春秋左傳事類始末斉人、鄆・讙・龜陰の田を帰す(齊人歸鄆讙龜隂之田)
魯定公が夾谷で斉侯と会見した際、孔子がその礼を補佐して斉側の武力による威嚇と無礼な誓約案を退け、饗応も辞退させたうえで、斉が鄆・讙・龜陰の田を魯に返還させるに至った経緯を記す一篇。
年表(1件)
- 魯定公十年(前500年)夾谷の会で孔子が斉の威嚇を退け鄆・讙・龜陰の田を返還させる
魯定公十年(前500年)
- 春、魯は斉と講和した。夏、定公は祝其(実は夾谷)で斉侯と会見し、孔子がその儀礼を補佐した。
- 犂彌が斉侯に「孔丘は礼を知るが勇気はない、萊の兵に魯侯を武力で脅させれば思うようになる」と進言し、斉侯はこれに従った。孔子は定公を退かせ、「両君が友好のために会するのに、東方の異民族の俘虜が武力で場を乱すのは、斉君が諸侯に命ずるやり方ではない。異民族は中華の政に関与せず、俘虜は盟に干渉せず、武力で友好を脅かすことは神に対して不祥、徳に対して過ち、人に対して失礼であり、斉君は決してそのようなことをなさらないはずだ」と抗議した。斉侯はこれを聞いて萊人を退けた。
- 盟約を結ぶ段になり、斉人が誓約書に「斉軍が国境を出る際、甲車三百乗をもって我に従わなければこの盟の如く罰を受ける」との一文を加えようとした。孔子は兹無還を遣わして「そちらが我が汶陽の田を返還しなければ、この命に従う我らも同様である」と揖礼して答えさせた。
- 斉侯は定公を饗応しようとしたが、孔子は梁丘據に「斉魯の故事をご存じないか。事はすでに成った、その上さらに饗応するのは執事を煩わせるだけだ。犠牲や酒器は本来門を出さず、盛大な音楽は野外では合奏しないもの。饗応に必要な物を全て揃えれば礼を棄てることになり、揃えなければ粗末な物を用いることになる。粗末な物を用いれば君の名を辱め、礼を棄てれば悪評が立つ、よくお考えいただきたい。饗応は徳を明らかにするためのものであり、明らかにできないなら行わない方がよい」と述べ、饗応は結局行われなかった。
- 斉人は魯に鄆・讙・龜陰の田を返還してきた。