定めた。のちに植えた桑の生育を検分して罪を免じた。これ以来、人々はその利益を受け、范純仁が離任した後も民はこれを忘れず、今なお「著作林」と呼んでいる。著作とは彼が県の宰であったときの官名である。
旱魃への備荒
長く雨が降らない年、范純仁は将来の食糧不足を予見し、境内の客船をすべて籍に記録し、その持ち主を召して「民に食が無くなるだろう。お前たち商人は五穀を仏寺に蓄えておき、食糧が尽きたときは私がお前たちのために代わりに売り出す仲介をしよう」と諭した。商人たちはこれに従い、船で運搬して止まず、春の初めには蓄えが十数万にも及んだ。近隣の県が飢饉に陥る中、境内の民だけはそれを知らずに済んだ。
陜西からの召還と「粗」の対話
陜西転運副使から召還された際、神宗が「卿は長らく陜西で漕運を掌り、辺事に精通しているはずだ。城郭・甲兵・糧儲はどうか」と問うと、范純仁は「城郭は粗方完備し、甲兵は粗方整い、糧儲は粗方備わっております」と答えた。神宗は驚いて「卿ほどの才が朕の頼みとするところなのに、担当者は皆『粗』というのはどういうことか」と問うた。范純仁はゆっくりと「『粗』とは未だ精ならざるという言葉です。このくらいで十分なのです。陛下には辺事に深く心を留められませんよう願います。辺臣が功を求めて事を起こし、夷狄との間に禍根を結んで生霊を残害し、財用を消耗し爵賞を濫費することを恐れます。これは今日の目前の害だけでなく、後日思いがけない憂いをも残しましょう。どうか陛下には孟子の『交隣の道』を究め、孔子の『来遠の徳』を修め、好生の徳を夷狄にまで及ぼされますよう。そうすれば彼らは陛下を父母のように敬愛し、たとえ酋長が桀驁不遜であっても、その部下は侵略に用いられないでしょう」と答えた。言行録による。
諫官としての諫言と王安石批判
諫官となってからは、たびたび皇帝に休兵・省事・節用・富民・進君子・退小人・愛人材・申公論を急務とすべきこと、聚斂・苛刻・親讒佞・任偏聴を戒めとすべきことを説いた。大事は朝廷で論じ、小事は上疏し、聞き入れられなければ何度も文書を連ねて止めなかった。とりわけ君子と小人の見分けについては反復し激切に論じ、避けることがなかった。皇帝がまさに治世を求めて意気込んでいた頃、范純仁は「道は遠く馴らして至るべきであり、事は大きく速成しがたい。人材は急に求めることができず、積弊は急に改めることができない」とも述べた。范純仁は日頃王安石(荆公)と親しく交わっていたが、この頃はしばしば「五覇の富国強兵の術を用いれば君主を誤り惑わせ、天下の望みを失う」と諫めた。曽子開(曽鞏の弟にあたる曽布ではなく曽肇)の撰した墓誌による。
環慶での飢饉救済の専断
環慶が大飢饉となり、統帥が職務怠慢の罪で罷免された後を范純仁が代わって務めた。慶州に着くと餓死者が道に満ちており、官には賑恤の穀物が無かった。范純仁は常平の封樁の粟麦を放出して賑済しようとしたが、州郡ではみな奏請して勅許を得てから放出すべきだと言った。范純仁は「人は七日食べなければ死ぬ、どうして返答を待てようか。諸公はただ手を出さないでくれ、私一人が罪に座ろう」と述べて断行した。
真率会
留台を管掌していたとき、当時洛陽には多くの耆旧の名士がいた。范純仁と司馬光(司馬公)はともに客を好んだが家は貧しく、互いに約して「真率会」を開き、玄米飯一椀と酒数献のもてなしで、来往が絶えなかった。ある日、洛中の人々はこれを誇り、美事として語り合った。
差役法をめぐる司馬光への諫言
給事中に任じられた頃、哲宗のもとで宣仁太后が政を共にしていた。司馬光(司馬温公)が入相し、まず差役法を改めようとした。范純仁はこれを聞いて人に「この事は熟慮の上で緩やかに行うべきだ。そうでなければますます民の病となる。宰相の職務は人材を求めることにあり、法を変えることを最優先すべきではない」と述べた。朝廷に戻ってから力を尽くしてこれを司馬光に説いた。司馬光がなお建議を進めようとすると、范純仁はさらに「宰相は虚心に衆論を広く求めるべきで、必ずしも自らの考えのみによるべきではない。自らの考えのみによれば、諂諛の徒が付け入り迎合し、正しい士は懐を巻いて退避してしまう」と述べた。范純仁と司馬光は志を同じくしていたが、事に臨んでは是正を求めることがこのようであった。ここに至って人々はみな范純仁の公平で率直な姿勢に服した。
