辺境撫和の名臣
- 宇文測は字を澄鏡といい、太祖の族子。高祖の中山、曾祖の豆頽、祖の騏驎、父の永はいずれも北魏に仕え顕達した。測は性が沈密で若くして篤学、旬月も戸牖を窺わないほどであった。奉朝請・殿中侍御史から起家し、累遷して司徒右長史・安東将軍となり、宣武帝の女陽平公主を娶り駙馬都尉を拝した。魏孝武帝が斉神武に異図があると疑うと、測を太祖の元に遣わし、密かに備えるよう伝えさせた。太祖はこれを見て大いに歓び、還らせるにあたり広川県伯・邑500戸に封じた。まもなく孝武帝の西遷に従い、爵を公に進めた。太祖が丞相となると測を右長史とし、軍国の政事の多くを委任した。また測に宗室の昭穆遠近を詳定させ属籍に付させた。通直散騎常侍・黄門侍郎を除せられ、大統4年、侍中長史を拝したが、6年、事に坐して免ぜられた。まもなく使持節・驃騎大将軍開府儀同三司・大都督を除せられ汾州事を行った。
- 測の政は簡恵を存し民の和を頗る得た。地は東魏に接し、たびたび互いに鈔窃したが、寇として捕らえられた者があると多くは縛って送られてきたが、測はみなその縛を解かせ賓館に置き、その後客礼をもって引見した。さらに酒肴を設けて宴労し、その国へ放ち還し、糧餼を給し送って国境まで衛送した。これにより東魏人は大いに恥じ、寇をなさなくなり、汾晋の間はそれぞれ業に安んじ、両界の民は慶弔を通わせ再び仇讐とならなかった。時論はこれを称え羊叔子(羊祜)に方べた。ある者が測は外境と交通し弐心を懐いていると告げたが、太祖は怒って「測は我のために辺を安んじている、吾はその弐志がないことを知っている、どうして我が骨肉を離間させ、このような讒言を生むのか」と述べ、その者を斬らせ、測に便宜従事を許した。8年、金紫光禄大夫を加えられ綏州事を行うことに転じた。
- 毎年河の氷が結ぶと突厥がすぐに来寇し掠奪した。以前は常に居民を城堡に入らせて避けさせていたが、測が至ってからはみな旧の如く安堵させ、要路数百箇所に多くの柴を積ませ、遠く斥候を置いてその動静を知った。この年の12月、突厥が連谷から入寇し境界まで数十里に至ったところ、測は柴を積んだ箇所に一斉に火を放たせた。突厥は大軍が至ったと思い、恐れて逃走し、互いに踏み合い、雑畜及び輜重を捨てたものは数えきれなかった。測は徐ろに所部を率いてこれを収め百姓に分け与えた。これ以降突厥は再び来なくなり、測はこれにより戍兵を置いて備えることを願い出た。10年、太子少保を拝した。12年10月、位にあって卒した。時に年58。太祖は傷悼し親しく臨んで慟哭し、水池公護に喪事を監護させた。本官を贈り、諡を靖といった。
- 測は性が仁恕で施与を好み、衣食のほかは家に蓄積がなかった。洛陽にいた頃、窃盗に遭い失われたものはその妻陽平公主の衣服であったが、州県が盗人を捕らえ物も共に見つけると、測はこの盗人が死罪に問われることを恐れ認めなかった。盗人は赦に遇い免れた。盗人は恩を感じて測の左右に仕えることを願い出て、測が魏孝武帝に従い西遷した際も極めて狼狽した中でこの者も測に従い入関し、ついに異志を持たなかった。子の該が嗣ぎ、内外の官を歴任し上開府儀同三司・臨淄県公に至った。
宇文深(字奴干)――陳平に例えられた智謀
- 測の弟の深は字を奴干といい、性が鯁正で器局があった。数歳の頃、石を積んで営伍を作り草を折って旌旗を作り、その布置は軍陣の趣があった。父の永がこれを見て大いに喜び「汝は自然にこれを知る、後に必ず名将となろう」と述べた。永安初年、秘書郎として起家し、群盗が蜂起する中、深はしばしば時事を論じ、爾朱栄はこれを重んじ厲武将軍を拝させ、まもなく車騎府主簿を除した。3年、子都督を授けられ宿衛兵を領した。斉神武が兵を挙げ洛陽に入り孝武帝が西遷すると、事が倉卒に起こり人の多くが逃散したが、深は所部を撫循しみな入関することができ、功により長楽県伯の爵を賜った。太祖は深に謀略があるとして左右に引き致し政事を図議しようとし、大統元年に丞相府主簿に啓し朱衣直閤を加え、まもなく尚書直事郎中に転じた。
