周書卷三十 列傳第二十二 于翼
于翼(字は文若、太師燕公于謹の子)は西魏太祖の女婿として重用され、渭州・安州などの刺史として恵政を施し、晋公護誅殺後は帝の側近として国政に参与した。斉との和平策や東伐の献策で武帝に容れられ、大司徒・上柱国に至った。尉遅迥挙兵に際しては隋文帝方に与し、恭倹で人と争わぬ人柄と評された。
于翼
- 于翼、字は文若。太師燕公・于謹の子。容儀美しく識度があり、十一歳で太祖の女・平原公主を娶り、員外散騎常侍・安平県公・食邑一千戸を拝した。大統十六年、郡公に進爵し大都督として太祖帳下の禁中宿衛を領した。于謹が江陵を平らげ得た戦利品を諸子に分与した際、于翼は一切受け取らず、名望ある子弟のみを選んで別に遇した。太祖はこれを聞き奴婢二百口を賜ったが于翼は固辞して受けなかった。のち車騎大将軍・儀同三司・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、六官制のもと左宮伯となった。
- 孝閔帝践阼で渭州刺史に出た。兄の寔が先にこの州を治め恵政があったが、于翼もまた誠を推し寛簡に事に処し夷夏を感悦させた。吐谷渾が河右を侵し涼・鄯・河三州が包囲された際、秦州都督が援を求めたが于翼は「侵掠のみで攻城戦は苦手な相手、久しく囲むはずがなく援軍は不要」と判断し実際その通りとなった。賀蘭祥の吐谷渾討伐に先鋒として深入し食邑一千二百戸を増され、右宮伯を拝した。
- 世宗は文士を愛し麟趾学を立てたが、蕭撝・王褒ら梁の宗室・公卿までが身分の低い者と同列に扱われるのを于翼が諫め、班次を定めさせた。世宗が崩じると于翼は晋公護と共に受遺詔し高祖(武帝)を立てた。保定元年軍司馬、三年常山県公・食邑二千九百戸に改封。天和初、司会中大夫・食邑通算三千七百戸。三年、皇后阿史那氏が突厥より至った際、高祖の親迎の礼を総司儀制として取り仕切り、突厥人も皆その礼法を憚った。父の喪に居ては礼を過ぎるほど哀毀し、時人に称された。
- 高祖は于翼の人物鑑識を重んじ、皇太子や諸王の相師以下の人選をすべて委ね、時論もその選任を評価した。大将軍として中外宿衛兵事を総べたが、晋公護は帝が于翼を腹心とすることを猜疑し小司徒に転じ、外は崇めつつ実は疎斥した。護誅殺後、帝は于翼を河東に遣り護の子・中山公訓を捕らえ蒲州鎮を代行させようとしたが、于翼は「冡宰の罪は正されたが、なお陛下の骨肉に疑いをかけず異姓の臣に鎮を代行させるのは物議を招く」と諫め、帝も納れて越王盛を代わりに遣わした。
- 斉・陳との国境で毎年小競り合いが続き決着せぬまま防備を厚くする状況に対し、于翼は「宇文護の専制期の洛陽出兵の失敗のように、疆場の相侵は兵儲を損なうのみ。防備を緩め和好を続けて敵の油断を誘い、機を見て一挙に山東を図るべき」と諫めて帝はこれを納れた。建徳二年、安州総管に出た際、大旱に際し禁じられていた山廟の祭祀を主簿に行わせると雨が降り、民は于翼の徳を歌って称えた。四年、高祖の東伐に際し密議に三度招かれ策を問われ、荊楚兵二万を率い宛葉から襄城を趣き斉の十九城を旬日で下した。都督が民村に入り略奪すれば直ちに斬るという軍紀を守らせたため民は帰服した。
- 高祖の病により班師すると于翼も鎮に戻り、陝熊等七州の総管として陝州刺史に転じた。翌年の東伐でも九曲から造澗等の城を攻め洛陽に至り、斉の洛州刺史独狐永業が降伏、河南九州三十鎮が下った。洛懐等九州諸軍事・河陽総管を経て豫州総管、兵五千・馬千匹を給されて鎮した。陳将魯天念が光州を囲んでいたが于翼の到着を聞いて退散し、霍州の蛮首田元顕は険を恃んで服さなかったが人質を送って帰属した。翼が帰朝すると元顕は再び叛くなど、殊俗の懐柔は于翼の在鎮に左右されたという。
- 大象初、大司徒を拝し長城を巡って雁門から碣石まで亭障を整備、幽州総管に出て突厥の侵寇を威武で防いだ。尉遅迥の挙兵に際し使者を捕らえ書状とともに送り、隋文帝から雑繒一千五百段・粟麦一千五百石・珍宝服玩を賜り上柱国・任国公・食邑通算五千戸、別に任城県一千戸の租賦を食んだ。子の讓を遣わし勧進の表と入朝を請い、開皇初太尉を拝した。幽州在任中に尉遅迥に呼応しようとしたとの讒言があったが取り調べの結果無実と判明し復位した。開皇三年五月に薨じ、蒲晋懐絳邵汾六州諸軍事・蒲州刺史を追贈され諡は穆。恭倹で人と争わぬ性格で、功名を全うしたと評された。子の璽は上大将軍・軍司馬・黎陽郡公、璽弟の詮は上儀同三司・吏部下大夫・常山公、詮弟の讓は儀同三司。尉遅迥挙兵時、河西公李賢の弟・李穆が并州総管として迥の子を捕らえ送った。
李穆
