宋名臣言行錄後集卷二十 彭汝礪
出自と経歴
彭汝礪、字は器資。饒州の人。進士第一位に及第した。神宗に仕え、官は吏部尚書に至った。
進士首席なるも十年不遇
故事では進士第一位の者は吏部の選には入らないものであったが、彭汝礪は選に入って十年を過ごし、人々はこれを久しいと思ったが、本人は淡々としていた。
江西運判辞令時の上疏
館閣校勘・江西運判に転じることとなり、赴任前に上疏して時事を論じ、「今患うべきは将順の臣が無いことではなく諫争の臣が無いことです。敢えて事を為す臣が無いことではなく敢えて言う臣が無いことです」と述べた。神宗はその忠を察し、長く慰諭した。
新旧の政の是非を論ず
起居舍人として召された後、着任すると執政の一人が新法・旧法いずれを取るかを問うた。彭汝礪は「政に彼此の区別はなく、ただ道理にかなうかどうかによる。今、最も大きく改められたのは科挙の選士法と差役法であるが、これを施行して士民ともに苦しんでおり、その可なることを見ておりません」と答え、執政は屈することができなかった。
紹聖元年の直言(1094年)
紹聖元年(1094年)、皇帝が初めて自ら政を専断し始め、二三の大臣を召して熙寧・元豊年間の政事を条挙させた際、人々は争ってその見聞を献上したが、彭汝礪はまるで言うことがないかのようにこれに臨んだ。ある人がこれを問うと「先日には言う者が無かったのに、今日では誰もが語れるようになったものです」と答えた。宝文閣待制・知江州に任じられて辞去の挨拶に参内した際、皇帝は懇ろに慰労し「卿とはこれで長く別れるわけではない、言いたいことはないか」と問うた。彭汝礪は「陛下が今日復興しようとされる政には是非があり、その人にも賢不肖があります。政がただ正しければ善からぬことはなく、人がただ賢であればおのずと人材を得られましょう」と答えた。曹内翰の撰した墓誌を併せ用いる。