王事に死した幽州の防人
- 劉雄は字を猛雀といい、臨洮子城の人。若くして機弁で慷慨として大志があった。大統年間、太祖の親信として起家し、まもなく統軍・宣威将軍・給事中を授けられ子城令を除せられ、都督・輔国将軍・中散大夫兼中書舎人を加えられ宇文氏の姓を賜った。孝閔帝の践阼で大都督を加えられ、司市下大夫・斉右下大夫を歴任し小駕部を治め、車騎大将軍儀同三司に進んだ。保定4年、中外府属を治め洛陽征伐に従った。天和2年、駕部中大夫に遷った。4年、斉公憲府掾を兼ね、憲に従い宜陽に出て安義等の城を築いた。5年、斉相斛律明月が衆を率いて通関城を築き宜陽を援けようとした。これより先、国家は斉と通好し互いに境を保ち民を息め侵擾しないことを約していたが、この時憲は斉人が信を失ったとして雄を明月のもとに使いさせその背約を責めさせると、雄の辞義は弁直で斉人はこれを憚った。使いから還ると中府外掾を兼ね、まもなく驃騎大将軍開府儀同三司を加えられ周昌県伯・邑600戸に封じられた。
- 斉人はまた姚襄に伏龍等五城を築いて戍卒を置いたので、雄は斉公憲に従いこれを攻め五城をみな抜いた。憲は再び雄を柱国宇文盛と共に斉の長城の西に遣わし連営して防禦させたが、斉将段孝先らが衆を率いて盛の営を囲んだ。外には先に長塹があり大将軍韓歓は孝先と交戦して不利となったが、雄は自ら排(盾)を負い所部20余人を率いて塹に拠って力戦すると孝先らはついに止み、軍は還った。軍司馬に遷り、爵を侯に進め邑1400戸を得た。
- 建徳初年、納言を授けられ軍正に転じ再び納言となった。2年、内史中大夫に転じ候正を除せられた。高祖はかつて従容として雄に「古人は富貴にして故郷に帰らざるは猶お衣錦して夜遊ぶがごとしと言う、今卿を本州に任じてはどうか」と述べると、雄は稽首して拝謝し、詔により雄を河州刺史とした。雄は先に既に本県の令であったので、再びこの授任があり郷里はこれを栄とした。4年、柱国李穆に従い軹関を出て邵州等の城を攻めこれを抜き、功により賞5000を得た。皇太子が西で吐谷渾を征した際、雄は涼州から滕王逌に従い軍を率いて先に渾の境に入り、伏俟城を去ること200余里、逌は雄を先に城の東に至らせ火を挙げて大軍と相応じさせた。渾の洮王が700余騎を率いて逆戦すると、雄はその時所部数百人のうち先に斥候として左右に分遣していた20人ほどを率いて交戦し、斬首70余級、雄もまた三騎を失った。以後逌に従い連戦し雄の功が多くを占め、賞物は甚だ厚かった。軍が還ると、伊婁穆が殿を務めて賊に囲まれ、皇太子は雄に救援を命じ、雄は騎1000を率いて穆の囲みを解き、邑300戸を増やされ上開府儀同三司を加えられた。
- その年、大軍が東討する際、雄は斉王憲に従い洪洞・下永安を抜き、軍が還ると憲に従い晋州を援けに回ったが、至らぬうちに斉後主が既に大兵を率いて自ら晋州を包囲攻撃し陥落寸前であった。憲は雄を先に遣わしその軍勢を偵察させると、雄は歩騎1000を率いて鼓角を鳴らし遥かに城中に報せ、まもなく高祖の兵が至って斉主は遁走した。并州の平定に従い上大将軍を拝し、趙郡公・邑2000戸に進爵、旧封は一子に迴授された。翌年、鄴城の平定に従い柱国に進んだ。その年、斉王憲に従い北討し稽胡を総平し、軍が還ると幽州を出鎮した。宣政元年4月、突厥が幽州を寇し居民を擁略すると、雄は出戦し突厥に囲まれ、陣に臨んで戦没した。亳州総管七州諸軍事・亳州刺史を贈られた。子の昇が嗣ぎ、雄が王事に死したことにより大象末年に儀同大将軍を授けられた。