宋名臣言行錄前集卷一 呂蒙正

出自と経歴

  • 呂蒙正、追封は許国文穆公。字は聖功、河南の人。進士甲科に及第し、太宗・真宗の宰相となった。

寛猛の政(淳化三年)

  • 淳化三年、太宗が「治国の道は寛猛の中庸にある」と宰相に語ると、呂蒙正は老子の「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」を引き、内外から制度改変を求める上書が多いことを憂い、「陛下には清浄の化を漸く行っていただきたい」と述べた。太宗は「言路は塞がぬが、愚見の中から賢者に取捨させるのも古の道理だ」と答え、趙昌言も「今は事無く辺境も静謐、善政を尽くす好機です」と賛じた。

水清ければ魚棲まず

  • 汴水の運搬卒が私的な取引をしていることが問題視された際、太宗は「幸いの門は鼠穴のようなもの、はなはだしい者だけを罰すればよい」と語り、呂蒙正も「水清ければ魚棲まず、人が厳しすぎれば従う者がいなくなる。小人の情偽は君子にも分かっているが、大度で包容すれば万事が円滑に進む」と応じた。太宗のこの発言は黄老の道に適うものと評された。

三度の入相と親族への配慮

  • 呂蒙正は三たび中書に入ったが、趙普と並んで親族を通じた寵愛を求めなかった。子の従簡が旧制通り水部員外郎への任官と朝階の加増を受けようとした際、呂蒙正は「自分は甲科及第でも初任は六品京官に過ぎなかった。まだ幼い従簡がこの厚遇を受ければ天罰を招きかねない」として固辞し、六品京官への任官のみを願い出た。以後これが制度となったという。

人の過ちを覚えない度量

  • 呂蒙正は人の過失を記憶にとどめない性質で、初めて参知政事となった際、御簾の内から「あんな若造が参政か」と嘲る声が聞こえても聞き流した。同僚が名を糺そうとすると、呂蒙正は「名を知れば一生忘れられなくなる、知らぬに越したことはない」と止めた。当時の人々はその度量に感服した。

二百里を照らす鏡を拒む

  • ある朝臣が二百里先を映すという古鏡を献上し取り入ろうとした際、呂蒙正の弟がそれを取り次ごうとすると、呂蒙正は「私の顔は皿ほどの大きさもない、二百里先を照らして何になろう」と笑って断り、聞いた人々は李衛公にも勝る賢明さだと感嘆した。

人材登用の心得

  • 呂蒙正は諸子に「私の宰相としての評判はどうか」と尋ね、諸子が「天下無事で蛮夷も服しているが、実力があるからではなく同僚に権を奪われているだけだと評されている」と答えると、呂蒙正は「私に才は無いが、人を用いる一事だけは長けている、これこそ宰相の務めだ」と語った。呂蒙正は懐に持つ冊子に、地方官の交代のたびに面会して人材の噂を書き留め、複数人から評価される者を賢と見なして推挙した。文武百官が各々の職に適う人事ができたのはこの工夫によるという。

甥・夷簡の推挙と富弼の逸話

  • 呂蒙正が引退して洛陽に住んでいた頃、真宗が汾陰祭祀の帰路に病床を見舞い、子の中で誰が用いるに足るかを問うと、呂蒙正は「私の子はみな凡庸だが、甥の夷簡は潁州推官で宰相の器です」と答えた。真宗はこれを記憶し、のちに夷簡は大用された。また、若き日の富弼の父が貧しく呂蒙正の門下にいた頃、十歳ほどの富弼を書院に入れさせてほしいと願い出て許され、呂蒙正はその才を見抜いて「将来私と並ぶ地位に至るだろう」と諸子とともに厚く学ばせた。呂蒙正・富弼は共に二度宰相を務め、共に司徒として致仕したという。呂蒙正の人物眼の確かさを示す逸話である。