周書卷二十三 列傳第十五 蘇綽(弟椿)
蘇綽は字を令綽といい、武功の人。太祖に見出されて行臺郎中から大行臺左丞となり、六條詔書・大誥を起草するなど西魏の内政制度を整えた宰相格の人物。質素倹約を旨とし太祖の絶大な信頼を得たが、49歳で在職のまま没した。弟の椿も清廉な吏として知られた。
蘇綽――出自と抜擢
- 蘇綽、字は令綽。武功の人。魏の侍中則の九世孫にあたり、代々二千石の家柄。父の協は武功郡守。綽は幼くして学を好み群書を博覧し、とりわけ算術に長じた。従兄の讓が汾州刺史になった際、太祖(宇文泰)が東都門外で送別の宴を開き「卿の一族の子弟の中で誰が任用に堪えるか」と尋ねると讓は綽を推薦し、太祖は行臺郎中に召した。
- 一年余り勤めても太祖は綽の力量を深くは知らなかったが、諸曹の疑義はすべて綽に尋ねてから決裁され、公文の書式も綽が定めたため、台中では皆その手腕を称えた。のち太祖と僕射の周惠達が政務を論じた際、惠達が答えられず外で議論すると称して綽を呼び事情を尋ね、綽が即座に案を定めると、惠達がそれを太祖に呈し太祖が「これは誰の議か」と問うたところ、惠達は綽の名を挙げ王佐の才があると称えた。太祖は「私もそれは以前から聞いていた」と応じ、まもなく著作佐郎に任じた。
- 太祖が公卿と昆明池へ漁を見に行った途上、漢代の旧倉地に至り左右に由来を尋ねたが誰も答えられず、ある者が「蘇綽は博物多通だ」と推薦したため太祖が召して尋ねると、綽は詳細に答え太祖を大いに喜ばせた。さらに天地創造や歴代興亡の由来を問うと綽は弁舌よどみなく答え、太祖はますます喜んで並んで馬を進め、網も張らずに池を去り綽を夜まで留めて治国の道を問うた。太祖は横になって聞いていたが、綽が帝王の道と申不害・韓非子の要諦を説くにつれ思わず起き上がり座り直し、話は夜明けまで続いても飽きることがなかった。翌朝、太祖は周惠達に「蘇綽はまことの奇士だ、私はまさに彼に政治を任せよう」と語り、大行臺左丞として機密に参与させた。以後寵遇は日に日に厚くなり、綽は公文書の様式(朱出墨入)や戸籍・帳簿の制度を定めた。
蘇綽――内政の刷新と六條詔書
- 大統三年、齊神武(髙歡)が三方から侵攻した際、諸将の多くが分兵して防ごうとする中、綽だけが太祖と同意見で兵力を集中させ竇泰を潼関で捕えた。四年、衛将軍右光禄大夫を加えられ美陽縣子・食邑三百戸に封じられ、通直散騎常侍を加えられ伯に進み食邑二百戸を増した。十年、大行臺度支尚書兼著作・司農卿を授かった。太祖が政治を刷新し富国強兵の道を図ろうとしたため、綽はその智略を尽くして事を成し、官員を減らして郡県を二等に整理し屯田を置いて軍国の資とした。
- さらに「六條詔書」を作り上奏して施行させた。その内容の要旨は次の六条である。
- 治心(先ず心を治める) — 地方官はみな朝廷の命を受けて古の諸侯に等しい重責を担う。治民の要は何よりもまず自らの心を清浄に保つことにあり、私欲や邪念を離れて至公の理にかなえば、民は自然とこれに従う。君主・官吏はまず自らの身を正し、仁義・孝悌・忠信・礼讓・廉潔・倹約を実践し、明察を怠らないことが民を教化する礎となる。
- 敦教化(教化を篤くする) — 人は木石や禽獣と異なり中和の心と仁恕の行いを備えているが、その性質は教化次第で移ろう。長い戦乱で徳による教化が廃れ刑罰のみが行われてきたが、近年ようやく落ち着きを見せているため、牧守・令長は朝旨を奉じて教化を広め、孝悌・仁順・礼義を教え、民を慈愛・和睦・敬讓へ導くべきである。これが王道を成す道である。
