春秋左傳事類始末楚の子常、子西を立てんと欲す(楚子常欲立子西)
楚が新たな城邑に民を移す政策を子大叔が凶兆と評した翌年、平王が卒すると令尹子常が子西を王に立てようとしたが子西自身が拒み、太子壬(昭王)が立てられた2年間の出来事。
年表(2件)
- 魯昭公二十五年(前517年)楚の築城・遷民を子大叔が王の死の兆しと評する
- 魯昭公二十六年(前516年)平王没後、子西が擁立を拒み太子壬(昭王)が即位
魯昭公二十五年(前517年)
- 楚は薳射に命じて州屈に城を築かせ茄の民を移し、丘皇にも城を築いて訾の民を移し、熊相禖には巣・卷の地を治めさせた。子大叔はこれを聞き「楚王はまもなく死ぬだろう、民をその土地に安んじさせなければ民は必ず憂え、王も久しくは持たない」と述べた。
魯昭公二十六年(前516年)
- 楚の平王が卒すると、令尹の子常は子西を王に立てようとし、「太子壬は幼くその母も正妃ではない、王子建はかつて子西の母を娶わせようとした縁があり、子西は年長で善を好む、年長者を立てれば順であり善人を立てれば国は治まる」と説いた。しかし子西は怒り、「これは国を乱し君王を害する策だ、国に外部からの援けがある以上みだりに動かしてはならず、王には正統な後継がいる以上乱してはならない、親を裏切り讐を招き嗣を乱すのは不祥である、天下を賂とされても私は従わない、なぜ令尹を殺さないのか」と拒んだ。令尹はこれを恐れて太子壬(昭王)を立てた。