貢挙法をめぐる議論
司馬光は進士に朝官の保証人を立てさせた上で応挙させようとし、さらに貢挙法を改めようとした。范純仁は「挙人は朝士に知り合いを得るのは難しい。士族で都に近い者ならまだよいが、遠方の寒門の士は特に難しくなる。加えて今の朝士が必ずしも京官より優れているとは限らず、京官・選人が必ずしも布衣の者より優れているとも限らない。ただ挙用を求めさせるだけでは益がないだろう。文章を廃さないというのであれば、雑文四六の科は特別に一科を設けず、他の受験者と同じ試験場で扱う方がよい。『孟子』は軽々しく退けてはならないのは六経の『春秋』と同じである」と述べ、司馬光はこれに従った。
侍講兼任と正心誠意論
侍講を兼ねたとき、范純仁は人に「国の本は君にあり、君の本は心にある。人君の学問はまさに正心誠意を旨とし、仁を体として邪僻浮薄の説が入り込む余地の無いようにすべきである。しかる後に発する号令が宗廟社稷の福となる。どうして章句の解釈にのみ努め、口舌の弁を助ける程度で済ませてよいだろうか」と語った。経筵に在って進講する際は必ず反復してその趣旨を開陳し、人君が実践できる形に落ち着くまで止めなかった。
元祐三年・蔡確の詩をめぐる事件(1088年)
元祐三年(1088年)、呉処厚という者が蔡確が安州の車蓋亭で詠んだ詩を進上し、これを謗訕であるとした。宣仁太后はこれを見て怒り、「蔡確は私を武后になぞらえている、重い譴責を科すべきだ」と述べた。左相の呂汲公(呂大防)は敢えて異を唱えなかった。范純仁(忠宣)は蔡確の罪を軽くするよう乞うたが聞き入れられなかった。当初は蔡確を新州に貶するという議であった。范純仁は呂汲公に「この道は荊棘に覆われて七、八十年になる。我々がこれを再び開けば、自分たちも免れられまい」と述べたが、呂汲公はなお敢えて言わなかった。范純仁は政を辞することを願い出た。
免夫銭をめぐる長文の諫言
先に河北で課された夫役について、銭を納めれば夫役を免じるという制度が許され、上下ともにこれを便利だとしていたが、范純仁だけは「これでは民力はいよいよ困窮するだろう」と憂えた。ある人が「毎年一丁を差し出す夫役の費用は一万銭に及ぶ。今は七千銭で一丁を免じ、しかも百姓の奔走執役の労を免れる。便利ではないか」と言うと、范純仁は「毎年差夫の費用は一万銭というが、実際に随行する者の費用は三千銭を越えず、しかも一人の丁は官のもとで食を得られる。今、免夫の銭七千はすべて官に納められ、民はかえって家で座して食べる形になる。力は身から出るものであり、銭は民が本来持たないものである。持たないものを持たせて徴収すれば、民は病まざるを得ない。これは、自ら執役しない富民には便利でも、力はあるが銭の無い窮民には決して便利ではない。それに差夫は必要な人数を的確に計算して定めるものだが、たとえ差夫の数を倍にしても、力を出す者が多ければ多いほど民の労苦はかえって軽くなる。今、銭を出して夫役を免じるとすれば、たとえ三分の二であっても実際には十分の免夫銭を取ろうとする者が出て、その多寡を確かめる術がない。また従来、差夫は五百里の外には及ばなかったが、免夫銭は遠近を問わず届く。もし収奪を専らとする吏に当たれば、民の害はこれより甚だしいものはない」と論じた。
宣仁太后臨終の言葉
宣仁太后が病に伏したとき、宰輔が入って見舞った際、太后は范純仁(忠宣)を留めて「卿の父・仲淹は忠臣というべき人であった。章献太后の朝では太后に母の道を尽くすよう勧め、仁宗の朝では帝に子の道を尽くすよう勧めた。卿も彼にあやかるべきである」と述べた。
蘇轍の事件をめぐる弁護
