春秋左傳事類始末衛、晋に叛く(衞叛晉)
晋の渉佗・成何による無礼な会盟を発端に衛侯が晋に叛いた経緯と、その後の斉衛連合と晋の攻防、渉佗の誅殺、さらに定公十三年の斉衛軍による河内攻めまでを記す、魯定公八年から十三年に及ぶ一篇。
年表(4件)
- 魯定公八年(前502年)渉佗の無礼を発端に衛侯が晋に叛くことを国人に諮り決断する
- 魯定公九年(前501年)衛が中牟の通過を経て斉を破り禚・媚・杏の地を得る
- 魯定公十年(前500年)晋が夷儀の報復に衛を包囲し渉佗が誅殺される
- 魯定公十三年(前497年)斉侯・衛侯が垂葭に駐屯し邴意兹の策で河内を攻める
魯定公八年(前502年)
- 斉侯・鄭伯が鹹で同盟し、衛への参会を求めた。衛侯は晋に叛こうとしたが大夫たちが反対したため、北宮結を斉に遣わし、ひそかに斉侯へ「結を捕らえて我が国に侵攻してほしい」と頼み、斉侯はこれに応じて瑣で盟を結んだ。
- 晋軍が鄟澤で衛侯と盟を結ぼうとした際、渉佗・成何が「自分たちが取り仕切る」と申し出た。衛人が牛耳を執らせるよう求めると、成何は「衛など温・原のような属邑に過ぎない、諸侯として扱えるものか」と侮辱し、歃血の際に渉佗が衛侯の手首を強く握って衛侯は激怒した。王孫賈が進み出て「盟は信義と礼のためのもの、衛君ほどの方が礼を守らないはずがあろうか」と取りなした。
- 衛侯は晋に叛きたいが大夫たちの反対を憂い、王孫賈に軍を郊外に留めさせ、大夫たちに晋の受けた侮辱を語り、「わが不徳のため、跡継ぎを改めて占ってほしい」と言った。大夫たちは「これは衛の禍であり君の過ちではない」と答えた。公はさらに「晋は我が子と大夫の子を人質に求めるだろう」と案じたが、大夫たちは「利があるなら公子を人質に出そう、我らの子も従わせる」と応じ、出発の準備を進めた。
- 王孫賈は「衛に難があれば工商の民も憂いとなる、彼らも同行させるべきだ」と進言し、公はこれを大夫に伝えて全員出発の運びとなった。出発の日、公は国人を朝廷に集め、賈に問わせた。「衛が晋に叛けば晋は五度攻めてくるだろう、それに耐えられるか」。皆「五度攻められても十分戦える」と答えた。賈は「それならば叛いて苦しんだ後に人質を出しても遅くはない」と言い、衛はついに晋に叛いた。晋は盟を結び直すことを求めたが衛は許さなかった。
- 秋、晋の士鞅は成桓公と会し鄭を侵し、続いて衛を侵した。
魯定公九年(前501年)
- 秋、斉侯が晋の夷儀を攻めた。敝無存の父は彼を結婚させようとしたが、敝無存は弟に譲って「この戦で死ななければ、帰って髙・国の家から嫁を娶ろう」と言い、先陣を切って城門から突入し、軒下で戦死した。東郭書と犂彌は互いに先陣の功を譲り合い、「お前が左へ譲れ、私は右へ譲る、登った者が絶命してから降りよう」と約し、書が左、彌が先に降りた。
- 晋の戦車千乗が中牟にあり、衛侯が五氏へ向かおうとして占ったところ亀甲が焦げたが、衛侯は「よし、衛の兵車と自分とで敵の半分に当たれば互角だ」と言って中牟を通過した。中牟の人々は衛を討とうとしたが、中牟に亡命していた衛の褚師圃が「衛は小国とはいえ君主自らが陣中にある、侮れない。斉軍はすでに城を落として驕り、将は兵を粗略に扱っているので必ず斉に敗れるだろう。斉より衛に従う方がよい」と説き、ついに斉軍を攻めてこれを破った。斉侯は禚・媚・杏の地を衛に譲り渡した。
- 斉侯が犂彌を賞そうとしたが、彌は「先陣を切った者がいて自分はそれに従っただけだ、白い頭巾に狸の皮衣の者だった」と辞退した。公が東郭書を見せると「まさにその人だ、賞を与えたい」と言ったが、書も「あの者は他国からの客に過ぎない」と辞退し、結局犂彌が賞を受けた。斉軍が夷儀にあったとき、斉侯は夷儀の人々に「敝無存の遺骸を得た者は五家分の税を免じる」と告げてその屍を得た。公は三度衣を贈り、犀軒の車と真っ直ぐな傘蓋を与えて先に帰らせ、柩を引く者には軍を挙げて哭礼を行わせ、自ら三度柩を押した。
魯定公十年(前500年)
- 晋の趙鞅が衛を包囲した、夷儀の戦の報復である。以前、衛侯が邯鄲午を寒氏で攻めた際、その西北に城を築いて守らせたが、夜のうちに士気は崩れていた。晋が衛を包囲すると、午は兵七十人を率いて衛の西門を攻め、門中で人を殺して「寒氏の役の報復だ」と言った。渉佗は「彼は勇ましいが、私が行けば決して門を開けさせない」と言い、自らも兵七十人を率いて夜明けに門を攻めたが、兵は左右に立ち並んだまま、日中になっても門は開かず、ついに退いた。
- 戦役の後、晋人は衛の叛乱の原因を渉佗・成何にあるとして渉佗を捕らえ、衛との和議を求めたが衛人はこれを許さなかった。晋人はついに渉佗を殺し、成何は燕へ亡命した。君子はこれを「礼を棄てた報い、その罰は均しくない」と評し、詩経の「人にして礼なくば、なんぞ速やかに死なざる」を引いて、渉佗もまた速やかに死んだと評した。
魯定公十三年(前497年)
- 斉侯・衛侯が垂葭に駐屯し、軍を発して晋を攻めようとした。黄河を渡ろうとする際、大夫たちは皆反対したが、邴意兹だけは賛成し「精鋭を率いて河内を討てば、報せが晋の都・絳に届くまで数日、絳から河まで出るのに三月はかかる、その間に我々はすでに渡河している」と説いた。そこで河内を攻めた。斉侯は諸大夫の車を取り上げたが、邴意兹だけは車に乗ることを許された。