周書卷二十八 列𫝊第二十 史寧

辺境撫和の識と実

  • 史寧は字を永和といい、建康袁氏の人。曾祖の豫は沮渠氏に仕え臨松令となり、北魏が涼州を平定すると、祖の灌は例に従って撫寧鎮に遷り家を構えた。父の遵は初め征虜府鎧曹参軍となったが、杜洛周の反乱で六鎮が互いに屠陥すると、遵は郷里2000家を率いて恒州に奔り、その後恒州が賊に敗れると洛陽に帰り楼煩郡守を拝した。寧が功を著すに及び、散騎常侍・征西大将軍・涼州刺史を追贈され、諡を貞といった。
  • 寧は若くして軍功で別将を拝し、直閤将軍に遷り宿衛禁中を都督し、まもなく持節・征東将軍・金紫光禄大夫を加えられた。賀抜勝が荆州刺史となると、寧は本官のまま勝の軍司となり歩騎1000を率い赴任した。荆蛮が騒動し三鵶の路が絶えると、寧は先駆してこれを平定し蛮左を撫慰すると翕然として降附し、馬1500匹の税を得て軍に供した。まもなく南郢州刺史を除せられた。勝が大行台となると寧を大都督に表し、歩騎1万を率い梁の下溠戍を攻めこれを破り、武平県伯・邑500戸に封じられた。また梁の斉興鎮等九城を攻抜し戸2万を獲て還ったが、論功に及ばぬうちに魏孝武帝の西遷に遭い、東魏が侯景を遣わし荆州を寇すると、寧は勝に従い梁に奔った。
  • 梁武帝は寧を香磴の前に引いて「卿の風表を見るに終には富貴に至ろう、我は卿に錦を衣て郷里に還らせよう」と述べた。寧は「臣は世々魏の恩を蒙り位は列将となりましたが、天が長く喪乱をもたらし本朝が傾覆し、逆賊に北面できず、幸いに道有るところに息肩を得ました。もし明詔のとおりであれば実に欣幸に存じます」と答え、涙を流したので梁武帝も動容した。梁に在ること2年、勝は寧と密かに帰国を図り、寧は「朱异は既に梁主の信任を得ています、往いて見えましょう」と述べ、勝はこれに同意した。寧は异に会い、意気投合の言葉を述べ、微かに帰国の思いを託し、辞気は雅であったので、异も嘆じ「桑梓の思いは忘れがたいもの、当に奏聞し必ずその願いを遂げさせよう」と述べた。まもなく梁主は果たして勝らの帰国を許した。大統2年、寧は梁より帰闕し、爵を侯に進め邑300戸を増やされた。
  • しばらくして車騎将軍に遷り涇州事を行った。時に賊帥莫折後熾が居民を寇掠すると、寧は州兵を率い行原州事李賢と討ちこれを破り、通直散騎常侍・東義州刺史に転じた。東魏もまた旧刺史の胡梨苟を東義州刺史としたため、寧はようやく州に入ったが梨苟も至り、寧は迎撃してこれを破り、その洛安郡守馮善道を斬った。州は敵境に隣接し百姓は流移していたが、寧は心を留めて撫慰し、みな業に復した。12年、涼州刺史に転じた。寧が未だ至らぬうちに前刺史宇文仲和が州に拠って乱を作したので、詔により独孤信が兵を率い寧とこれを討った。寧が先に涼州に至り禍福を陳べると城中の吏民はみな相率いて降附したが、仲和はなお城に拠って下らず、まもなくこれも克した。車騎大将軍儀同三司・大都督涼西涼二州諸軍事・散騎常侍・涼州刺史を加えられた。15年、驃騎大将軍開府儀同三司に遷り侍中を加えられ、爵を公に進めた。
  • 16年、宕昌の叛羌獠甘が乱を作し、その王弥定を逐って自立し、傍らの乞鉄忽及び鄭五醜等と連結した。詔により寧は宇文貴・豆盧寧らと共にこれを討った。寧は別に獠甘を撃ったが、山路は険阻でようやく単騎が通る程度、獠甘は既に党を分けて柵を立て険を守っていた。寧は兵を進めてこれを攻め、ついにその柵を破った。獠甘は3万人を率いて逆戦したが、寧はまたこれを大破し、追撃して宕昌に至った。獠甘は百騎を率いて生羌の鞏廉玉のもとに逃げ込み、弥定はついに復位できた。寧は獠甘を捕らえていないことから密かにこれを図ろうとし、還ろうとする風を装った。獠甘はこれを聞くと再び叛羌を招き山に依り柵を起こして弥定を攻めようとした。寧は諸将に「この羌は我が術中に入った、兵を進めて擒えるべきだ」と述べた。諸将は帰国を思い「生羌は聚散常なく山谷に依っている、今もし追討すれば日を引いて成らぬ恐れがある。かつ弥定は守蕃将軍に復し功は既に立った。獠甘は勢弱く弥定で制するに足る、これをもって師を還すのが策の上である」と述べたが、寧は「一日敵を縦せば数世の患いとなる、どうして滅ぼしかけた寇を捨てて再挙の労を煩わせようか。人臣の礼は為すべきを尽くすことにある、これでは諸君は共に事を計るに足らない。もし更に衆を沮むなら、寧はどうして諸君を斬れぬことがあろうか」と述べ、ついに進軍した。獠甘の衆も至り、これと戦って大破し、獠甘を生獲して晒し首にして斬り、鞏廉玉を執らえて朝廷へ送った。得た軍実はことごとく将士に分賞し、寧は私することがなかった。師が還ると、詔により寧は所部を率いて河陽を鎮めた。寧は先に涼州にあり戎夷はその威恵に服していたが、鎮を遷った後も辺民はみな思慕した。
