周書卷二十九 列𫝊第二十一 伊婁穆

太祖に「儀同で面会せよ」と言われた側近

  • 伊婁穆は字を奴干といい、伐の人。父の霊は騎射を善くし太祖に知られた。太祖はかつて「昔、伊尹は殷を保衡し堯舜のような主に致した、卿は既に伊姓を名乗る、卿もまた前緒を替えぬように」と述べ、「尹」の名を賜った。金珠光禄大夫・衛将軍・隆州刺史を歴任し盧奴県公の爵を賜った。穆は弱冠にして太祖の内親信となり機弁をもって知られ、奉朝請を授けられ常に左右に侍った。邙山の役で力戦して功があり、子都督・丞相府参軍事を拝し、外兵参軍に転じ、累遷して帥都督・平東将軍・中散大夫となり、中書舎人・尚書駕部郎中・撫軍将軍・大都督・通直散騎常侍を歴任した。かつて入朝して事を白した際、太祖は望見して悦び「奴干は儀同となって我に面会するがよい」と字して呼び、そこで車騎大将軍儀同三司を拝させ安陽県伯・邑500戸に封じ、大丞相府掾に転じ従事中郎に遷り給事黄門侍郎を除せられた。
  • 魏廃帝2年、穆は蜀に使いした際、伍城郡人趙雄傑が梓潼郡人王令公・鄧朏らと共に反乱を起こし衆3万余人で涪水に阻んで柵を立て潼州に進み逼ったが、穆は刺史叱羅協と共に兵を率いてこれを破り、邑500戸を増やされた。孝閔帝の践阼で兵部中大夫を拝し御正を治め、爵を侯に進め邑500戸を増やされ、まもなく驃騎大将軍開府儀同三司に進位した。保定初年、軍司馬を授けられ、爵を公に進めた。4年、金州総管八州諸軍事・金州刺史を除せられた。天和2年、邑2100戸を増やされ、また民部中大夫となった。衛公直が襄州を出鎮すると、穆を長史とし、郢州城の民王道骨が反して州城を襲拠すると、直は穆に百余騎を率いさせ馳せて援けさせ、穆は城下に至りたびたび骨の衆を破ると、大将軍髙琳が衆軍を率いて続いて至り、骨らはついに降った。唐州の山蛮が険を恃んで命に逆らうと、穆は軍を率いてこれを討ち、蛮酋らは石窟十四箇所に保拠したが、穆は軍を分けて進討し十四日の間にみなこれを破り、俘虜6500人を得た。6年、大将軍に進位した。建徳初年、荆州を授けられ再び穆を総管府長史とし、穆はたびたび戚藩を補佐し大いに匡賛の誉れを得て、入朝して小司馬となった。柱国李穆に従い軹関等の城を平定し、布帛300匹・粟300石・田30頃を賞された。5年、皇太子に従い吐谷渾を討ち、還る際、穆は殿(しんがり)を務めて渾人に囲まれたが、劉雄の救援が至りようやく解かれた。後に病により卒した。