出自と経歴
- 趙普、追封は韓国忠献王。字は則平、幽州の人。太祖・太宗に仕え、位は中書令に至り、太祖廟庭に配享された。
滁州判官時代の寛大な裁き
- 趙普が滁州の判官であった頃、太祖は彼と語り合ってその才を認めた。ある時、百余人の盗賊を捕らえて処刑しようとしたが、趙普はその中に冤罪の者がいると見て太祖に再審を進言し、結果として十七、八人が助命された。
藩鎮抑制の献策
- 太祖が李筠・李重進を誅した後、趙普を召して、唐末以来数十年で王朝が十度も交替した理由と、天下太平の長久策を尋ねた。趙普は、節度使の権力が強く君主が弱いことが乱の根本であり、その財政・精兵・権限を朝廷に収めれば天下は自然に安定すると説いた。太祖はこの言葉に深く得心した。
杯酒釈兵権
- 太祖はのちに石守信・王審琦ら旧臣と酒を酌み交わした夜、天子の位は思いのほか辛いものだと嘆き、部下に擁立されて皇帝になった自らの経緯を引き合いに、彼らにも同じ危険があると諭した。功臣たちは恐れ入って翌日には病と称して兵権を返上し、良田・邸宅を与えられて安穏に余生を送った。あわせて転運使・通判を置いて地方の財政と精兵を朝廷が統括する体制を整え、諸将も皆無事に子孫まで富貴を保った。趙普の深謀と太祖の果断によって天下が治まったとされる。ただし趙普の人柄は陰険な面もあり、権勢を用いて人を陥れることも多かったと伝えられる。
太原攻めを見送らせた進言(邵氏聞見録)
- 太祖の代、御史中丞の雷徳驤が趙普の邸宅の強引な購入や蓄財を弾劾した際、太祖は「趙普は我が社稷の臣だ」と一喝してこれを退け、趙普を厚く庇った(涑水記聞)。
- ある大雪の夜、太祖と晋王(太宗)が趙普の邸を突然訪れ、酒を酌みながら南征北伐の順序を相談した。太祖が先に太原(北漢)を攻めたいと言うと、趙普は、太原を落とせば逆に契丹と直接対峙することになるため、諸国平定を先にすべきだと諫め、太祖もこれに従って江南攻略を先に定めた(邵氏聞見錄)。
符彦卿への兵権付与を諫止
- 太祖が符彦卿に兵権を与えようとした際、趙普はたびたび諫めたが太祖は聞き入れなかった。趙普が重ねて諫めると、太祖は「符彦卿が朕を裏切るはずがない」と言い、趙普は「では陛下はどうして周の世宗を裏切られたのですか」と切り返し、太祖は黙って計画を中止した。
曹翰の幽燕攻略問答
- 太祖が幽燕の地図を示し、攻略の可否を趙普に尋ねた。趙普は「攻める者は曹翰でしょうが、彼が死んだ後は誰が守るのか」と問い、太祖は答えられず、以後幽燕攻めの話を絶った。太宗の代になって河東平定の勢いで燕薊を攻めようとした際、趙普は鄧州にいながら上疏して力諫した。その憂国の深さは文章の巧拙を超えるものであったという。
人事を三度奏請して押し通す
- 趙普がある人物を官に推挙したが太祖の意に合わず、三度奏上してようやく用いられ、その人物はのちに職務をよく果たした。
賞罰は天下の賞罰
- 功のあった臣下の昇進を太祖が私情で拒んだ際、趙普は「刑罰と褒賞は天下の公のものであり、陛下の喜怒によって左右してはならない」と強く諫め、宮門の前で退かずに立ち続け、ついに太祖を得心させた。
投書を焼く甕
- 趙普は宰相府の屏風の後ろに大甕を二つ置き、利害を訴える投書が集まるとそのまま焼き捨てさせた。
桑維翰評(楊文公談苑)
