出自と経歴
- 呂端、追封は正惠公。字は易直、幽州の人。蔭位により補官し、太宗の宰相となった。
高麗使行での泰然(玉壺清話)
- 呂端が高麗に使いした際、風濤で帆柱が折れ、船中の人々が大いに恐れる中、呂端一人は書斎にいるかのように平然と読書していたという。
「大事に糊塗せず」の評(呂氏家塾記)
- 太宗が呂端を宰相にしようとした際、側近が「呂端は物事に鈍く糊塗(あいまい)だ」と評したが、太宗は「呂端は小事には糊塗だが大事には糊塗しない」と言い、意を決して宰相に据えた。
李継遷の母の処遇を巡る進言
- 保安軍が李継遷の母を捕らえた際、樞密副使の寇凖は保安軍の北門で斬るつもりであった。呂端はこれを聞き、寇凖を呼んで「それは得策ではない」と説き、自ら真宗に奏上した。項羽が劉邦の父を煮殺そうとした故事を引き、「大事を図る者は肉親を顧みない、李継遷はなおさら悖逆の徒。今、母を殺せば李継遷を捕らえられるわけでもなく、ただ怨みを深めるだけです。延州で厚く養い、招撫の材とすべきです」と進言し、真宗は「そなたがいなければ事を誤るところだった」とこれを容れた。
太宗崩御時の機転
- 太宗が病篤くなった際、李太后は宦官の王継恩と共謀し、参政の李昌齢・殿前指揮使の李継勲・知制誥の胡旦らと結んで太子(真宗)ではなく潞王元佐を立てようとしていた。太宗崩御に際し太后は王継恩を呂端のもとへ遣わしたが、呂端は事の異変を察して王継恩を閤内に閉じ込め見張りを立てた上で参内し、太后に「先帝が太子を立てたのはまさに今日のためです、これに背いてはなりません」と説き、太子を迎え立てた。
真宗即位への慎重な確認
- 真宗が即位し垂簾のうちに群臣を引見した際、呂端は殿下に立ったまま拝礼せず、簾を巻いて自ら真宗の姿を確かめてから初めて階を下りて群臣を率い万歳を唱えて拝礼した。
趙普の評
- 趙普が中書にあり呂端が参政であった頃、趙普は人に「呂公は奏事が採用されても喜ばず、退けられても懼れない、真に台輔の器だ」と語った。
持重簡易な政風
- 呂端は宰相として重厚で清静簡易を旨とし、廷議での主張は少なかった。真宗は「今後、中書の事は必ず呂端の裁定を経てから奏上せよ」との手札を下したが、呂端は謙遜してこれを固辞したという。