出自と魏末の官歴
- 呂思禮、東平夀張の人。性は温潤で交遊を雑えなかった。14歳で徐遵明に学び論難に長じ、諸生は「講書論易その鋒は敵し難い」と評した。秀才に挙げられ對策で高第となり相州功曹參軍を除せられ、葛榮の鄴包囲では守禦の勲があり平陸縣伯に封ぜられ欒城令を除せられた。
- 普泰中、僕射司馬子如に薦められ尚書二千戸郎中となったが地位が低いことで出されて國子博士を兼ね、関西大行臺賀拔岳に求められて重んじられ機密を専掌し時誉を得た。岳が侯莫陳悅に害された際、趙貴らが赫連達を遣わし太祖を迎える議に思禮も参与し、太祖が関西大都督となると府長史とされた。
西魏での功績と最期
- まもなく行臺右丞を除せられ、魏孝武帝を迎えた功により汝陽縣子(邑400戸)に封ぜられ冠軍將軍を加えられ黄門侍郎を拝した。魏文帝即位で領著作郎、安東將軍・都官尚書兼七兵殿中二曹事を除せられ、竇泰を擒える戦いに従い侯爵に進んだ(邑800戸)。大統四年、朝政を誹謗したとして賜死された。
- 思禮は学を好み文才あり、軍國を兼務しながら手から書を離さず、昼は政事を理し夜は読書し蒼頭に燭を執らせ燭燼は夜に数升に及んだという。沙苑の戦捷を露布とするよう命じられ食事の間に書き上げ、太祖はその工緻さと速さを歎じた。碑誄表頌の類が世に伝わった。七年、車騎大將軍・定州刺史を追贈された。子の亶が嗣ぎ大象末には駕部下大夫に至った。
崔騰・董紹(附伝)
- 当時、博陵の崔騰・新蔡の董紹という者があり、共に早くから名誉があり清顯の職を歴任した。騰は丞相府長史、紹は御史丞となったが、共に投書謗議の罪により賜死された。