出自と魏末の戦功
- 叚永、字は永賓。その先は遼西石城の人で晉の幽州刺史段匹磾の後裔。曾祖愄は魏の黄龍鎮將となり髙陸の河陽に徙り住んだ。永は幼くして志操あり閭里に称された。魏正光末、六鎮の擾乱で老幼を携え中山に避難し、のち洛陽に赴き殿中將軍を拝し平東將軍に昇り沃陽縣伯(邑500戸)に封ぜられた。
- 青州人崔社客の反乱を討平し侯爵に進み左光祿大夫を除せられた。賊魁元伯生が数百騎で崤潼から鞏洛にかけて塢壁を屠陷して害をなした際、魏孝武帝は京畿大都督匹婁昭に討たせようとし昭は5千の兵を請うたが、永は「この賊は城柵を持たず寇抄を資とするのみ、安ければ蟻聚し窮すれば鳥散するもの、速さこそ肝要で衆は要らぬ、精騎500で十分平定できる」と進言、帝はこれに従い永に500騎で討たせた。永は賊の所在を覘知し倍道兼進して撃破した。
入関後の戦功と晩年
- 孝武帝西遷に永は間に合わなかったが、大統初め宗人と謀って帰款、密かに都督趙業らと西中郎將慕容顯和を襲斬し首を京師に伝えた。功により昌平縣子(邑300戸)に別封され北徐州刺史を除せられた。竇泰を擒え弘農を復し沙苑を破る戦いに功を挙げ公爵に進み、河橋の役では力戦先登、南汾州刺史を授けられ、大都督・車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍・驃騎大將軍・開府儀同三司を歴任し爾綿氏を賜姓。
- 魏廢帝元年、恒州刺史を授けられ、朝貴の多くがその部人であったため謁見の日は冠蓋が路に溢れ当時の栄とされた。孝閔帝踐阼で廣城郡公に進み文州刺史に転じ、工部中大夫として入り軍司馬に遷った。保定四年、大將軍を拝し、内外の任地で頗る声誉があり財を軽んじ士を好んだため朝野に重んじられた。前後の増邑は通算3900戸に及んだ。天和四年、小司寇を授けられ、まもなく右二軍總管として北道の講武に赴く途中、賀葛城で病を得て68歳で卒した。喪は還り高祖自ら臨んで使持節・柱國大將軍・同華等五州刺史を贈り諡は基。子の岌が嗣ぎ儀同三司・兵部下大夫に至った。