地形と敵情に通じた将
- 韓果は字を阿六抜といい、代の武川の人。少くして驍雄で騎射を善くした。賀抜岳の西征に帳内として引かれ、万俟醜奴とその一党を撃ち、数十合転戦してこれを破った。膂力は絶倫で、甲を被り戈を荷って峰嶺を登るのも平路を行くがごとく、数十百日でも労とせず、功により宣武将軍・子都督を授けられた。太祖に従い侯莫陳悦を討平し、都督に遷り邯鄲県男の爵を賜った。魏孝武帝の入関後、石県伯・邑500戸に爵を進めた。大統初年、爵を公に進め邑を通前1000戸に増やし、通直散騎常侍を加えられた。
- 果は性が彊記で権略があり、通行した各地の山川の形勢をことごとく記憶し、敵の虚実を伺うことも善くし、渓谷に潜んで間偵をしようとする者があれば、果は高きに登って望み、疑わしい所には必ず収穫があった。太祖はこれにより果を虞侯都督とし、征行のたびに常に侯騎(斥候)を率い、昼夜巡察し眠ることも略ないほどであった。
- 潼関で竇泰を襲撃した際、太祖はその規画に依り軍は勝って還り、真珠金帯一腰・帛200匹を賞し、征虜将軍を授けられた。また𢎞農を復し河南城を攻抜し郡守一人を獲て功を論じ最とされた。沙苑を破り河橋に戦い、みな功があり、撫軍将軍・銀青光禄大夫を授けられ、邑900戸を増やされ朔州刺史に遷り、安州刺史に転じ帥都督を加えられた。9年、邙山の戦に従い、軍が還って河東郡守を除せられた。また大軍に従い稽胡を北山に破ったが、胡地は険阻で人跡罕であり、果は兵を進めて窮め討ちその種落を散らし、稽胡は果の勁健を憚り「著翅人」と号した。太祖はこれを聞き笑って「著翅の名、寧ろ飛将軍に劣るものか」と述べた。累遷して大都督・車騎大将軍儀同三司・驃騎大将軍開府儀同三司となり、宜州刺史として出て、前後の功を録され襄中郡公に進んだ。魏恭帝元年、大将軍を授けられ、賀蘭祥に従い吐谷渾を討ち、功により別に一子を県公に封じた。武成2年、また軍を率いて稽胡を破り生口を大獲し、奴婢100口を賜り、寧州刺史を除せられた。保定3年、少師を拝し柱国に進位した。4年、尉遅迥に従い洛陽を囲み、軍が退く際、果の部隊のみが全うできた。天和初年、華州刺史を除せられ、政を為すこと寛簡で吏民に称えられた。建徳初年に薨じた。子の明が嗣ぎ、大象末年に上大将軍・黎州刺史に至ったが、尉遅迥と共謀し誅せられた。