- 斉神武が蒲坂に屯し、その将竇泰を潼関に、高敖曹を洛陽の囲みに分遣すると、太祖は泰を襲おうとしたが諸将はみな難色を示した。太祖はその事を隠しあたかも謀がないかのように装いながら、独り深に策を問うた。深は「竇氏は歓の驍将で、頑凶で勇、戦うたびに勝って敵を軽んじ、歓は常にこれを恃んで防備としている。今もし大軍が蒲坂に向かえば、高歓は拒守し竇泰は必ずこれを援け、内外から敵を受けて敗を取る道である。むしろ軽鋭の兵を選んで密かに小関から出れば、竇の性は躁急で必ず決戦を挑んでくる、高歓は持重して即座には救わない、そうすれば竇を擒えられる。既に竇氏を虜にすれば歓の勢いは自ら沮み、回軍してこれを禦げば勝を制することができる」と答えた。太祖は喜んで「これぞ吾が心だ」と述べ、軍はついに出発し果たして泰を獲て、斉神武も退いた。深はまた太祖に𢎞農への進取を説き、再びこれに克った。太祖は大いに悦び「君はすなわち吾が家の陳平である」と述べた。
- この冬、斉神武はまた大衆を率いて河を渡り洛を渉り沙苑に至った。諸将はみな懼れの色があったが、深だけが独りこれを賀した。太祖が詰問すると「賊が来て充斥するのに何を賀するのか」と述べたのに対し、深は「高歓は河北を撫して大いに衆心を得ており、智謀は乏しくとも人はみなその命に従う、これによって自守すれば容易には図れない。今懸軍で河を渡るのは衆の欲するところではなく、ただ歓は竇氏を失ったことを恥じ、諫めを退けて来たのだ、いわゆる忿兵であり、一戦でこれを擒えることができる。この事は明らかに見て取れる、賀わずしてどうしよう」と答えた。深に一節を仮し王羆の兵を発してその退路を邀えさせ、遺類を残さぬようにすることを請うた。太祖はこれをよしとし、まもなく大いに斉神武の軍を破ったのは深の策のとおりであった。4年、河橋の戦に従った。6年、別に李弼の軍を監し白額稽胡を討ち戦功があり、俄かに侯に爵を進めた。通直散騎常侍・東雍州別駕・使持節大都督・東雍州刺史を歴任し、深は政を為すに厳明で民に信を示し、豪右を抑挫し、吏民はこれに懐いた。17年、入朝して雍州別駕となった。魏恭帝2年、車騎大将軍儀同三司・散騎常侍に進んだ。六官が建てられると小吏部下大夫を拝した。孝閔帝の受禅で驃騎大将軍開府儀同三司に進位し、吏部中大夫に遷った。武成元年、幽州刺史を除せられ安化県公に改封された。2年、宗師大夫を徴拝され軍司馬に転じた。保定初年、京兆尹を除せられ、入朝して司会中大夫となった。
- 深は若くして父を喪い、兄に事えることが甚だ謹しく、性は奇譎を多く好み兵書を読むことを好んだ。近侍にあってはたびたび籌策を進め、選曹にあっては当時の誉れを得た。性は仁愛で宗党に情が厚く、従弟の神誉・神慶が幼くして孤となると、深はこれを撫育し義は同気に均しく、世もこれをもって称えた。天和3年、位にあって卒した。使持節少師・恒雲蔚三州刺史を贈られ、諡を成といった。子の孝伯には別に伝がある。
史論
- 史臣は評していう。太祖は禍乱の時に当たり、征伐によって天下を定めた。大なるものは連兵百万で存亡を左右し、小なるものは辺境で転戦し旬月も止まなかった。それゆえ人は老いも若きも、士は賢も愚も、みな筆を投じて功を求め、戈を横たえて奮わぬ者はなかった。本篇に列した諸将は雲漢の翼を攀じ屯夷に功績を立て、時世が移っても名声は終始変わらぬ美事を成した。
- 赫連逹の先見の明に仁恕を加えた点、蔡祐の敢勇に不伐(功を誇らぬこと)を終えた点は、企て及ぶところではなく、天性によるものであろう。宇文測・宇文深の兄弟は政績・謀猷ともに述べるべきものがあり、当時の良臣というべきである。