ある日、三省の官が揃って参内した際、蘇轍だけが独り皇帝の前に進み、殿試の策題を論じ、漢の昭帝が武帝の法度を改めた故事を引いた。哲宗は怒って「どうして漢武帝を先帝になぞらえられようか」と述べ、蘇轍は再拝して退き「私の引用は不適切でした、罪をお待ちします」と述べた。范純仁は「漢武帝は雄材大略の主で、史書にも貶される言葉はありません。また蘇轍の論じたところは、他意があってのことではなく、ただ既に実施された政策を救おうとしたに過ぎません。どうか陛下、蘇轍を尚書右丞に留めていただきたい」と奏上した。鄧潤甫は順序を越えて「先帝の法度は司馬光・蘇轍によってすっかり壊された」と言ったが、范純仁は「そうではない、法にもともと利害の両面があれば改めるべきものです」と反論した。皇帝が「人は秦の始皇帝や漢の武帝になぞらえて言うが」と述べると、范純仁は「蘇轍が論じたのは事と時の問題であって、人の問題ではありません」と答えた。しかし結局蘇轍は罪を得て去った。
楊畏の登用をめぐる呂汲公との対立
哲宗が親政を始めた頃、呂汲公(呂大防)は殿中侍御史の楊畏を諫議大夫に昇進させようとした。范純仁(忠宣)は「天子の諫官には正しい人を用いるべきで、楊畏は用いるべきではない」と述べた。呂汲公はちょうど楊畏を味方に取り込もうとしていたため、范純仁に「もしや楊畏がかつて公について何か言ったからではないか」と尋ねたが、范純仁は「知らない」と答えた。実は皇帝が初めて范純仁を召したとき、楊畏がかつてそれに反対する発言をしたことがあったが、范純仁はそれを知らずに答えたのであった。范純仁は政を辞することを願い出たが許されなかった。のちに楊畏はまず呂汲公を裏切り、呂汲公を害することならなんでもするようになった。
人材登用における公正さ
范純仁は宰相の位にあったとき、人材を推薦する際には必ず天下の公議によった。推薦された士は自分が誰の推薦によるものかを知らされたことがなく、范純仁自身も人に恩を示したことがなかった。ある人が「身は宰相なのだから、天下の士を篭絡し、自分の門下から出たと知らしめるべきではないか」と言うと、范純仁は「ただ朝廷が正しい人を登用することを願うだけで、なぜ必ず私の門下から出たことを知らせる必要があろうか」と答えた。
眼疾と永州への左遷
范純仁は隨州に一年在任し、州の事務は些細なことまで必ず自ら関わった。客が来れば談笑して一日終始倦むことがなかった。彼は日頃から眼病に苦しんでいたが、突然完全に失明した。上表して致仕を乞うたが、章惇は堂吏に取り次がないよう戒めた。范純仁がなお意見を陳じて皇帝の意を動かすことを恐れたのである。結局、勅命が下り范純仁は永州への安置に貶された。命が下ると范純仁は泰然として道に就き、子弟には決して不平の色を見せないよう戒めて「正しく見られなくても悶えることはない、お前たちは努めよ」と述べた。ある人が范純仁を名を求める者と評したことを聞き、彼は嘆いて「七十の歳で両目とも失い、万里の旅路を望むはずがあろうか。ただ君を愛する区々たる心が止められないだけだ。もし名を好むという嫌疑を避けようとすれば、善を為す道が無くなってしまう」と述べた。
永州赴任と諸子への戒め
永州への命が下ると范純仁は喜んで出発した。子らが章惇を怨むたびに、范純仁は必ず怒ってこれを止めた。長江を下って貶所に赴く途中、舟が覆り、子らが范純仁を助け出したとき衣はすっかり濡れていた。范純仁は子に「これはどうして章惇のせいであろうか」と語りかけた。永州に着いた後、諸子は韓維が少師として均州に左遷された際、その子が章惇に「韓維は執政の頃、司馬光との議論で多く意見を異にしていた」と告げて処罰を免れたという話を聞いた。そこで、范純仁が司馬光との差役法の議論で異なる意見を持っていたことを口実に、都に帰参を求めようと言い出した。范純仁は「私が君実(司馬光)の推薦によって宰相に至った以上、同朝で議論が一致しないことがあっても構わない。お前たちは今日そのような言葉を口にしてはならない。恥じて生きるより、恥じずに死ぬ方がよい」と述べ、諸子はそれ以上言わなかった。
臨終の遺表
范純仁の病が篤くなっても意識は乱れなかった。子らが側に侍り、口述で遺表をつくらせ、全部で八事を、門生の李之儀に順序立てさせた。
遺表の概要