- 盡地利(地の利を尽くす) — 民は衣食が足りて初めて礼讓の心を持てる。衣食は農耕によって足り、農耕を怠らせないためには官が季節ごとに農事を励行させ、農繁期には老若男女が力を合わせ、怠る者は罰するべきである。同時に牛のない家には融通しあうよう促し、桑や果樹の栽培、家畜の飼育も奨励する。政治は煩瑣すぎても簡略すぎてもいけず、時宜に応じた適度な督励が肝要である。
- 擢賢良(賢良を抜擢する) — 君主は独りで治めることができず賢臣の助けを必要とする。従来の州郡の属吏の登用は門地や刀筆の技のみを基準としがちだが、真に問うべきは志操と行いである。才芸があっても正直でなければ害をなし、身分が低くとも志行が正しければ卿相たりうる。人材がいないと嘆くのは求め方が足りないだけであり、勤めて審らかに人物を観察し、志行を第一に据えて任用すべきである。優れた官吏を得るには官の数自体を絞り無用の兼任を廃することも肝要である。
- 恤獄訟(訴訟を慎む) — 人には善悪の性があり、賞罰が適切であれば悪は止み善は勧められる。獄を治める官は事の真相を極め、誣告や冤罪を防ぎ、罪の軽重に応じた刑を科し、寛容と明察を尽くさねばならない。無実の者を誤って罰するくらいなら罪ある者を逃す方がまだよいとする先王の教えを重んじ、酷吏のように保身のために厳罰を科すことを戒める一方、真に姦悪深い者には重刑を科して民を清めるべきである。
- 均賦役(賦役を均しくする) — 国家の財は民から集められるが、豪強を免れさせ貧弱を苦しめるような不公平があってはならない。租税・徭役は事前に周知し、農閑期に合わせて準備させれば民は困窮せず、直前に急かせば商人が利に乗じ民をますます苦しめる。徴収や徭役の割り当ては郡県の正長の裁量に負うところが大きく、これが適切でなければ吏は姦をなし民は怨む。
- 太祖はこの六條詔書を深く重んじて常に座右に置き、百官に暗誦させ、六条と帳簿の法に通じない牧守・令長は任官できないとした。
蘇綽――大誥の起草
- 晉以来、文章が浮華に流れ風潮となっていたのを太祖は改めようとし、魏帝が宗廟を祭る機会に群臣が集った際、綽に命じて「大誥」を起草させ奏上した。その内容は、中興十一年(大統年間)に皇帝が柱國泰(宇文泰)以下群臣に対し、堯・舜・武丁の故事を引きつつ官職の任にある者の心構えを説き、国家草創の困難と歴代祖宗の功業を振り返り、君臣がそれぞれの職分に励み艱難を共にすべきことを説き、柱國以下の文武百官・地方官に至るまでそれぞれの職掌における戒めを述べ、三代の古い典範に立ち返り華美の風を捨てて誠実・道徳・仁義を重んじるよう求める内容であった。柱國泰以下群臣は拝礼してこれに応え、以後の公文書はすべてこの文体に倣うこととなった。
蘇綽――人柄と死
- 綽は質素倹約を旨とし財産を殖やそうとせず、天下の未平を自らの任として博く賢俊を求め共に治道を弘めることに努め、推薦した人物はみな高官に至った。太祖も心から信頼し隔意がなかった。太祖が外出する際は常に署名だけした白紙を綽に預け、処置が必要な事案は綽が随時裁断し、帰還後に報告を受けるのみであった。綽は常々「治国の道は民を愛すること父のごとく、民を教えること厳師のごとくあるべき」と語り、公卿との議論は昼夜を分かたず、事の大小を問わず掌を指すように明快であったため、思慮を重ねすぎて気疾を患い、十二年、四十九歳で在職のまま卒した。
