周書卷三十八 列傳第三十 柳虯

柳虯(字は仲蟠、司會柳慶の兄)。学を好み、洛陽復帰後は文翰を掌り「北府に裴諏、南省に柳虯」と称された。史官の直筆を求める上疏で知られ、祕書監等を歴任した。魏恭帝元年冬、54歳で卒す。

年表(6件)
  • 大統三年獨孤信の洛陽鎮に召され行臺郎中として文翰を掌る
  • 大統四年入朝するが母の老いを理由に侍薬を乞い許される
  • 大統十四年祕書丞を除せられ史事を監掌する
  • 大統十六年中書侍郎に遷り修起居注・丞事を兼領する
  • 魏廢帝初め祕書監に遷り車騎大將軍・儀同三司を加えられる
  • 魏恭帝
  • 元年54歳で卒し兗州刺史を贈られ諡は孝

出自と学問

  • 柳虯、字は仲蟠、司會慶(柳慶)の兄。13歳で専ら精しく学を好み、当時貴遊の子弟が学びに来るのは皆車服華盛であったが、虯だけは容飾を事とせず五經を遍く授かりその大義に通じ、子史にも博く渉り文を屬すことを好んだ。孝昌中、揚州刺史李憲に秀才に挙げられ、兗州刺史馮儁は虯を府主簿に引いたが、樊子鵠が吏部尚書となりその兄義が揚州治中となって鎮遠將軍を加えたのは虯の好むところではなく、官を棄て洛陽に還った。天下の喪乱に遭い陽城に退耕し終焉の志を持った。

洛陽復帰後の活躍

  • 大統三年、馮翊王元季海が軍を領し獨孤信が洛陽に鎮した際、旧京は荒廃し人物も乏しかったが、虯は陽城に、裴諏は潁川にあり、信らは共にこれを徴して虯を行臺郎中、諏を都督府屬とし共に文翰を掌らせた。時人は「北府に裴諏、南省に柳虯」と語った。軍旅の務めが繁多な折、虯は精を励まし通夜寝ずに事に従い、季海は「柳郎中の判事は私が再び見直す必要がない」と語った。
  • 四年、入朝し太祖が官に任じようとしたが虯は母の老いを理由に侍薬を乞い、太祖はこれを許した。のち獨孤信の開府從事中郎となり、信が隴右に出鎮し秦州刺史となった際は二府司馬とされたが、元僚にありながら府事は綜べず信の側で談論するのみであった。太祖への謁見の機に留められ丞相府記室とされ、帰朝の功を追論され美陽縣男(邑200戸)に封ぜられた。

史官の直筆を求める上疏

  • 虯は史官が密書のみでは善悪を懲勧するに足りないと考え上疏した。「古の人君が史官を立てたのは記事のみならず監誡のためであった。動けば左史が書き言えば右史が書き、善を彰し悪を癉らして風声を樹てた。南史は節を抗げ崔杼の罪を表し、董狐は書法で趙盾の愆を明らかにした。これぞ朝に直筆する由来である。しかし漢魏以降は密かに記注するのみとなり後世に益なく、当時における『其の美を将順し其の悪を匡救する』ものでもなくなった。著述の人が密かにその事を書けば、直筆であっても人はこれを知らず、物議を招くばかりか異端が互いに起こる。班固は受金の名を受け、陳寿は求米の論があり、漢魏を著す者は一氏にとどまらず晉史を造る者も数家に及び、後代は紛紜として基準を知らない。陛下は天に則り古を稽え庶政に心を労し、誹謗の路を開き忠讜の言を納れておられる、諸史官の記事は皆当朝で顕らかにその状を言った上で史閣に付すべき、それによって是非は明著し得失は隠れず、善を聞く者は日々修め過ちある者は懼れを知るようになろう」と述べた。この議は施行された。
  • 十四年、祕書丞を除せられた。祕書は著作を領しても史事に参与しないのが常であったが、虯が丞となってから監掌させるようになった。十六年、中書侍郎に遷り修起居注、丞事も兼領した。当時、文体を論ずる者に古今の異があったが、虯は「時に今古があるのであって文に今古があるのではない」として文質論を著し、文には多く載せなかった。魏廢帝初め、祕書監に遷り車騎大將軍・儀同三司を加えられた。虯は世事に脱略で小節にこだわらず弊衣疎食を改めず、譏る者があれば「衣は体に適えばよく食は飢えを充たせばよい、あくせく求めるのはただ思慮を労するのみ」と答えた。魏恭帝元年冬、54歳で卒し、兗州刺史を贈られ諡は孝。文章数十篇が世に行われた。子の鴻漸が嗣いだ。