宋名臣言行錄前集卷七 种世衡
出自と経歴
种世衡は工部侍郎种放の兄の子で、恩蔭により官を得て、位は東染院使に至った。字は仲平。
武功県での威信
种世衡が武功県の知事であったとき、刑を用いること厳峻であったが、人を杖打つ際には縛りつけず、自ら欄干に凭れて磗(レンガ)の上に立たせ、杖打ちが終わるまで足が磗から落ちればまた一から数え直した。人々はこの威信に服した。また追呼(召喚)の際には人を遣わして拘束させず、ただ一片の紙を県門に掲げて「某人を追う、期日は某日に県庭に出頭せよ」と記した。その親しい者がこれを見て驚き恐れて知らせに走ると、皆期日通りに出頭した。
澠池県での機知
种世衡が澠池県の知事であったとき、県の傍らの山上に廟があり、种世衡はこれを修復しようとしたが、その梁は非常に重く誰も持ち上げられなかった。种世衡は県の役人に手搏(相撲)取りのような髪型に剃らせ、数対を馬前に引き連れて「廟で手搏を教えるつもりだ」と言った。城中の人々は皆それを見ようと従っていった。廟に着くと教えず、見物人に「まずお前たちが私のために廟の梁を運んでから、手搏を見せよう」と言った。人々は喜んで山を下り、共にこれを担ぎ上げた。まもなく梁は上がった。种世衡の権謀術数はこのようなものが多かった。
青澗城の築城
康定元年の春夏、戎(西夏)が延安を犯したとき、种世衡は大理丞として鄜州の従事であった。延安の東北二百里に廃された寛州があり、その廃塁を利用して再興し、敵の要衝に当たらせるべきと建言した。左に河東の穀物を運び入れ、右に延安の勢いを固め、北に銀・夏の旧地を図ることができ、この三つの利があるとして、朝廷はこれに従い、种世衡にその事業を監督させた。种世衡は胆勇人に優れ、戎の集落に迫っても畏れることなく、兵民と共に数か月間野営し、戦いながら城を築いた。しかし険しい地に水源がなく、井戸を掘れないとの議論があったが、地を掘ること百五十尺に至り岩盤に達すると、人夫は皆手を拱いて「これでは井戸は掘れません」と言った。种世衡は「岩を過ぎればさらに下に水がないと言えようか、砕いて掘り出せ、一畚(もっこ)あたり百金を与える」と言った。人夫は再び力を尽くし、岩盤を数重過ぎると水が果たして豊かに湧き出た。万人が歓呼して「神業だ、虜の兵に幾重に囲まれようとも、我らに困渇の憂いはない」と言った。まもなく朝廷は旧寛州を青澗城と定めた。以上范公が撰した墓誌による。
弓術の奨励
种世衡が初めて青澗城に至ったとき、吏民に弓術を教え、僧道や婦人にまでこれを習わせた。銀を的にし、命中した者にこれを与えた。まもなく命中する者が増え、その銀の重さは変えないまま的を次第に厚く、また小さくしていった。徭役の負担が重すぎると争う者があれば、これに弓を射させ、命中した者には優遇する対応をした。過失を犯した者にも弓を射させ、命中すればこれを許した。これにより人々は皆弓術に達するようになった。
蘇慕恩の心をつかむ
羌の酋長で蘇慕恩の部落が最も強かったが、种世衡はこれを撫でて用いた。ある夜蘇慕恩と酒を飲み、侍姫を出して酒の相手をさせた。种世衡は席を立ち内に入るふりをして、壁の隙間から様子をうかがった。蘇慕恩は密かに侍姫と戯れていた。种世衡は急に出てこれを押さえたが、蘇慕恩が恥じ入り罪を請うと、种世衡は笑って「あなたが欲しいのならば、そのまま差し上げよう」と言い、その侍姫を与えた。これにより蘇慕恩は种世衡のために命を懸けるようになった。二心を抱く部族があれば蘇慕恩に討伐させ、克たないことはなかった。
屬羌を使った奇襲
青澗城の東北一舎(約三十里)ほど離れた無定河の北に虜の砦があり、虜はしばしば河を渡って害を為していた。种世衡はしばしば属羌にこれを撃たせ、必ず打ち破らせた。前後で得た首級は数百、牛羊は万を数えたが、士卒を労することはなかった。それゆえ功は多く費用は少なかった。营田二千頃を開き、商賈を招いてその品を通わせ、先に元手を貸してその流通を速めることもあった。年ごとにその利息は十倍にもなった。そこで城中の草や食糧、銭幣、軍需、城守の道具はすべて外から供給を求めず、一つ申請すれば自給できる体制を建言した。
