宋名臣言行錄後集卷十三 張方平

出自と生い立ち

張方平、字は安道、文定公。宋城の人。茂才異等科、賢良方正直言極諌科に及第し、仁宗・英宗・神宗の三代に仕えて参知政事に至り、太子少師で致仕した。13歳で応天府学に入り、聡明で書物を読み尽くす記憶力を持ち、宋綬・蔡齊に「天下の奇才」と評され推薦された。

元昊への対応を巡る建策

睦州通判のとき、趙元昊が反乱の兆しを見せていた。方平は、朝廷が景徳以来約30年戦を忘れており、性急に用兵すれば必ず敗れると論じ、元昊を刺激せず時間を稼ぎつつ守りを固めるべきと説いた。「平戎十策」を献じたが、宰相呂夷簡は評価したものの採用されなかった。元昊叛乱後、朝廷が弓箭手20余万を市井の民から徴募して宣毅・保捷指揮とする策を進めたときも強く諫めたが聞き入れられず、後にこの兵が乱暴を働き民力を疲弊させた。

夏竦の総帥批判

元昊の乱で陝西四路に総帥が置かれ、夏竦が長安に座して前線に出なかった。方平は諫官として、竦が総帥の名のみで実がないと論じ、四路の帥臣にそれぞれ戦守の責を負わせるよう求め、採用された。

慶暦の和議建言

慶暦元年、用兵すでに6年に及び民も敵も疲弊していた。方平は上疏し、犬豕豺狼の如き元昊と勝敗を争うより、郊祀の赦を機に自省を示し、辺吏に善意を示させるよう説いた。仁宗はこれを喜び、呂夷簡も感服した。この歳の赦書はこの趣旨に従い、翌年10月に元昊は帰順を請うた。

河北鹽法の再徴収を諫止

前三司使王拱辰が河北の塩の専売を再び立法しようとした際、方平は仁宗に、後周の世宗が塩の密売を厳罰したが父老の訴えにより両税に塩課を組み込み禁を緩めた故事を挙げ、今の両税塩銭がそれに当たるので再徴収は不当と説いた。仁宗は驚いて悟り、密かに手詔を下してこれを罷めさせ、河北の父老は澶州で迎え出て感謝の集いを七日間開いた。

国用窮乏と朝廷の風気への諫言

陝西用兵以来の困窮を憂え、祥符以来の姑息な政治で祖宗の旧制が崩れ、任官・磨勘・任将・養兵の制度が乱れ、国用逼迫により茶塩香礬の法まで乱れたと指摘。また近年、軽薄で名誉欲の強い者が言路に立ち、台諫から吏胥に至るまで上を脅かす風潮となり、将相公卿までがこれにへつらう有様を憂えた。

「道は民を愚かにする」論への言及

著者(李幼武)は、張方平がかつて「真宗以前は朝廷が尊厳を保ち私説が行われなかったが、慶暦の六科設置以降、士人が国政の是非を論じるようになり朝廷が動揺した」と語ったことを紹介し、范諷・孔道輔・范仲淹に始まり、晏殊・鄭戩の代に欧陽脩・余靖・蔡襄・孫沔らが諫官となって以後この風潮が強まったと述べる。著者はこの論を「一を得て二を得ず」と評し、朝廷の軽重は言路の広狭にあるのではなく人主が正論を用いるか否かにあるとし、丁謂・呂夷簡の時代を例に補足している。

西蜀鎮撫(卭部川の妄言鎮定)

西蜀に赴任した際、卭部川の首領が「儂智高が来寇する」と妄言を発し、摂守が動揺して兵を築城に動員した。方平は南詔から蜀まで2000里もあり儂智高が来るはずがないと判断し、徴発した兵仗を送り返し、妄言を発した者を斬るとの令を下した。上元の観灯では城門を終夜開いたままにし、蜀は安定した。後に事の首謀者を境上で梟首し、西南夷は大いに恐れ入った。方平は三司使に召還される際、蜀の横賦40万を罷めさせ、蜀人は今もこれを記念している。

秦州での対西夏警戒

秦州知事のとき、西夏の諒祚が驕り高ぶり兵を練り城を築いて秦州に迫ったため、方平は出塞を装いつつ実際には軍を動かさず備えた。賊は来寇せず、批判者は「賊が来ないのに軽々しく動いた」と論難したが、宰相曽公亮は「兵を出さずに備えたことをなぜ軽挙と言えるか」と方平を弁護した。

英宗の太子指名に立ち会う

英宗が病篤いとき、方平を召して「明日詔を下し皇太子を立てる」との八字を示された。方平は声を励まし「必ず頴王です。嫡長で賢明ゆえ、その名を書かれるべきです」と進言し、英宗は病をおして頴王の名を書いて方平に託した。

王安石への評

神宗が王安石の登用を図った際、方平は「安石の言は偽りにして弁が立ち、行いも偽りにして頑迷、用いれば必ず天下を乱す」と論じ、安石はこれを深く恨んだ。

新法への諫言(陳州知事)

陳州知事のとき、条例司が置かれ新法により財を豊かにし兵を強くしようとしていた。方平は陛辞に際し、「水は舟を載せるが覆すこともある。兵は火のようなもので、消さねば自ら焼ける」と、新法を止めなければ必ず覆舟自焚の憂いがあると強く諫めた。神宗はこれを敬しつつも受け入れず、悵然とした。

祖宗の辺防策を論ずる

延和殿で祖宗の禦戎策の優劣を問われ、太祖の代は夏州の李彝興、霊武の馮暉、河西の折御卿らに世襲を許し、董遵誨・郭進・李漢超らに辺防を長期委任して禄を厚くし文法を緩めた結果、15万の兵で百万の効を得たと説いた。一方、太宗の代に幽薊遠征を図って以来契丹の脅威が続き、曹彬・劉延譲・傅潜らが各々十余万の兵を失い、李彝興・馮暉の一族を内徙させたことが継遷の変を招いたと述べ、真宗の澶淵の盟以後は兵革を知らぬ盛徳とした。近年の辺臣による開拓論は僥倖を狙う危険な策であり、成功しても利は臣にあり失敗の患は陛下が負うと戒めた。

契丹への歳賜と勝敗の議論

契丹への歳賜の議で、二府の面々が「これは屈辱であり、一戦して勝てる」と論じる中、方平だけが宋と契丹の戦績を尋ね、神宗の問いに「両国は大小81戦交え、張賢・斉大原の戦い一度しか勝っていない」と答え、和と戦のいずれが得策かを示した。

銅禁廃止の弊害を論ずる

王安石が銅禁を廃止して以来、姦民が銭を溶かして器物にし、辺関・海舶でも銭の流出が議論されなくなり、中国の銭が減る一方で西・北・南の異民族の地に銭が山積した。方平はこの害を強く論じ、歴代の令典を安石が一朝に削除した意図を問いただした。

安南遠征への反対

安南遠征に際し、西北の壮士と健馬を南方に投じることの弊害は測り知れず、老いた師が財を費やし功なく帰るならばそれこそ社稷の福であると論じた。

晩年の諫言と永楽の敗

方平は晩年、老いてなお報恩を思い、用兵・獄事について反復して切々と論じ、「老臣まもなく死すが、先帝に地下でお会いした際、申し開きができるようにしたい」と述べて神宗を感動させた。後に永楽の敗戦が起こると、神宗はその言葉をしばしば思い返した。