宋名臣言行錄前集卷二 錢若水

出自と経歴

  • 錢若水、追封は宣靖公。字は淡成、河南の人。進士に及第し、同知樞密院事に至った。

陳希夷の相人(麻衣道者の予言)

  • 若水がまだ挙人であった頃、華山の陳希夷(陳摶)を訪ねた。翌日再訪すると、希夷とともに囲炉裏を囲んでいた老僧が若水をじっと見つめ、火箸で灰に「做不得(できぬ)」の三字を書いて「急流の中で勇退する人だ」と言った。若水はそのまま辞去し、希夷は引き留めなかった。若水はのちに樞密副使となり四十歳で致仕した。希夷は当初若水に仙風道骨を見たが、僧の見立てにより「神仙にはなれぬが、それに近い」と判じたという。この僧は麻衣道者であった。

女奴失踪事件の再審(冤罪の防止)

  • 同州推官であった若水の時、富民の家の少女奴隷が失踪し、その父母が訴え出た。担当の録事は富民に借金があり返済を渋られていたことを恨み、富民父子が少女を殺して水に沈めたと決めつけ拷問により自白させた。上位の官吏も再審で異を唱えなかったが、若水だけは死体が見つからないことに疑いを持ち審理を保留した。数日後、密かに人を遣わして少女の行方を捜させ、ついに生存を確認して知州に届け出た。父母が本人と対面して確認すると、富民父子は釈放された。実は近隣の若者が別の理由で殺人を犯していたことも判明した。若水は功を誇ることなく「ただ冤罪を防いだだけだ」と固辞し、知州は「これほどの見識は真似できない」と感服した。太宗もこれを聞いて若水を抜擢し、二年のうちに樞密副使とした。

詔書の名文(金坡遺事)

  • 若水が学士として趙保忠への詔勅を起草した際、「不斬繼遷、存狡兔之三穴、潛疑光嗣、持首鼠之兩端」の句を用いて太宗を大いに喜ばせ、太宗は「まさに私の意を言い当てている」と評した。別の詔でも太宗が自ら「この詔文は極めて良い、子孫に大切に保存させよ」と書き添えたという。

李継隆の誣告からの三転運使の救済

  • 李継隆と転運使の盧之翰らが不和になり、李継隆は虚偽の檄文で転運使らを陥れ、太宗を激怒させて即座に処刑を命じた。宰相の呂端、樞密使の柴禹錫すら誰も諫めない中、若水だけが「まず事実を検証してから処罰すべきです」と食い下がり、太宗が激昂して退出した後も廷中に残って直訴した。太宗が「そなたを賢と見込んで抜擢したのに、なぜこのように出しゃばるのか」と問うと、若水は「李継隆は外戚として重んじられ、その一片の奏書だけで転運使三名を誅すれば、罪の有無を天下は知り得ません。検証の上で誅しても遅くはありません」と答え、太宗もついに折れて呂端らの意見も容れ、まず罪状を糺すこととした。三名は行軍副使に降格されたに留まり、後に虜の侵犯自体が虚言と判明し、李継隆も罷免された。

辺境防備の五策

  • 詔により辺境防備策を求められた若水は、一に郡守の選任、二に郷兵の募集、三に糧秣の蓄積、四に将帥の重用、五に賞罰の明示、の五事を上奏した。

軍の統率と城綏州の議(玉壺清話)

  • 若水が河を渡って軍を率いた際、号令が整然としており将士に敬服された。太宗は「儒者が兵を語るのは机上の空論に終わりがちだが、若水は実務に通じている」と評した。綏州に城を築いて党項に備える議が起きた際、若水は疾駆して現地を検分し、その建策を退けさせ、当時の議論もこれを妥当とした。

節を全うする道

  • 至道初め、呂蒙正が宰相を退き寂しく過ごしているだろうと太宗が語った際、劉昌言は「呂蒙正の地位は名誉あるものだ」と応じたが、若水は「高尚な人物は名位を光栄とせず、忠正の士も窮達で志を変えない、爵禄への恩顧で忠を尽くすのは中人以下のすることだ」と述べた。後に劉昌言が罷免され涙を流したと側近が伝えると、太宗はそれを不甲斐ないと評したが、若水は「実際は涙を流していない、側近が上のご機嫌を取っているだけです」と正した。若水はこれを機に、君主に節を尽くす臣が乏しいことを痛感し、自ら辞意を固めて上表し、真宗即位の初めにようやく致仕が認められたという。