宋名臣言行錄後集卷十四 胡宿

出自と生い立ち

胡宿、字は武平、文恭公。常州の人。進士第に及第し、仁宗・英宗に仕えて枢密副使に至った。

楊懐敏の再任を阻止

入内都知の楊懐敏が、衛士が夜間禁中に侵入した事件に連座し和州都監に左遷されたが、権勢が長く中外を動かしたため間もなく旧職に呼び戻されようとした。胡宿は知制誥として詞頭を封じ返し草制せず、「衛士の変に懐敏が関わりながら究めて誅死を免れたのは幸い、なぜ再び側近に置くのか」と論じ、この人事は止まった。(欧陽脩、墓誌を撰す)

高齢官吏の致仕を巡る建言

70歳で致仕しない官の名簿を有司が一律に照合し処分しようとした際、胡宿は「廉恥を養い風俗を厚くするには漸進が必要」とし、当人に自ら申告させ美節を全うさせるべきと論じ、朝廷はこれに従い今も行われている。(胡宗愈、行状を撰す)

辺防武官の老齢一律罷免に反対

京師の将校で70歳を超える者が多く、その中には戦功を立てた者もいるとして、一律に告老させれば功を立てる意欲を削ぎ辺防の士気を損なうと論じた。包拯がこの一律罷免の議を進めていたが、胡宿の議論は屈せず、朝廷は最終的に胡宿の議に従った。

皇祐新楽と郊廟の楽制について

皇祐年間に新楽が成った際、常祀・朝会には新楽を用い郊廟には旧楽を用いるとの詔が下ったが、胡宿は「同律というべきなのに旧楽と新楽で音の高さが違う」ことを指摘し、郊廟に用いていない新楽を先に朝会で用いるのは、先王が上帝や祖考を祀る意に反すると論じた。

礼部の貢挙の間隔を巡る議論

礼部の貢士が4年に1度で受験生に不便との議論があり、間年(隔年)に改めよとの意見が多い中、胡宿は独り「士子が学業を廃して奔走することになる」として3年制の維持を主張、当初は非とされたが数年後にその不便が実証され、結局3年制のまま続いた。

陰陽災異の解釈と対応

陰陽五行・天人災異の説に通じ、南京鴻慶宮の火災に際し「両京は宋が受命した地であり大火は商丘(宋の分野)に主る」として、以後毎年長吏が商丘の火祀を奉じるようになった。慶暦6年夏、河北・河東・京東で同時に地震が起こり登州・莱州で特に甚だしかった際、翌年丁亥は北宮の刑徳が重なる年で陰陽の均衡が崩れる兆しとし、西北の異民族への備えと、河朔での内乱の可能性を予言、翌年果たして王則が貝州で叛乱を起こした。また登州・莱州の金坑採掘が陽気を損なうと指摘し禁止を進言した。皇祐5年正月に会霊宮が火災に遭い、その冬至の南郊祭祀で二聖(真宗・仁宗)を並配したところ翌年大旱となったため、郊丘並配の誤りを指摘し、以前のように迭配(交互に配祀)とするよう進言した。

詳議官の人選と公正

詳議官の欠員補充で、胡宿と同僚が2名を推薦したが、うち1名が水害で税収を減らした責を問われ、同僚は上に告げず内々に処理しようとした。胡宿は「小さな失点で才を惜しむべき」と上前で率直に述べ、仁宗は「才があるならなぜ小さな失点を気にするか」として登用した。同僚は驚き、胡宿の誠実さに感服した。

涇州の兵卒騒動と包拯への対応

涇州の兵卒が折支(給与)不足に不満を持ち騒動を起こしかけたが、首謀者2名を斬り4名を黥するに至って収まった。三司の吏がこの遅配を怠っていたにもかかわらず、三司使は自らの吏をかばい引き渡さなかった。胡宿は「兵卒の暴言は罪だが、給与を85日も未払いにした三司にも罪がある」と論じ、包拯が近臣ゆえに対決させないことに対しても「陛下が法を曲げて包拯を庇うなら綱紀が乱れる」と拒み、包拯は恐れて吏を獄に送った。嘉祐6年、枢密副使に任じられ、群臣が制度改革(更張)を進める中、胡宿は独り「変法は古来困難、祖宗の成法を守らず徒に紛紛としても治に益なし」とし、また契丹との60余年の通好を守り、辺境の小事で城塞を築くような挑発を戒めた。

皇嗣祈祷における真意

仁宗の命で諸陵山川に祈って皇嗣を求める青詞を作った際、胡宿は上疏し、漢の文帝が既に子がいながら諸王を立てるよう勧められた故事や、太祖が魏王ではなく太宗を立てた神武英断を引き、聖嫡を待つより宗室の賢者を早く定めるべきと説き、仁宗はこれに感じて祈祷を止めた。

私生活の逸話

客が訪ねてきた際、胡宿は正装を整えたが冠を替え忘れており、しかしそのまま礼を尽くして対応し、最後まで動じなかった。(呂氏家塾記) 胡宿は常々後進に「富貴貧賤はみな天命であり、身を修めて時を待ち、造物主に嗤われぬようにせよ」と語った。