- 太祖が「桑維翰のような宰相がいれば」と漏らすと、趙普は「桑維翰は金銭を愛する人物ゆえ、もし用いれば陛下も金を惜しまれよう」と応じ、太祖は「短所は目をつぶればよい、大きな屋を金十万貫で塞げるようなものだ」と笑ったという。
微時の欠点を口外せぬよう戒められる(普公談録)
- 太祖の天下取り以前の欠点を趙普が繰り返し話題にしようとした際、太祖は「塵芥の中から天子・宰相を選び出したと世に知られれば人心が離れる」と戒め、以後趙普は再びその話をしなかった。
江南後主の贈銀と太祖の応対
- 趙普が政務を執っていた頃、南唐の後主が銀五万両を贈った。趙普が太祖に伺いを立てると、太祖は「受け取ってよいが、書状で謝意を伝え、使者にわずかな返礼をせよ」と命じた。その後、後主が弟の従善を朝貢に遣わした際、太宗(当時は宮中で)は密かに趙普への贈与と同額の白金を与えており、江南の君臣はこれを聞いて震え上がったという。
呉越からの贈物と太祖の受納
- 太祖が趙普の邸を突然訪れた際、ちょうど呉越の銭俶からの書状と海産物の甕十個が届いていた。太祖が中身を尋ねると金の粒であったため、趙普は知らなかったと恐縮して謝ったが、太祖は「取っておくがよい。彼らは国事がすべて書生(趙普)の一存で決まると思っているのだ」と笑って受け取らせた。
参知政事の設置と権限分割
- 趙普が宰相となった当初、薛居正・呂餘慶を参知政事として補佐させたが、印を扱わず、政務を単独で奏上せず、班列にも並ばせず、趙普が事実上すべてを一存で決めていた。のちに盧多遜の弾劾や雷有鄰の告発を経て、参知政事にも印の管理・奏事・班列参加を認め、権限を分割する詔が下った。
人物評
- 趙普は深沈で厳しく、猜疑心が強い反面、吏務に通じていたが学問には乏しかった。太祖に読書を勧められてからは晩年まで書を手放さず、宰相として天下を己の任とし、沈毅果断な点で当代並ぶ者がなかったという。
昭憲太后の金匱の誓いと再登用
- 昭憲太后は聡明で太祖の政治に参与し、病篤くなった際、太祖に「天下を得たのは後周が幼君を立てたためだ。お前の死後は弟に位を伝え、いずれ弟の子にも安泰を得させよ」と遺言した。太祖はこれを承知し、太后は趙普を呼んでその誓約書を記させ、趙普は書の末尾に自署して金匱に納めさせた。太宗即位後、趙普は盧多遜の讒言で河陽に出され不安な日々を送っていたが、太宗が金匱の書を見つけて事情を悟り、急ぎ趙普を呼び戻して再び宰相とした。
祖吉事件での諫言(沂公筆錄)
- 太平興国年間、贓罪に問われた朝臣の祖吉が郊祀の恩赦の対象から外されようとした際、趙普は「刑罰は正しく行うべきだが、郊祀の赦は天地への告げであり、祖吉一人のために改めるべきではない」と奏し、太宗もこれを了とした。
弥徳超の誣告事件(沂公筆談)
- 弥徳超が曹彬を謀反ありと誣告し、太宗が疑って弥徳超を樞密副使に任じたが、まもなく趙普が再び宰相となってこの誣告を弁明し、太宗は事の真相を悟って弥徳超を退け曹彬を元通りに遇した。太宗が「聞き分けが至らなかった」と反省すると、趙普は「有能な者は用い、無実の者は雪冤する、これこそ陛下の明聖であり、堯舜も及ばぬところです」と応じた。
李継遷への対応(玉壺清話)
- 李継遷が辺境を騒がせた際、太宗は趙普の計により趙保忠を夏台の故地に封じて李継遷討伐に当たらせたが、趙保忠は逆に李継遷と結んで辺境の大患となった。