冤罪の弁明
青澗城にいたとき、属吏に不法の事を訴えられ、取り調べたところすべて記録があった。鄜延路経略使の龎公はこれを奏し「种世衡は荊棘を切り開いて青澗城を築いた、もし一々法文で縛れば辺将は手足の置き所を失う」と述べ、詔により不問とされた。种世衡が環州の知事に移ることとなり、出発前に龎公に別れを告げた際、拝礼して泣きながら「种世衡の心は鉄石のようなものだが、今日あなたのために涙を落とすことになった」と言った。
環州での撫民
慶暦三年春、范文正(范仲淹)が辺境を巡視し、環慶経略使兼知環州となった。属羌の多くが二心を抱いており、密かに元昊と通じていたため、范仲淹は种世衡が日頃から属羌の心をつかんでいることと、青澗城が既に完成していることをもって、种世衡を環州の知事に移してこれを鎮撫させるよう奏した。牛奴訛という者がおり、日頃頑固で州官に出て会うことがなかったが、种世衡が来ると聞いて郊外まで出迎えた。种世衡は「明日そなたの帳を訪れて部落を慰労しよう」と約束したが、その夜雪が三尺も積もった。左右の者は「奴訛は凶詐で信じがたく、道も険しく行けません」と言ったが、种世衡は「私は信をもって諸羌と結ぼうとしている、約束を破ってよいものか」と言い、雪をおして赴いた。着くと奴訛は大いに驚いて「私は代々この山に住んでいるが、漢の官でここまで来た者はいない、あなたはまったく私を疑わないのか」と言い、部落を率いて羅拝し、皆感激して心服した。
諸城の中で環州のみ増兵を求めず
涇原の葛懐敏が定川で敗れ、戎馬が渭水に入ったとき、范仲淹は慶州の蕃漢兵を率いて邠州を扼守し、また种世衡を召して涇原の防衛を分担させた。数千の羌兵がこれに従い、属羌が我らのために用いられるようになったのはこれから始まった。种世衡は「羌兵は使える」と考え、再び士人に弓術を教えさせ官軍を助けさせた。これにより辺境の諸城の中で環州だけが増兵を求めず、糧を煩わせずして武力を自ら振るえるようになった。夏戎は属羌が誘えないこと、また皆弓術に長けていることを聞き、烽火が相望んで警戒を怠らないため、環州にはもはや関心を向けなくなった。
剛浪㖫・天都王の離間策
当初、元昊が辺境を侵し、我が師(宋軍)はしばしば挫かれ、虜の勢いはますます盛んになって関中を併呑する意図があった。その将の剛浪㖫は野利王と呼ばれ、某は天都王と呼ばれ、元昊はこれらを腹心として頼りとしていた。我が軍への勝利はすべてこの二将の策によるものであった。种世衡はちょうど青澗城を築いていたが、これらを除く謀を巡らせた。王嵩という者はもと青澗の僧であったが、种世衡はその堅実で朴訥な性格に目をつけ、俗人の身なりに戻させた。出師の際、賊の首級を与え、これを帥府に上申して三班借職・経略司指使に任じさせ、力を尽くしてその家事を取り計らった。住居・騎乗・従者・衣食の道具はすべて种世衡から出た。王嵩は深く恩に感じたが、种世衡はかえって礼を尽くさず奴のように扱い、あるいは捕らえて数日械(かせ)につないだ。王嵩はその苦しみに耐えかねながらも、终には种世衡を怨む言葉を一言も発しなかった。种世衡はこれを見て軍事を任せられると知り、半年ほどして王嵩を召して「私はある事でそなたを使いに出したい。あらかじめ言っておくが、その苦しみはこれまで以上のものになるだろう、そなたはそれでも黙って耐えられるか」と告げた。王嵩は泣きながら「あなたの恩によって栄達を得ました、常に死をもって報いようと誓っておりました、まして鞭打ちを辞するでしょうか」と答えた。种世衡は野利への書を草した。文面は世間の通常の挨拶のようなものであったが、数句だけ隠語を交え、あたかも私的な約束があるかのように、速やかに事を運ぶよう勧める意を絹布に記し、蝋で封じて僧衣の間に密かに縫い込んだ。