出自と経歴
- 張齊賢、追封は文定公。字は師亮、曹州の人。賢良方正科に及第し、太宗の宰相となった。
十策の献策と太祖の言葉
- 太祖が西都(洛陽)に行幸した際、布衣であった張齊賢は策を献じたいと願い出て面前に召された。地に手で図を描きながら「一に并汾(北漢平定)、二に富民、三に封建、四に孝悌の奨励、五に賢者の登用、六に太学、七に籍田、八に良吏の選抜、九に姦の懲罰、十に刑の緩和」を説いた。太祖は四つの策には賛意を示したが、張齊賢はなお残る六策も善しと言い張り、太祖は怒って武士に引き出させた。しかし太祖は帰京後、太宗(当時晋王)に「私は西都でただ張齊賢という人物を得た。今は官に就けないが、いずれお前が用いよ」と語った。太宗即位後の科挙では、張齊賢を上位にしようとしたが係の失策で三甲末席となった。太宗はこれを不満とし、その榜の合格者すべてに京官を与えるよう命じた。張齊賢は初め衡州通判となったが、十年経たずして果たして宰相となった。
太祖の前での豪胆さ
- 太祖が西都で張齊賢の献策を受けた際、宴席で衛士に交じって大盤から手づかみで食事をした張齊賢は、太祖が柱斧で頭を小突いても動じず食べ続けたという。太祖はのちに太宗に「西都で私が得たのは張齊賢という宰相の器だ」と語った。
転運使としての善政
- 張齊賢が江南転運使であった頃、吉州沿江の勾欄地銭(水没した土地への課税)や、水上に筏を編んで暮らす民への水場銭など、実態のない租税を悉く免除させた。
家産争いの見事な裁定
- 真宗の代、外戚の家で財産分与を巡る争いが幾度も朝廷に持ち込まれ真宗自らも裁定できずにいたところ、張齊賢が自ら治めることを願い出た。争う両家に「お前たちはそれぞれ相手の分が多く自分が少ないと言うのだな」と確認させ、双方に証文を取った上で家財を動かさぬまま両家の住居を入れ替えるよう命じた。訴えはこれで止み、真宗は「そなたでなければ決められなかった」と大いに喜んだという。