趙昶
- 趙昶、字は長舒。天水南安の人。曽祖の襄は魏の中山郡守で代に家をなし、祖の泓は広武令、父の琛は上洛郡守。若くして聡敏で志節あり、孝昌中都督から起家し小平津を鎮め、魏の北中郎将高千に重んじられ臨渙北梁二郡事代行を委ねられた。太祖の弘農平定後、相府典籤に抜擢。大統九年邙山戦の敗戦後、清水氐酋李鼠仁が反乱を起こし独孤信も鎮圧できずにいたところ、太祖の使者を務めたい者を問われ趙昶が名乗り出て、鼠仁を禍福で説き感悟させ服従させた。梁道顕の叛乱にも慰諭で款附させ、東秦州刺史魏光が徙した豪帥四十余人と部落を華州で統率、汾州胡の再乱でも慰労で虚実を把握し先駆けとして討伐を成功させた功で章武県伯・食邑五百戸。
- 十五年安夷郡守・長虵鎮将。荒獷な氐族を威懐で服させ千余人が従軍を志願、軍機の急迫による氐の再叛の兆候を見抜き離間策で首謀者二十余人を斬り鎮定。大都督・南秦州事代行として氐帥蓋閙らの反乱を鎮圧、史寧と共に宕昌羌獠二十余万を破り武州刺史・車騎大将軍・儀同三司。魏恭帝初驃騎大将軍・開府儀同三司。潭水羌の叛乱で武陵・潭水二郡守が殺された際これを平定。世宗初、鳳州人仇周貢の反乱で広化郡が破られ、廣業・修城二郡が包囲されると、援を求められ使者を送るも敵に捕らえられたが敵は趙昶の来援を知り泥功嶺で伏兵を敷いたところ、これを撃破し両郡の囲みを解いた。興州人段吒・氐酋羌多の反乱も討伐(詳細は氐伝)。虜獲した氐羌を懐柔し使役する手腕を太祖は「国家の兵馬を煩わせず氐羌を威服させる者は趙昶のみ」と称賛した。世宗が長道郡公に進爵させ宇文氏を賜姓、賓部中大夫・吏部代行を経て病で卒した。