种世衡は王嵩に「死に瀕しない限り決して漏らしてはならない、もし漏らせば恩に背き私の事を成せなかったことになる」と告げ、また絵一幅と棗一部を信物として野利に贈らせた。王嵩は命を受けて野利のもとに至り、种世衡の命を告げて棗と亀の甲羅を差し出すと、野利は侮られたと思い笑って「私はもとより种将軍を奇としてきたが、今なぜこのような子供じみたやり方をするのか」と言った。王嵩には別の書があったが、それとなく目配せして左右を退け、後で「そのようなものはない」と答えた。野利はあえてこれを隠さず、その手紙を封じて元昊に上げた。数日後、元昊は野利と王嵩を共に召し、西北に数百里を行かせて興州という大城に至らせた。まず樞密院という官署に、次に中書という官署に赴くと、羌人数人が雑座しており、野利もその中にいた。王嵩は庭で种世衡の書の所在を問い詰められたが、堅く前の答えを守った。しだいに冠を外され髪をつかまれるなど扱いは苛烈になり、鞭打ちの苦しみが極まったが、王嵩は最後まで言葉を変えなかった。数日後、また大きな官署の広間に召され、そこには斑竹の簾が垂れ、緑衣の小姓が左右に立っていた。王嵩はこれが元昊の宮室だと察した。しばらくして簾の中から人が出て、再び前の質問を責め問い「速やかに言わねば死ぬぞ」と告げたが、王嵩は前と同じ答えを繰り返した。そこで引き出して誅殺するよう命が下ると、王嵩は大声で「初め种将軍は私に密かに野利王への書を届けさせ、決して漏らすなと戒めました。今不幸にも空しく死んで将軍の事を果たせません、私は将軍に背きます、私は将軍に背きます」と叫んだ。簾の中の者は急いで人を遣わし追って問い直させ、王嵩は詳しく答えた。そこで僧衣を脱がせて書を取り出させて奉らせた。書が入ってからしばらくして、初めて王嵩を館に留めて礼をもって優遇するよう命が下った。元昊はこうして野利が密かに元昊の寵臣を野利の使者と偽らせて种将軍のもとに送ったのではないかと疑った。种世衡は元昊が遣わした者と知りつつすぐには会わず、属官を館に遣わして労い、虜の中の山川地形を尋ねた。すると興州周辺のことは詳しく語ったが、野利の部の詳細については語れないことが多かった。ちょうど生け捕りにした虜を数人捕らえていたので、隙間からこれを見させたところ、生虜はその者の姓名を言い当て、果たして元昊の使者であることが判明した。种世衡はここに至って意を決し、これに会った。使者は野利の言葉を伝えたが、种世衡は元昊を口汚く罵り、野利には内附する意があると称えた。厚く使者を送り出して「私のために王(野利)に速やかに決断せよ、遅延するなと伝えよ」と告げた。使者が到着するころを見計らい、王嵩は帰ってきたが、野利は既に死んだと報告があった。种世衡はこの謀がすでに功を奏したことを知り、さらに天都王をも離間しようとし、境上に祭壇を設け、板に文を書いて弔い、多くは野利と天都が結んで本朝(宋)に内附しようとしていたことを述べた。この計画が成就する直前に文書を失ったことを悼み、悼みの文書は他の紙幣とともに、虜が来る気配があれば急いで焼くよう指示していたが、その版に書かれた文字は容易には消えなかった。虜人はこれを得て元昊に献じた。天都王もこれによって罪を得た。元昊は既に二将を失い、しばらくして种世衡に謀られたことを悟り、講和の策を定めることとなった。以上『呂与叔文集』による。
銀の鼓で明珠族の首領を捕らえる
宝元年間、党項が辺境を侵し、明珠族の首領が驍悍で最も辺境の患いであった。种世衡は将として計略でこれを捕らえようと考えた。首領が太鼓を打つのを好むと聞き、馬に乗せた戦鼓を作らせ、銀で包んで極めて華美にし、密かに間者にこれを偽って売らせ明珠族に入り込ませた。そして驍勇な兵数百人を選び「銀の鼓を背負って現れる者を見たら、皆で力を合わせて捕らえよ」と戒めた。ある日、羌の酋長が銀の鼓を背負って現れ、たちまち捕らえられた。