宋名臣言行錄前集卷一 曹彬

出自と経歴

  • 曹彬、追封は済陽武恵王。字は国華、真定の人。太祖・太宗・真宗に仕え、位は樞密使に至り、太祖廟庭に配享された。

後周時代の忠実さ

  • 太祖がまだ後周世宗に仕えていた頃、曹彬は世宗の側近として茶酒を掌っていた。太祖が酒を求めても曹彬は「これは官の酒であり私的に与えられない」と断り、自ら買った酒でもてなした。太祖は即位後、群臣に「世宗の旧臣で主を欺かなかったのは曹彬だけだ」と語り、腹心として信頼し、蜀征討軍の監督にあたらせた。

蜀征討での軍紀と謙譲(李宗諤撰行状)

  • 蜀攻めの都監となった曹彬は、諸将が屠城・殺降を望む中で一人これを厳しく禁じ、賞罰を明らかにして戦を進め、破竹の勢いで峡中の郡県を降した。しかし成都で王全斌ら諸将が酒色に耽り軍紀を乱して蜀の反乱(全師雄の乱)を招くと、曹彬は崔彦進とともにこれを鎮定した。太祖が王全斌らの非違を問うた際、王仁贍は諸将の奢侈違法を並べ立てつつ、曹彬だけは清廉慎重であったと述べた。太祖が王全斌らを処罰し曹彬に恩賞を加えようとすると、曹彬は「蜀を収めた将校が皆処罰されたのに自分だけ厚賞を受けては、天下に示しがつかない」と固辞したが、太祖は「功があって驕らぬのが尊い」と諭して受けさせた。

婦女の保護と無私(晋公談録に関連)

  • 蜀攻略の際、曹彬は捕らえた婦女を一軒の屋敷に閉じ込めて衣食を給し、事が終わると身寄りに返すか礼を尽くして嫁がせた。凱旋の輜重が多いとの讒言に太祖が密かに調べさせたが、図書のほかは金一銖・錦一寸すら私していなかった。王仁贍が諸将の貪欲を並べる中でも「清廉慎重なのは曹彬一人だけだ」と語ったという。

殺降事件の処理(晋公談録)

  • 王全斌らが蜀の降兵三千人を殺した際、曹彬だけはこれに従わず文案に署名しなかった。太祖が事の調査を命じると、曹彬は自ら退かず罪を認めようとしたが、実は署名していない文書を残しており、それは母を安んじるための配慮であったと太祖に明かした。太祖はその心遣いを深く評価した。

江南征討の起用と太祖の激励

  • 太祖が曹彬・潘美に江南(南唐)征討を命じた際、曹彬は自らの力不足を理由に辞退したが、潘美が強く江南攻略の可能性を説き、太祖も出征前に自ら酒を勧め、曹彬の厚重さと潘美の明鋭さを互いに補わせて軍紀を保たせた。号令が徹底し妄りに人を殺さずして江南は平定された。

金陵開城の経緯と後主への礼遇

  • 曹彬はたびたび南唐後主に降伏の期限を告げ、寛容な態度で臨んだが、後主は左右の言を信じて疑い、ついに城は陥落した。曹彬は礼を尽くして後主を迎え、朝廷への帰順後の費用に備えて十分に荷造りするよう勧めた。副将たちが後主の身柄について不安を述べても、曹彬は「後主に自ら命を絶つ勇気はない」と見抜き、その通りとなった。

江南平定後の軍紀

  • 江南平定にあたり、掠奪された官吏の親族はただちに返還させ、軍中で婦女を隠し持つことを固く禁じ、貧窮者を救済した。帰還する船には図書と衣服のほか何もなかった。

金陵攻略時の「仮病」の逸話

  • 金陵陥落間際、曹彬は突然病と称して政務を執らず、見舞いに来た諸将に「この病は薬では治らない、諸公が城を得ても妄りに人を殺さないと誓ってくれれば治る」と告げ、諸将は香を焚いて誓約した。翌日には病が癒え、金陵は無事に接収された。同時期に江州を攻めた曹翰は容易に落ちぬ怒りから城内を屠戮し、その子孫は三十年経たずして零落したのに対し、曹彬の子孫は今なお栄えているという。

拝相の約束と辞退(沂公筆録)

  • 太祖は江南平定の暁には宰相の印を授けると約していたが、凱旋後もこれを果たさなかった。理由を問われた太祖は「河東がまだ平らかでないうちは、そなたたちの官位をこれ以上高くできない」と答え、代わりに曹彬らの一族に銭百万を賜った。曹彬は帰宅して金の山を見て「良い官職とは結局多く銭を得ることに過ぎぬ、宰相でなくとも構わない」と嘆じたという。

樞密使としての謹厳

  • 曹彬は樞密使となってからは常に礼服姿で端座し、身分低い小吏にも礼をもって接し名を呼び捨てにせず、私邸では賓客を安易に通さず、雪霜の日も欠かさず五更に宮門で出仕を待った。この生活を八年続けた。

徐州での温情ある裁き

  • 徐州で罪を犯した吏がいたが、曹彬は一年余り処罰を延ばした後にようやく杖罰を科した。理由を問われると、「この者は新婚であり、すぐに罰すれば舅姑が嫁を疎んじて虐げるだろうから、時をおいたのだ。ただし法は曲げていない」と答えた。

仁愛と謙遜の人柄

  • 曹彬は「これまで戦で多くの人を殺したが、私情で一人も殺したことはない」と語った。住まいが荒れても「冬に虫が壁に潜んでいるから」と修繕を控えるほど生き物に情け深く、江南平定の帰還時にも「勅命により江南で公務を執り行ってきました」と謙遜に報告するなど、謙虚さを貫いた。

生まれつきの将相の器と清廉(玉壺清話)

  • 曹彬が生後一年の周晬に、父母が玩具を並べて何を取るか見たところ、干戈と俎豆を手に取り、やがて印を取ったという。のちに果たして樞密使・宰相格に至った。爵禄をひけらかさず、来訪者には自ら降りて礼をし、下吏の報告には炎暑でも冠を脱がず接し、江南・西蜀二国を平らげても持ち帰ったのは書物と寝具のみであったという。

対比される風格

  • 曹彬が向敏中とともに樞密にあった頃、契丹や李継遷の侵犯に対して曹彬は速戦即決の武断策を、向敏中は慎重な用兵論を述べ、意見はしばしば分かれたが、曹彬は常に自ら任に当たると懇請した。その子曹瑋も将才があり辺境で威名を得たが、父に比べて戦を好み、寛柔さでは及ばなかったという。

四国平定と後世の評(渑水燕談)

  • 曹彬は前後して南唐・西川・広南・湖南の四国を降したが、無実の者を一人も殺さず、子はみな賢才であった。子の曹瑋・曹琮・曹璨らは代々の重職を継ぎ、末子の曹玘の娘は慈聖光献太后(仁宗の后)となり、累代の朝廷を輔佐した。漢の馬援・唐の郭子儀にも劣らぬ陰徳の厚さと評される。