その表には、おおよそ「天下に先んじて憂え、聖人の学に背かないことを期する、これは先臣(父・范仲淹)が子に教えたこと、私はこれを心の糧として君に仕えました」とあり、また「宣仁太后への誣謗が未だ明らかにされておらず、太后の保佑の勤めが顕彰されないままなのは、権臣が私憤を晴らそうとしたためで、決して泰陵(哲宗)が本当にそう考えているわけではないと存じます」「未だ流刑の人々の以前の過ちが糾されず、みな聖恩によって特に赦されるべきなのに、なお存命の者にも亡くなった者にも瑕疵の汚名が残っています」「国境の防備がなお厳しく、蓄えの財貨がほとんど空になっています。城を築けば必ず守らねばならず、得た土地は耕すのが難しいものです。これらの数点をどうか御心に留めていただきたい」とあった。
忠恕の教え
范純仁はかつて「私が一生学んだのはただ『忠恕』の二字であり、一生かけても使い尽くせない。朝廷に立ち君に仕え、僚友と接し宗族と睦むにあたって、しばらくもこれを離れたことがない」と語った。また子弟には「人は極めて愚かでも、他人を責める点では明晰であり、聡明であっても、自分を許す点では曇る。お前たちはただ常に他人を責める心で自分を責め、自分を許す心で他人を許すようにせよ。そうすれば聖賢の域に至らぬ心配は無い」と戒めた。親戚の子弟が教えを請うたとき、范純仁は「ただ倹約が廉潔を助け、ただ恕が徳を成す」と述べ、その者はこれを座の傍らに書き終生守った。
人材登用の重視
范純仁はかつて「人材を得るのは難しい。事に応じて随時使えるようにしなければ、緊急のときに手が回らない。七年の病に三年もかけて用意した艾がなければ、病人はどうなるのか」と語った。そのため人材の登用を己の任として、推薦の際は必ず公議を先立て、いざ推挙するときは身内であっても遠慮せず、不当と思う人物は君主が信任していても必ず争った。
六経の教え
子弟に「六経は聖人の事である。一字を知れば一字を行い、いかなる急な場面でも必ずこれを守るべきだ。それがすなわち『有為』というものではないか、それは人次第ではないか」と教えた。
大輅と柴車の喩え
当時、西の辺境の儒帥が敵を威圧して境を斥けようと范純仁に求めてきたが、彼は自ら答えて「大輅と柴車が競い合い、鸞鳳と鴟梟が餌を争い、連城の玉と瓦礫が触れ合うようなものだ。君子と小人が力を争えば、勝てないだけでなく、たとえ勝ったとしてもそれは正しいことではない」と述べた。
成都摂帥と程頤の諫言
范純仁が成都を摂帥していたとき、程頤(程子)がまさに帰郷を告げようとして会いに来て「先生(程頤)は私に何を教えてくれるか」と問うた。程頤は「公はかつて『将帥たる者は士卒に自分を父母のように見させてこそ用いることができる』と言ったが、そうか」と問い返し、范純仁は「その通りだ」と答えた。程頤は「そう言いながら、公の政はそのようではない、なぜか」と問うた。范純仁が「聞かせてほしい」と言うと、程頤は「旧帥が新たに亡くなったのに、公は府門で音楽を張り大いに将校をもてなした。これは士卒に帥を父母のように見させることであろうか」と述べた。范純仁は「私もそれを不可と疑い、属官にこれを主宰させたのだ」と答えたが、程頤は「それはなお良くない。公と旧帥は同僚であった。同僚の義を失うことはその過ちは小さいが、属官に主帥の役をさせることはその義において重い」と指摘した。范純仁が「では享宴をやめて酒食を頒布するのはどうか」と問うと、程頤は「頒布しなくてよい。武夫は酒食を重んじるものだ。頒布しなければ必ずその理由を考え、帥に仕える義を知るだろう」と答えた。范純仁は「先生の言葉に従わず来なかったなら、この教えを聞くことは無かった」と、義を聞くことをこのように喜んだ。
科挙・恩蔭をめぐる邵伯温の語録
科挙による人材登用がなければ、稀に得られる人材もあるはずなのに、豪傑の士はこの科挙によってのみ進むことになる。恩蔭による任官と進士による任官のどちらが優れているかを論じ、進士を優れているとし恩蔭を劣るとするのは、後世の流俗の議論である。これは人に父祖の恩沢を受けることを恥じさせ、益の無い習わしにあえて努めさせ、寒門孤立の士と試験場で優劣を競わせ、僥倖の及第を栄誉とさせる。これはどういう見識であろうか。応挙もまた寒士が禄を得ようとやむを得ずこの道を借りて身を進めているに過ぎない。やむを得ない場合でなければ何のために応挙するだろうか。