- 太祖はその死を深く痛惜し左右も哀しみに動じた。葬儀にあたり太祖は公卿に「蘇尚書は生前謙虚で倹約を尊んでいた、その志を全うしたいが、世人が理解しないのではと恐れる、厚く贈諡すれば逆に生前の志に背く、進退窮まる」と語った。尚書令史の麻瑤が進み出て「昔、齊の晏子は一枚の狐裘を三十年着続け、死後は車一乗を遺しただけであったが、齊侯はその志を奪わなかった、綽の清廉な操持を思えば倹約に従うのがふさわしい」と述べ、太祖はこれを善しとし瑤を朝廷に推薦した。
- 綽の遺骸が武功に葬られる際、布車一乗のみで運ばれ、太祖は群公とともに徒歩で同州の郭門外まで見送り、自ら車の後ろで酒を注いで「尚書が生涯行ってきたことは妻子兄弟も知らぬことまで私は知っている、ただ卿だけが私の心を知っていた、共に天下を定めようとしていたのに、不幸にも私を残して逝ってしまった」と述べ、慟哭のあまり手にした杯を落とした。埋葬の日には太牢の祭を捧げ、太祖自ら祭文を作った。綽はまた『佛性論』と『七経論』を著し世に行われた。明帝二年、綽は太祖廟庭に配享された。子の威が跡を継ぎ、父の風格を受け継ぎ美陽伯を襲爵、晉公護の娘の新興公主を娶り車騎大将軍儀同三司懐道縣公に進んだ。建徳の初め御伯下大夫に遷り、大象末に開府儀同大将軍に至った。隋の開皇の初め、綽の前代における功名により詔して漢の張良・魏の劉廙になぞらえ、邳國公・食邑二千戸を追封された。
弟の蘇椿
- 綽の弟の椿、字は令欽。廉潔で慎重、決断力があった。正光中、関右の賊乱に応募して討伐に従い盪寇将軍を授かり、功を重ねて奉朝請厲威将軍中散大夫に遷り美陽子の爵位と都督持節平西将軍太中大夫を賜った。大統の初め鎮東将軍金紫光禄大夫を拝し賀蘭氏の姓を賜り、四年、武都郡守として出向し西夏州長史に改められ、帥都督として弘農郡事を代行した。椿は職務に精励し特に太祖に評価された。
- 十四年、當州郷帥の制が置かれた際、郷望が衆望に適う者でなければ選ばれない中、椿は駅伝で呼び戻され郷兵を率いた。その年、槃頭氏を破る功があり散騎常侍を加えられ大都督に進んだ。十六年、隨郡の征討から帰還すると武功郡守を除せられ、本邑であったため清廉倹約を旨として大小の政務に忠恕を尽くした。使持節車騎大将軍儀同三司を授かり侯に進み、武成二年、驃騎大将軍開府儀同三司大都督に進み、保定三年に卒した。子の植が跡を継いだ。
史論
- 史臣曰く、書経に「君主は賢者でなければ治まらず、賢者は君主でなければ用いられない」とある通り、人を知ることこそ賢明の証であり、賢者を用いることこそ臣下として当然の道である。しかし庖厨や胥吏の中に隠れた才徳の臣は世に稀にしか聞かれず、逆に無用な人材が世に溢れることも珍しくない。まことに前事の得失を鑑み、賢を求めて自らを虚しくし、その賢を知れば必ず用い、爵位を授けるに躊躇しなければ、舜・禹・湯・武の徳にも稷・契・伊尹・呂尚の輩にも比肩しうるであろう。
- 太祖は剣を提げて起ち、あらゆる制度を草創の中で整え、群雄が競り合う時代に倹約の法を施し、鼎立の時にあって治定の礼を修め、ついに彫琢を削ぎ落とし奢侈から倹約へと風化を成し遂げ、辺境が乱れる中にあっても内は親しみ外は帰服する国を築いた。これはひとえに蘇令綽(綽)の力によるものである。その名は当代に冠たり、慶びは後嗣に流れた、まことに宜なるかなと言うべきである。