周書卷三十四 列傳第二十六 楊□

楊□(字は顕進、正平高涼の人。底本欠字のため人物名は「楊□」と表記)。侠気に富み北魏末より各地の乱で功を挙げ、西魏では邵郡・正平郡などの攻略・内応工作で活躍し建州刺史・少師に至った。長年斉との戦いに勝ち続けたが晩年油断から大敗し降伏、朝廷はその功に免じて罪を問わなかった。

年表(4件)

楊□

  • 楊□、字は顕進。正平高涼の人。祖の貴、父の猛はともに県令。若くして侠気に富み、爾朱栄の朝士殺害を逃れた大司馬城陽王元徽を匿って助け、徽の復位後もその義烈をもって聞こえ伏波将軍・給事中に抜擢された。元顥の入洛で孝荘帝が晋陽へ向かう際、宗人を率い船馬を渡に集める命を受けたが、帝が既に太行を渡ったと知ると敵に利用されぬよう船を匿し、爾朱栄の帝救出時には船を用意して援けた功で肥如五百戸・鎮遠将軍・歩兵校尉・済北郡事代行、都督・平東将軍・太中大夫。魏孝武帝の関入りに従い侯に進爵・食邑八百戸、撫軍・銀青光禄大夫。東魏が鄴に遷都した際、太祖の命で密かに鄴に赴き偵察、通直散騎常侍・車騎将軍。稽胡の抄掠を鎮めるべく黄門侍郎を兼ね慰撫し多くの酋渠を帰順させた。弘農攻略に太祖に従軍。
  • 父の猛が邵郡白水令であった縁から、密かに豪右と邵郡での挙兵に応じることを企て太祖の許可を得、豪族王覆憐らと共に三千人を糾合し邵郡を奪い郡守程保らを斬った。衆議が郡事を委ねようとしたが覆憐に譲り自らは大行台左丞として東魏の城堡を諜略で誘い、正平・河北・南北二絳・建州・大寧など多くの内応を得て太祖軍がこれを攻略、正平郡事代行・左丞のまま。斉神武の沙苑敗戦の殿軍を撃破し東雍州刺史馬恭を敗走させ東雍州に拠った。建州事代行として敵境三百余里を進み、威名で衆を糧食持参で従わせ一万に達する軍で東魏刺史車折於洛・行台斛律俱を破り威名大いに振るった。東魏の侯景が正平を陥し行台薛循義が斛律俱と合流すると孤軍無援を悟り、太祖からの援軍が来ると偽の書を流布して敵を欺きつつ夜中に邵郡へ撤退、権謀で全軍を保った功で建州刺史。
  • 東魏が正平を東雍州として薛栄祖に守らせると、奇兵で汾橋を攻めさせ榮祖の主力を誘い出した隙に夜襲で克ち驃騎将軍。邵郡が東叛した際も奪還、正平郡守に転じ東魏の南絳郡を破り郡守屈僧珍を虜り郃陽県伯・食邑五百戸に別封。邙山の戦いで柏谷塢を攻拔し鎮したが大軍不利で撤退中、東魏の侯景の追撃を儀同韋法保と共に十数里抗して退けさせ、帛三百疋を賜り建州刺史のまま車箱に鎮した。長年軍役で父の葬儀を果たせず還葬を願い出て、父に車騎大将軍・儀同三司・晋州刺史、母に夏陽県君を追贈され州里に儀衛を給された。斉神武が玉壁を囲み侯景に斉子嶺を趣かせた際も邵郡を守り、侯景は樹木を伐って道を断つほど恐れ河陽に退いたという。十二年大都督・晋建二州諸軍事、蓼塢を破り魏将李顕を獲て開府、邵郡等の諸軍事を兼ねた。十六年東討の大行台尚書として義衆を率い斉境の四戍を先駆で攻略、肥如・郃陽二邑を合わせ千八百戸に改封、華陽県侯。邵州を新設し刺史として自ら鎮した。
  • 保定四年少師。その年洛陽包囲に義兵万余を率い軹関から出撃したが、東境で二十余年斉と戦い常に勝ってきたゆえの油断から敵の急襲に大敗し斉に降伏した。かつての慷慨壮烈な志と裏腹に敗軍の身で虜となり茍免を求めたことは時論に卑しまれたが、朝廷はその功を録し罪とせず子に襲爵を許した。の敗戦時、新平郡守韓盛も洛陽で戦没した。