  • 魏廃帝元年、再び涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史を除せられた。初め茹茹は魏と和親していたが後に離叛し、まもなく突厥に破られてその主阿那瓌を殺され、部落の逃亡者は瓌の子孫を奉じて河右を抄掠した。寧は兵を率いてこれを邀撃し、瓌の子孫二人とその種落酋長を獲た。以後戦うたびにこれを破り、前後に数万人を獲て、安政郡公に進んだ。3年、吐谷渾が斉に通使すると寧はこれを撃って獲え、そのまま大将軍を拝した。寧は後に使者を太祖のもとに遣わし事を請うと、太祖はその着ていた冠履衣被及び弓箭甲矟等を寧に賜り、使者に「我のために涼州に謝せよ、孤は衣を解いて公に衣せ、心を推して公に委ねる、公は善く始め令く終え、功名を損なうことがないように」と述べた。
  • 時に突厥の木汗可汗が涼州に道を仮して吐渾を襲おうとしたので、太祖は寧に騎兵を率いて随行させた。軍が番禾に至ると吐渾は既に気づき南山に奔り、木汗は兵を分けてこれを追い青海で会うことにした。寧は木汗に「樹敦・賀真の二城は吐渾の巣穴です、今もしその本根を抜けば余種は自ずと離散します、これが上策です」と述べ、木汗はこれに従い軍を二つに分け、木汗は北道から賀真へ、寧は樹敦へ向かった。渾の娑周国王が衆を率いて逆戦したが、寧はこれを撃ち斬り、山を踰え険を履んでついに樹敦に至った。敦は渾の旧都で多くの珍蔵があったが、渾主は既に賀真へ奔り、その征南王及び数千人を留めて固守させていた。寧が兵を進めて攻めると、渾人は果たして門を開いてこれを逐ったので、兵を回して奮撃し、門が閉じきらぬうちに寧の兵はついに入ることができ、その征南王を生獲し、俘虜の男女・財宝はことごとく突厥に帰した。渾の賀羅抜王は険に依って柵を作り、周回50余里で寧の路を塞ごうとしたが、寧はその柵を攻め破り、俘斬は万を数え、雑畜数万頭を獲た。木汗もまた賀真を破り渾主の妻子を虜にし、大いに珍物を獲た。寧は青海に軍を還して木汗と会し、木汗は寧の手を握ってその勇決を歎じ、乗っていた良馬を遺わし帳の前で寧に乗らせ、木汗自ら歩いて見送った。突厥は寧が図る事は必ず破れると考え、みなこれを畏憚し「これは中国の神智の人だ」と言った。班師にあたり木汗はまた寧に奴婢100口・馬500匹・羊1万口を遺わした。寧はそのまま州に還り、まもなく朝廷に召された。太祖が崩じると寧は悲慟してやまず、陵所に赴いて哀を尽くし、あわせて出師の勝利を告げることを願い出た。
  • 孝閔帝の践阼で小司徒を拝し、荆襄浙郢等52州及び江陵鎮防諸軍事・荆州刺史として出た。寧は識画があり兵に諳く、敵に臨んで偽を指摘するのはみなその策のとおりで、当時大いに誉れを得た。荆州にあってからは頗る奢縦となり、貪濁で法度を修めず、外出した際、州佐が法を曲げていると訴える者があったが、寧は帰ってから訴えた者に処罰を返したため、以後事あっても訴える者がなくなり、西州での声名を大いに損なった。保定3年、州で卒し、諡を烈といった。
  • 子の雄が嗣いだ。雄は字を世武といい、若くして勇敢で膂力は人に過ぎ、弓馬に便り筭略があった。14歳で寧に従い牽屯山で太祖を奉迎し、そのまま校猟に従い弓は虚発なく、太祖はこれを歎異した。まもなく太祖の女永富公主を娶り、使持節驃騎大将軍開府儀同三司を除せられ、累遷して駕部中大夫・司馭中大夫となった。柱国枹罕公辛威に従い金城を鎮め、そのまま軍中で卒した。時に年24。雄の弟の祥は父の勲により武遂県公の爵を賜り、祥の弟の雲もまた父の勲により武平県公の爵を賜り、司織下大夫・儀同大将軍を歴任した。雲の弟の威もまた父の勲により武当県公の爵を賜った。