春秋左傳事類始末邾荘公、性急で潔癖を好む(邾莊公卞急而好潔)

気が短く潔癖な性格の邾の荘公が、門番との些細な諍いから怒りのあまり炉に落ちて死に至った顛末と、召陵の会で衛と蔡のどちらを盟の席次で先とするかをめぐり、祝佗(子魚)が先王分封の故事を説いて衛を上位に置かせた経緯を併せ記す。

年表(3件)

魯定公二年(前508年)

  • 邾の荘公は夷射姑と酒を飲んでいたが、酒が尽きたためひそかに退出した。門番が彼に肉をねだったところ、逆に杖を奪われて叩かれた。

魯定公三年(前507年)

  • 二月辛卯、邾子が門台にいたところへ、門番がわざと廷に水をこぼした。邾子はこれを見て怒り、門番を捕らえようとしたが逃げられ、いよいよ怒って寝台から身を投げ、炉の炭に落ちて大火傷を負い、ついに死んだ。
  • 葬儀では車五乗と殉死者五人を先に葬った。清潔なまま亡骸を収めたかったためという。車は本体と別に副室へ納めるのが遺言だったともいう。荘公は気が短く潔癖な性格であったため、このような最期を迎えたとされる。

召陵の会と衛侯の席次(劉文公)

  • 劉文公は諸侯を召陵に集め、楚討伐を謀った。衛の霊公は子行敬子の進言を容れ、祝佗(子魚)を随行させようとしたが、子魚は祭祀を司る自らの職分を理由に固辞した。しかし霊公は行かせた。
  • 皐鼬に至り、蔡と衛のどちらを盟の席次で先とするかが問題となった。子魚は萇弘に対し、先王の分封の由来(周公・康叔・唐叔らの功徳と、分与された宝物・民・領地)を説き、管叔・蔡叔がかつて商の遺民を煽動して王室に叛いた故事を挙げ、蔡(蔡叔の子孫)より衛(康叔の子孫)を先にすべきだと主張した。あわせて践土の盟でも衛が蔡に先んじた例を示した。
  • 萇弘はこれに納得し、劉文公・范献子と諮って衛侯を盟の席次で蔡より上に置いた。