- 李穆、字は顕慶。若くして明敏で度量があり、太祖の関入り時から側近に仕え小心謹粛で怠らず、太祖に腹心として重んじられた。侯莫陳悦が賀抜岳を害した際、太祖が夏州から急行するなか、悦党の史帰が原州に拠っていたのを、李穆は先に城中で兄の賢らと城門を制して太祖軍の侯莫陳崇に呼応し史帰を捕えさせた功で都督に任じ、魏孝武帝の迎えに従い永平県子・食邑三百戸に封ぜられた。竇泰擒獲・弘農復帰の戦功に加え、沙苑の勝利に際し「高歓は既に胆を喪っている、速やかに追撃すれば擒えられる」と太祖に進言したが聞き入れられなかった。
- 河橋の戦いで太祖の乗馬が矢に驚き太祖が落馬し、敵の追撃を受けて左右皆奔散する危地に陥ったとき、李穆は鞭で太祖を打ち「お前の主はどこだ、ここに留まるな」と大声で罵ったため、敵は李穆を貴人と疑わず見逃した。李穆は自らの馬を太祖に与えて共に脱出した。太祖は後にこの日「李穆がいなければ自分は助からなかった」と述べ恩寵はいよいよ厚くなり、武衛将軍・大都督・車騎大将軍・儀同三司、安武郡公・食邑一千七百戸に進み、太祖は「人の貴ぶは身命のみ、李穆は自らの命を軽んじて孤(太祖)を難から救った、爵位や玉帛では報いきれない」と歎じ、特に鉄券を賜り死罪十回分を免じる特権を与えた。
- 驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中に進んだ。太祖が李穆に驄馬を与えて以来、太祖の厩に同色の馬が入ると必ず李穆に賜ったという。世子惇は安楽郡公に封じられ、姉一人は郡君、他の姉妹はみな県君となるなど一族の褒賞は厚かった。玉壁の囲みを解いた功で安定国中尉、同州刺史、太僕卿を経て江陵征討の功で一子を長城県侯・食邑千戸に封じ、大将軍に進み拓拔氏を賜姓された。原州刺史となり、兄賢の子を平高郡守、逺(弟か)の子を平高県令とするなど一族三人が牧宰となった栄遇を李穆は固辞したが太祖は許さなかった。
- 雍州刺史から入って小冢宰。孝閔帝践阼で食邑通算三千七百戸。逺の子・植が晋公護の暗殺を謀り誅殺された際、李穆も連座して除名され、植の弟・基も連坐となるところを、李穆は幾度も護のもとを訪れ自らの子・惇・怡らを基の身代わりに差し出すことを願い出て護を感動させ、基は死を免れた。世宗即位で驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・安武郡公・直州刺史。武成二年少保、保定二年大将軍。三年、隋公楊忠の東伐に従い小司徒、柱国大将軍に遷る。一子を郡公・食邑二千戸に別封され、五年大司空、天和二年申国公・食邑五千戸に進み旧爵は一子に譲った。建徳元年太保、原州総管に出る。四年、高祖東征に率兵三万で軹関及び河北諸県を別攻し破ったが、帝の病により棄てて還った。六年上柱国、并州総管。東夏平定直後の動揺した民心を静を以て鎮め民に慕われた。
- 大象元年大左輔総管、二年太傅。尉遅迥挙兵に際し子の栄が呼応しようとしたが李穆はこれを許さず「周の徳は既に衰え、愚智ともにこれを知る、天に逆らえようか」と述べ、使者を遣わし隋文帝に十三環金帯(天子の服)を献じて意を示した。迥の子・誼は朔州刺史であったが同じく捕らえて京師に送った。迥の署した行台・韓長業が潞州を攻め刺史趙威を捕らえ城民郭子勝を刺史に立てた際、李穆は兵を遣わし討ってこれを獲た。隋文帝は李穆の功を鄴城攻略と同等の第一勲とし、三転の官を子の榮・才及び兄賢の子・孝軌に分授、榮・才は儀同大将軍、孝軌は開府儀同大将軍に進み、子の雄も宻国公・食邑三千戸に別封された。
- 長子惇、字は士宇。大統四年、父の功により安平県侯を賜爵、車騎大将軍・儀同三司・大都督を経て公に進爵。太祖の命で功臣の世子は略陽公(明帝)とともに過ごし、惇は特に厚遇され諸方の珍奇の品を賜った。小武伯を経て安楽郡公、天和三年、驃騎大将軍・開府儀同三司・鳳州刺史のまま卒し、大将軍・原霊豳三州刺史を追贈された。
史論
- 史臣は評す。竇熾は儀表魁梧・器識雄遠で、朝政に参与しては嘉謀を陳べ、藩鎮を総べては恵政を施した。竇毅は忠粛にして温恭、その徳望は本朝に彰れ殊俗にまで及んだ。ただし竇熾が晩年、隋の相国就任への勧進を渋り「送故(旧主を見送る)」の情を示したことについては、王公たる者にふさわしい潔さがあったと評しつつも、忠義の道は臣たる者の立場によって異なるとし、司馬氏簒奪期の葛旟や東晋簒奪期の翟湯の故事を引きながら、烈士貞臣が命を投げ出す忠義への共感を述べる。于翼と李穆については、功臣の子・姻戚として文武の任を兼ね、累世の恩を受けながら国難に殉ずる覚悟に欠けていたと惜しみ、もし時勢が異なり、于翼が幽薊の兵を発し李穆が晋陽の甲を興して連携していれば、天下の成敗は測り難かったであろうと述べる。