范純仁は最も見識のある人物であったが、それでも恩蔭と進士との間で優劣を分け、出身の無い者の官位に「左右」の字を付すことを建言した。これも一種の偏りと言わざるを得ない。范純仁は「公卿の子弟に書を読ませたいというのがこの意図であって、この考え自体は善い。しかし応挙して官を得た者だけを『読書した者』として奨めるとすれば、彼らは応挙して官を得たら読書をやめてしまうだろう。それは真に道を学ぶ者と言えるのか」と述べた。「韓持国(韓維)のような人物は本来経国の才であり、執政に用いても十分に務まる。出身が無いからといって、その執政の才を廃するべきではない」という点については「堯夫(范純仁)が特別扱いしていたのは、こうした人物のことではなかったか」と問われると、「執政はもともと突然務まるものではなく、小官から順に昇進させるものだ」と答えた。後年、呉坦求らが紹聖年間に博士として登用を退けられたのは出身が無かったためであった。彼らは布衣の身から朝廷に学識と行状によって爵位を賜り、博士に相応しいところまで来たのに、出身が無いことを理由に再び奪われた。これはどういう理屈であろうか。恩蔭と進士のいずれにも人材はいる。ただその身分によって「右」の字を加えるだけでも、人が善を為す気力を挫くことになる。邵伯温の語録による。
紹聖年間・李清臣をめぐる経緯(1094年頃)
紹聖初め(1094年頃)、哲宗が親政を始め、李清臣を中書侍郎に用いた。丞相の范純仁は李清臣と意見が合わず、政を辞することを求めたが皇帝は許さなかった。范純仁が固く辞したため、やむを得ず観文殿大学士・判頴昌府に任じた。章惇を宰相に召したがまだ着任しない間、李清臣が独り中書を担当し、宰相の地位を覬覦して免役法・青苗法を復活させ、諸路に常平使者を置いた。章惇が着任するとこれを許容できず、事にかこつけて李清臣を排し、李清臣は北京の知事に出された。建中靖国の初め、上皇(徽宗)が即位して韓忠彦を宰相に用いた。李清臣は門下侍郎となり、忠彦と李清臣は姻戚関係にあったため、忠彦は李清臣の言葉だけを聞き入れた。李清臣は再び権勢を得た。右丞の范純礼は忠彦の推薦した人物であったが、李清臣によって罷免された。劉安世・呂希純はいずれも忠彦が重んじた人物であったが、李清臣は彼らを朝廷に入れさせず、劉安世は定武の帥として、呂希純は高陽の帥として外に出された。張舜民は忠彦が諫議大夫に推薦したが、李清臣がこれを排して真定の帥に出した。これら外に出された者や朝廷に入れられなかった者はみな賢士で、李清臣が日頃から憚り登用できなかった人々であった。忠彦は甚だ気弱でこれを制することができなかった。曾布が右相となり、范致虚を用いた。諫疏には「河北の三帥が連衡している。社稷の福ではないだろう」とあり、劉安世・呂希純は同じ日に罷免された。李清臣もまた曾布によって陥れられ、北京の知事に出された。邵伯温はかつて「紹聖・建中靖国の初め、朝廷の邪正治乱が定まらない際、すべては李清臣が私意によって宰相の位を幸いに得ようとし、これを壊したことに帰する。邪説がひとたび勝てば衆小人が並び進み、李清臣自身も朝廷に立つことができなくなった。もし李清臣が紹聖の初めに范丞相(純仁)とともにあり、建中靖国の初めに范右丞・劉安世・呂希純・張舜民らとともに公議正論をもって国事に力を尽くしていたなら、朝廷に後日の禍は無く、李清臣自身も宰相の位を得て美名を享受できたであろう。これは忠臣義士が一時の治乱の機を惜しんで涙を流すゆえんである」と論じた。
総評
范純仁は国を憂い君を愛し、利害得失によって心を二つにすることがなかった。名節に意を刻み、進むことに難く退くことに易く、幾度も黜けられ廃されても志気はますます励んだ。人々はこれを父・文正公の風があると評した。朝廷にあっては専ら人材の奨進に努め、天下の善類は范純仁の登用・退けの動向を見てその消長を判じた。その論議は平らかで寛容であり、行き過ぎることがなかった。世に言う、もし彼の言葉が熙寧・元豊の時代に行われていたなら、後に大きな紛更に至ることはなかったであろうし、元祐の中でその意見がすべて申し述べられていたなら、紹聖の大臣による復讐の禍も無かったであろう、と。