宋名臣言行錄後集卷十九 曾肇

出自と生い立ち

曾肇、文昭公。字は子開。曾鞏の末弟。進士第に及第し、神宗・哲宗・徽宗に仕えて翰林学士に至った。

王覿の左遷への抗議

諫官の王覿が執政の意に逆らい落職・潤州知事となった際、曾肇は詞頭を封じ返し「王覿1人の出入りは軽重を左右しませんが、陛下は大臣に腹心を寄せ台諫に耳目を寄せておられます、両者は互いに欠かせないものです。今、王覿が一言執政を論じただけで即日退けるのは、腹心を愛する余り耳目を塗り潰すようなもの、危険ではありませんか」と論じた。上はこれを悟り王覿を直龍図閣に加えた。(楊文靖公、行状を撰す)

哲宗親政期の建言

哲宗が親政すると旧臣を復権させ熙豊の法をことごとく復し、公議の礼を守った者をしばしば称えた。曾肇が対面した際は太后垂簾の事には触れず、いずれも国家の大体に関わる内容を陳べ、「人主に自然の聖質があっても、左右前後に必ず適材を得ることが政の基本です。この時期に忠信端良で博古多聞の士を選んで身近に置き、諷議に参らせ顧問に備えるべきです。深宮の中で親近する者との違いは計り知れません」と述べたが、これは貴顕の意に逆らったため留任できず徐州知事に出された。

上皇即位後の言路開放

上皇(哲宗)即位後、欽聖太后が政務を執っていた頃、二府の奏事の際、簾の中から「神宗が宮中でかつて曾肇は用いるべき人物だと語っていた」との宣諭があり、召還されて中書舎人に任じられた。即日対面を請い「治道は言路を広げることに尽きます」と述べた。折しも4月朔に日食があり、先例に従い求直言の詔を出すべきところ、特に曾肇に詔を起草させ、上への言葉を敷衍して中外に告げさせた。これにより投匭(意見箱への投書)が1日千通に及び、上は天下の事情を余すところなく知ることができた。

唐太宗・陸贄への言及

「近世の帝王で治世に優れたのは唐太宗、治を語るに優れたのは唐の陸贄です。太宗の貞観の治は成王・康王の治にも比すべきと論者は言い、史官がその大要をまとめて『貞観政要』としました。陸贄は唐徳宗に仕え、知ることは必ず言い言うことは必ず尽くし、その帰するところは常に帝王の道に本づき六芸の文に照らし合わせました。この2書はいずれも一代の文章にとどまらず百王の亀鑑です。陛下にはこの2書を座右に置いて省覧され、発言や政務の指針とされれば、聖徳の一助となるでしょう」と上奏した。

堯舜の世次を巡る史記解釈

邇英閣で『史記』を読み、堯崩御後3年の喪が終わったくだりに至り、「堯舜は同じく黄帝から出ており、舜が堯のため3年の喪に服したのは舜がかつて堯の臣であったからだ」と述べた。侍読の温益が「史記の世次は信じるに足らない、もし堯舜が同じ出であれば舜が堯の娘を娶ったのは従祖姑を娶ることになる」と反論すると、曾肇は『史記』の世次、『礼記』祭法・大伝の説を上前で質し、温益は答えに窮した。

元祐・紹聖の是非を巡る詔文の起草

陳大中が「至正の論」として元祐・紹聖いずれにも過ちがあったと論じた際、魯公(曾布か)が上意によりこの趣旨で詔を起草するよう命じられ、曾肇にこれを推し進めさせた。曾肇は上に「陛下が皇極を建て朋党を消し去ろうとされるなら、まず君子と小人を分け善を賞し悪を罰することを偏らせてはなりません」と切実に説いた。その後詔は宮中から発せられ、上は魯公と曾肇に草稿の相談を命じ、禁中で共に検討する際、休息百姓・総核庶工・甄叙材良・敦奨正直・澄清風俗・振粛紀綱などの事項を挙げて戒めとした。魯公と語る際も常に丁寧に反復してこの趣旨を確認した。本朝では学士の弟が兄の制を起草する例は韓氏と曾氏(曾鞏・曾肇)以外になく、士論はこれを栄誉とした。

元祐派への連座

元祐の士大夫が再び降黜された際、曾肇は道義上自分だけ免れることを潔しとせず、共に貶されることを求め、言者もこれに続き落職して和州知事となった。