周書卷三十八 列傳第三十 蘇亮

蘇亮(字は景順、武功の人)。魏の齊王蕭寶夤に仕え、寶夤の反乱後も難を免れた。西魏では機辯を以て太祖に重用され、尚書・岐州刺史・侍中を歴任した。従弟蘇綽と共に「二蘇」と称された。

年表(5件)
  • 大統二年給事黄門侍郎兼中書舍人を拝す
  • 大統七年再び黄門郎となり驃騎將軍を加えられる
  • 大統八年都官尚書に遷り北華州刺史・臨涇縣子に封ぜられ中書監・領著作・修國史を除せられる
  • 大統十四年祕書監・車騎大將軍・儀同三司を除せられ大行臺尚書として岐州刺史に出る
  • 大統十七年侍中に徴拝され任にあって卒す

出自と蕭寶夤への出仕

  • 蘇亮、字は景順、武功の人。祖父權は魏の中書侍郎・玉門郡守、父祐は泰山郡守。亮は少壮より通敏で博学、文を能くし章奏に長じた。秀才に挙げられ洛陽に至った際、河内の常景に器を深く見込まれ「秦中の才学で山東に抗しうる者はこの人か」と評された。
  • 魏の齊王蕭寶夤に參軍として引かれ、寶夤の開府後は主簿となり西征に従い記室參軍に転じた。寶夤が大將軍に遷ると掾となり、寶夤は亮を重んじ文檄・謀議は全て委ねた。まもなく武功郡事を行い声績著しかった。寶夤が反乱を起こした際、亮は黄門侍郎とされたが人間関係に忤らわず立ち回り、寶夤敗亡後も従った者の多くが禍に遭う中、亮だけは全うできた。

西魏での重用

  • 長孫稚・爾朱天光らの西討には郎中として文翰を専掌し、鎮軍將軍・光祿大夫・散騎常侍・岐州大中正に累遷した。賀拔岳が関西行臺となると亮を左丞に引き機密を典させた。魏孝武帝西遷で吏部郎中を除せられ衞將軍・右光祿大夫を加えられ、大統二年、給事黄門侍郎兼中書舍人を拝した。
  • 魏文帝の子宜都王式が秦州刺史となった際、亮はその司馬とされ、帝は「黄門侍郎が秦州司馬となるのは不本意だろうが、朕の愛子を蕃に出すため心腹を委ねたい、恨みとせぬように」と語り餞に御馬を賜った。七年、再び黄門郎となり驃騎將軍を加えられ、八年、都官尚書に遷り使持節・行北華州刺史・臨涇縣子(邑300戸)に封ぜられ、中書監・領著作・修國史を除せられた。
  • 亮は機辯があり談笑を善くし、太祖は深く重んじ、籌議はおおむね旨に適い、人の善を記し人の過を忘れ、後進の推薦には常に及ばぬことを恐れるかのようであったため当世に敬慕された。十四年、祕書監・車騎大將軍・儀同三司を除せられ、まもなく大行臺尚書を拝し岐州刺史に出た。朝廷は本州の牧となることを特別視し路車・鼓吹を給い先に自邸に還らせ、騎士3千に羽儀を列させて郷党を巡り故人と歓飲すること旬日にして州に入らせ、世はこれを栄とした。十七年、侍中に徴拝され任にあって卒し本官を贈られた。
  • 亮は少壮より従弟綽と共に知られたが、綽の文章は亮に及ばず、経画進趣ではさらに亮に劣ったため世に「二蘇」と称された。亮は大統以来毎年官を転じ、一年に三遷することもあったが、皆「才がその速さに驚くに足りぬ」と評した。文筆数十篇が世に行われた。子の師が嗣ぎ、亮の名の重さにより黄門侍郎として出仕した。

蘇湛(亮の弟、附伝)――蕭寶夤への諫言

  • 亮の弟湛、字は景儁。少壮より志行あり亮と共に西土で名を知られた。20歳余りで秀才に挙げられ奉朝請・領侍御史から出仕し員外散騎侍郎を加えられた。蕭寶夤の西討に行臺郎中として深く委任されたが、寶夤が叛逆を謀ろうとした際、湛は病臥中で、寶夤は湛の従母弟天水姜儉を遣わし「座して死を待つことはできぬ、もう魏臣ではいられぬ、卿と生死栄辱を共にしたい」と伝えさせた。
  • 湛はこれを聞き声を挙げて大哭し、儉が止めると「一族百口が即座に屠滅されるというのに哭かずにいられるか」と数十声哭いた後、儉に「私のために齊王(寶夤)に伝えてほしい。王はもとより窮して朝廷に帰り羽翼を借りてここまでの栄寵を得た、国歩多難とはいえ誠を竭くして徳に報いるべきであり、人の間隙に乗じて問鼎の心を抱いてよいはずがない。今、魏の徳は衰えても天命は未だ改まらず、王の恩義も未だ民に洽らず、破滅の時は必ずすぐに来る。蘇湛は積世の忠貞の基を一朝で王のために滅ぼすことはできない」と語った。
  • 寶夤が重ねて儉を遣わし「これは救命の計、やむを得ぬのだ」と伝えさせると、湛はさらに「大事を挙げるには天下の奇士を得るべき、今はただ長安の博徒小児輩とこの計を為すのみでは成功などあり得ぬ、荆棘が王の家門に生えるのを見るに忍びない、骸骨を賜り旧里に還らせてほしい、地下で先人に恥じぬように」と答えた。寶夤はもとより湛を重んじ必ず自分の用にならぬことを知っていたため武功への帰郷を許した。寶夤はのち果たして敗れた。

蘇湛(亮の弟、附伝)――孝莊帝への奏答と晩年

  • 孝莊帝即位後、尚書郎に徴拝された。帝はかつて「卿が蕭寶夤に答えた言葉は甚だ美辞であったと聞く、私のために語ってくれぬか」と問い、湛は頓首して「臣の言辭は伍被に遠く及びませぬが、始終変えなかった点では勝ると密かに思います。ただ臣は寶夤との交わりで言を尽くしながらもその節を守らせられなかった、これは臣の罪です」と謝した。孝莊帝は大いに悦び散騎侍郎を加授し、まもなく中書侍郎に遷った。孝武帝初め、病により郷里に還り家で終え、散騎常侍・鎮西將軍・雍州刺史を贈られた。

蘇讓(湛の弟、附伝)

  • 湛の弟讓、字は景恕。幼くして聡敏で学を好み人倫の鑑識に優れた。初め本州主簿から出仕し別駕・武都郡守に遷り鎮遠將軍・金紫光祿大夫を加えられた。太祖が丞相となると府屬に引かれ深く親待され、衞將軍・南汾州刺史に出て善政を行ったが、まもなく官にて卒し車騎大將軍・儀同三司・涇州刺史を贈られた。