宋名臣言行錄後集卷十七 司馬康

出自と生い立ち

司馬康、字は公休。文正公(司馬光)の子。明経に挙げられ及第し、神宗・哲宗に仕えて司諫に至り、没後右諫議大夫を贈られた。

孝行と人柄

性格は端正謹厳で至孝であった。母の喪に服した際、3日間水一滴も口にせず、杖をついてようやく起き上がる有様で、見る者は皆哀れんだ。文正公が洛陽に15年住んだ間、陝洛を往来する士人で司馬康に学んだ者は退いた後も語らずにいられぬほど得るところがあり、道行く人もその容姿だけで「司馬公の子」と知るほどであった。文正公が薨じた際、夫人と同様の喪に服し悲しみに沈み、葬儀はすべて礼経と家法に従って行い、世俗の風習に流されなかった。恩賞として得たものはすべて一族に分け与えた。(范太史、墓誌を撰す)

講官としての諫言

講官として、歴代の治世が少なく乱世が多かったこと、祖宗が創業の困難と積み重ねた勤労を歴陳して上を励まし、時に応じて学問に向かい天下の大器を守るよう勧め、また太后にも禁中で常に上を訓導するよう勧め、その言葉は切実であった。また「孟子」が最も醇正で王道を陳べているため特に読むべきと述べると、哲宗は「今まさに孟子を読んでいる」と答え、まもなく講筵官に『孟子節解』14巻を編修し進めるよう詔があった。司馬康は既に病んでいたが、なお自ら力を尽くして孟子2巻を解説した。折しも諫議大夫に除せられ、まだ拝命しないうちに言うべき事柄を条陳して備え、「一度でも対面できれば極言して死んでも悔いはない」と語った。病が重くなり兖州から医者を呼んだ際、これを聞いた百姓が医者の元に赴き「百姓は司馬公の恩を深く受けている、今その子が病んでいるのだから急ぎ行ってほしい」と告げ、伝える者が昼夜絶えなかった。医者が到着した時には既に手遅れであった。司馬康の死に二聖(哲宗・太皇太后)は嘆き悼み、賻贈を手厚くした。