「挙身悉是胆」と称えられた歩戦の勇
- 王雅は字を度容といい、闡熙新固の人。若くして沈毅木訥で寡言、胆勇があり騎射を善くした。太祖はその名を聞いて軍に召し入れ、たびたび戦功があり都督を除せられ居康県子の爵を賜った。東魏将竇泰が入寇すると、雅は太祖に従いこれを潼関で擒えた。沙苑の戦いで雅は所部に「彼の軍はおそらく百万に及び、今我らは万人に満たない、常理で論じれば実に敵しがたい。ただ相公(太祖)は神武にして世に命じられ王室の股肱として順をもって逆を討つ、どうして衆寡を計算しようか、丈夫たる者もしこの時に賊を破らなければ、何のために生きようか」と述べ、甲を着けて歩戦し向かうところ披靡し、太祖はこれを壮とした。また邙山に戦った際、大軍が不利となり敵に乗じられて諸将はみな引き退いたが、雅は独り騎を回してこれを拒み、敵人はその後継がないのを見て歩騎が競い進んだ。雅は左右に奮撃し頻りに九級を斬ると敵衆はやや退き、雅はそこで軍に還った。太祖は「王雅は挙身ことごとく胆である」と歎じた。前後の功を録され爵を伯に進め、帥都督・鄜城郡守を除せられ、政は簡易を尚び吏人はこれに安んじた。大都督・延州刺史に遷り、夏州刺史に転じ、車騎大将軍儀同三司を加えられ驃騎大将軍開府儀同三司に進んだ。世宗の初め、汾州刺史を除せられ精を励まして治を為すと人庶は悦んで附き、遠方から来る者は700余家に及んだ。保定初年、再び夏州刺史となり州で卒した。子の世積が嗣ぎ、若くして倜儻として文武の幹略があり、大象末年に上大将軍・宜陽郡公となった。